最終話 ファーストキスの味
少女は、俯いて顔をあげることのできない青年画家の両肩をゆすりながら言う。
「キースは、一人じゃないでしょ! 私だって、パトラッシュだって、いつも傍にいるじゃないの。だから、泣かないでよ。こっちまで哀しくなっちゃうじゃないの」
「だって、みんなが、俺を置いて遠くにいっちまうから」
「行かないわよ、ずっと傍にいるわ!」
その直後に一瞬、キースは言葉を詰まらせた。だが、すぐにアトリエの隅を指差して、
「嘘ばっかり……なら、あそこに用意してある旅行鞄は何なんだよ」
今度は、ミルドレッドが口を噤む番だった。さっきまで泣いてた割には、いやに冷静に回りを見ている。今に始まったわけじゃないけど、何で、こいつって突然、こうなるのよ。
「遊学には……行くわ。でも、一緒に行きましょう! 私がお父様に直談判する。当たり前じゃないの。あんたは、今回の1番の功労者なんだから」
どこかで聞いたような話が、今度は娘の方から出てきたと、青年画家は焦ってしまった。ミルドレッドと一緒に行く留学の話は、1ケ月前に、彼女の父の方からとっくにオファーされていたのだから。
お嬢様は言う。
「それに、約束、約束って言うけれど、私との約束は忘れてないでしょうね。私はキースが、この学園に来た時に言った台詞をはっきりと覚えているわよ。”俺は、将来、ピータバロ・シティ・アカデミアと聖堂美術館を手に入れる男だって”」
その時、琥珀色の瞳の青年は、はっと目を瞬かせた。
そうだ……それを忘れていたんだ。ここに来たとき、俺は、自分自身にそう誓ったんだ。
「だから、その夢を一緒に叶えましょう。それは、もう約束なんかじゃなくて、私の夢でもあるの。だから、それを現実にするために私はずっと、キースの傍にいる。一緒にいましょう。これからもその先もずっと私たちの夢が叶うまで」
そんな彼女の漆黒の眼差しは真摯な輝きに満ちていて、キャンパスの上には絶対に描ききれないと、青年画家は思った。
「ずっと、一緒に……俺なんかと一緒で本当にいいの」
何度も頷くミリー。
「こんな貧乏画家でも」
「いいわよ!」
「でも、ナシルには、散々、悪口言ってたよな」
「……意外と恨みっぽいのね」
「でも、夢が叶ったとしたら、その後は?」
「……その後?」
その一瞬、不思議な感情が二人の間に交錯した。
その後に、二人が離れることなんて、できるんだろうか。
お互いの行く道が別れてしまうなんて……考えることができない。
霧が晴れるように、徐々に迷いが消えてゆく。
そう、ずっと一緒にいて欲しいのは……。
突然、キースはミルドレッドの肩に手をまわし、自分の元へ引き寄せた。
「俺、馬鹿だった。やっと、それに気づいた」
ぎゅっと抱きしめられた腕の隙間から見たキースの琥珀色の瞳がいつもの数百万倍も輝いて見える。
何の蟠りもない率直な気持ちが、止めるに止めれない引力を二人の間に引き起こす。ふわふわした気持ちが脳裏を巡った。もう、離れることなんて出来やしない。
二人の顔と顔が自然と近づいてゆく。
お嬢様は焦った。
……これは、これはっ! まさか、まさかっ、キースと
ファーストキス……?!
心臓が爆発しそうだった。……が、ここで死ぬわけにはゆかない。至福の時を待つために目を閉じる。
けれども……、
「キース、今までありがとう!」
突然、ミルドレッドの口から飛び出した別の声。あまりにも唐突なことだったので、その鈴の鳴るような声には、キースは気づきもしなかったのだが、
……が、その直後、
「ん……? え、ええっ」
きょとんと目を瞬かせるミルドレッド。
確かに二人はキスを交わしたのだ。ムードは文句なしに盛り上がっていた。けれども、
嘘っ、何にも感じなかった! レモンの味どころか、唇が触った感じですらも!
スッカスカ、本当になぁんにもっ。
嘘、嘘っ、これが、ファーストキスなんてっ?
唖然と目前の青年画家に目をやるお嬢様。彼の手はまだ、彼女の肩にかかったままだ。
「キースっ!」
焦った顔で、声を荒らげる少女。
「な、何……?」
じっと見つめあう二人。
「今のもう1度、やってっ!!」
「……」
「ねぇ、もう1度っ!」
とたんに、キースの瞳に困惑の色が浮かび上がる。
「や……だよっ。そんな恥ずかしいこと」
「……!!」
しきりに照れながら、アトリエに入って行ってしまった青年画家。その後ろ姿を見送りながら、
何っ、一体、何が起こったの?
ミルドレッドは煙に巻かれたような表情で、ぺたんとその場に膝をつく。
大好きな人とのファーストキスなのに、何も感じなかったなんて!
そんな少女の耳元をかすめて、柔らかな風が吹き抜けていった。
相棒とお嬢様の様子を眺めていた中型犬は、その時、初夏の陽光にきらりと輝いた木漏れ日の中で、あの洋館の中で聞いた幽霊の少女 ― アンナ ― の声を聞いた。
”ごめんっ。でも、私もこれで心置きなく、天国へ行くことができるわ”
パトラッシュは、その声に、くわんと抗議の声を出す。
”ファーストキスを横取りなんて、ちょっと酷いんじゃないの”と。
すると、
”堅いこと言いっこなし。その娘はこれから何百回だって、キースとキスできるんだから”
ころころと鈴の鳴くような声で笑いながら、光が空に昇ってゆく。中型犬はきらりと雲の間に身を翻して空気の中に消えた少女の姿を見上げながら、まぁ……いいかと、何度も尻尾を振った。
そして、くわんと1つ鳴いてから、まだ、狐に化かされたような顔をしている、お嬢様の頬をぺろりと舐めた。
* *
1年後。
美術学校ピータバロ・シティ・アカデミアは、世間を騒がせた不名誉な事件の傷も癒え、元通りの名門校に戻りつつあった。数年後には、提携している聖堂美術館とともに経営者も若手に切り替えて経営を刷新するとの発表もあった。そんな折も折、正門から出てきた1台の豪華リムジン。向かう先は、聖堂美術館と隣接した、老舗の高級ホテル……なのだが。
「キース! キースっ。一体、どういうつもりよ。今夜は、大事なお披露目のパーティだっていうのに、そんな物を乗り回してるだなんてっ」
華やかに着飾った少女が、リムジンの後部座席から身を乗り出す。その横には、腕のよいトリマーに毛並をそろえてもらった中型犬パトラッシュとその彼女が、仲睦まじくお座りしていた。
「まだ、夜までには時間があるし、せっかく、大型バイクの免許を取ったから、ちょっと下見がてらに聖堂美術館まで行ってこようと思って」
「ちょっと……免許取り立てなんでしょ。こんな大切な日に、事故でも起こしたらどうするの」
「大丈夫、今は筋トレして、この重いゼファーの車体だって、簡単に起こせるくらいにはなったんだから。それより、海外へ行く前に、美術館通りの展示物をマスターたちと打ち合わせとかないと」
まったく、最近のキースは、私やパトラッシュのことより、ゼファーに乗ることと、もうすぐ、行われる聖堂美術館通りの展覧会にばかり、気をとられてるんだから。
それでも、仕方がないかと、ミルドレッドはため息をつく。イヴァン・クロウが残していったゼファー1100を乗りこなすために、彼が日夜、努力して筋トレとか整備とかをしてきたのを見ていたし、忙しいのは、何ていっても、キースは、聖堂美術館の次期、館長候補なのだから。
ミルドレッドの父、カーンワイラー氏は、キースと彼女の意思を受けて、二人の婚約を認めたのだ。その後、何だかんだと野暮用が重なり、やっと今日のお披露目のパーティにこぎつけた。
二人はその数日後に海外に遊学する。目的はもちろん、キースは聖堂美術館の正式な館長となり、ミルドレッドが、ピータバロ・シティ・アカデミアの経営者となるためである。
「好きにしていいけど、打合せとか着替えとか、色々あるんだから、早めにホテルに来てよねっ。私、待たされるのは嫌よ」
そんなお嬢様の乗るリムジンの傍に、漆黒のバイクに乗ったまま車体を寄せると、キースは優しく微笑んだ。
「分かってるって。今日は待たせたりしないから」
「……」
そんな青年画家の琥珀色の瞳は、前にも増して、ミルドレッドを魅了する。
爽やかな風がどこからともなく吹いてくる。ミルドレッドは、バイクの上から自分を見下ろしてくる琥彼の瞳の奥に白く輝く天使の羽を見つけた気がした。
すこし、気恥ずかしくなって、隣の彼の相棒の方に視線を向けてはみたが、パトラッシュはお隣の彼女に夢中のようで、ミルドレッドに視線を返してはくれなかった。お嬢様は、少し膨れた後に、小さく微笑む。
「キース」
「何?」
窓越しに、彼を呼んだその後に言葉はいらなかった。
ミルドレッド・カーンワイラー16歳。キース・L・ヴァンベルト 21歳。
その日に婚約する二人は、リムジンとゼファーに乗ったまま、柔らかなキスをする。
* *
この5年後に、ミルドレッドは、ピータバロ・シティ・アカデミアの学長となり、やがては、若い芸術家の育成に力を注ぎ、欧州美術界を手広く牛耳るシティ・アカデミアの総帥と成長してゆく。
また、画家にして聖堂美術館館長となったキース・L・ヴァンベルトは、ミルドレッドの伴侶として良き参謀となり、持ち前の機転良さを駆使して、聖堂美術館通りを活性化させたのは言うまでもない。
【ピータバロ Last Touch ~最後の仕上げ】
~完~
* *
本編、完結しました。
まだ、サイドストーリーがありますので、引き続き、よろしくお願いします。




