24.聖ミカエルの肖像画
1ヶ月後、ピータバロ・シティ・アカデミアのアトリエでキース・L・ヴァンベルトは、一心に絵筆を動かしていた。
あの夜、ロンドン塔近くのヨットハーバーからイヴァンが姿を消してから、彼のやることといったら、あんなにきちんとしていたパトラッシュの毎日の散歩も簡単に済ませてしまって、物に憑かれたように絵を描くことだけだった。
「できた……」
ため息まじりにキースは絵筆をおろす。それなのに、
「ちょっと、絵が完成したっていうんだから、もうちょっと達成感のある顔しなさいよ。何よそのしけた顔は」
青年画家の許しを得て初めてその絵を目にしたミルドレッドは、
「それって、イヴァンと約束してた絵ね。ミカエルの肖像画……もしかして聖堂美術館にある絵のオマージュ?」
イヴァン・クロウと約束した絵は、未だに聖堂美術館にかけられたままだ。
ミルドレッドにキースの描いた絵をその贋作と言わず、オマージュ(優れた芸術品に敬意を捧げるために作られた作品)と言わせしめた訳は、その絵には、オリジナルには見られない、熾天使ミカエルの背後から差し込む淡い光が描かれていたからだ。
「綺麗ね。いつも言うけど、やっぱりオリジナルより、キースの絵の方が私は断然好きだわ」
だが、もっとよく見ようと、絵に歩み寄って行った時、
「これ……近づいて見ると、光の中に人の姿が見えるのね」
描かれた聖ミカエルに向かって、膝まづくように祈りを捧げている男。けれども、少し離れてしまうと、その姿は光に溶け込んでもう見えない。その清廉とした美しさと、微妙な光具合に人の姿を織り込んだキースの技術に、ミルドレッドはため息をもらす。
「ね、これ、もしかして、イヴァン?」
絵の中の男は黒のバイクスーツ姿の彼とは、まるで違ったのだけれど、彼女は直感的にそう感じた。柔らかく笑った時の彼は、本当に聖ミカエルにかしづく殉教者のようだったから。
だが、はぁ……と、完成した絵の傍でうな垂れるばかりの青年画家を見て、
「ちょっと、キースっ、それ、いい加減にやめなさいよっ」
「だって、俺は約束を守れなかったんだ……あいつは、用心棒の役割を立派に果たしてくれたのに、受け取れないまま、消えていなくなっちまった。せめてこの絵でも渡せたらって思うと……あああああ」
彼が消えてしまった跡に残されたゼファー1100。それは、いつ、取りにきてもいいように、持って帰って、シティ・アカデミアの中庭に置いてある。けれども、1ヶ月がたっても、持ち主はやってこない。
こんなにジメジメしたキースを見るのは初めてで、本来なら、張り倒してでも、外に引っ張りだしてしまうところだが、イヴァンが彼らをどれだけ助けてくれたかを思うと、さすがのお嬢様も今回だけは邪険にはできなかった。
「分ったわよ。分ったけど、せめて、パトラッシュの散歩くらいは、ちゃんと行きなさいよ。私だって、あと少ししたら、ここにはいなくなるんだからねっ」
ミルドレッドは、彼を横目で見ながら、海外への遊学の準備を渋々と進めていた。もちろん、目的は将来のシティ・アカデミアの経営者になるためだ。……が、勉強に出るのは、彼女一人で、キースの身分は相変らず契約画家のままだったのだ。
例の暴露劇の後、美術学校ピータバロ・シティ・アカデミアと聖堂美術館は、ミルドレッドの父、W・ジェームズ・カーンワイラー氏が買収し、裏家業の罪はすべて、女教師レイチェルとエクソシストの牧師の陰謀ということで事件は終結した。
キースがはっきりと意思表示をしなかったせいか、カーンワイラー氏から、ミルドレッドとの留学も、聖堂美術館の館長就任も……もちろん、婚約の話も出ることはなかった。ミルドレッドは、そんな話が父とキースの間で交わされたことも知らないらしい。それにほっとした反面、
「もう少しでいなくなる……か」
その少女の言葉が、青年画家の心をまた憂鬱にさせる。これで良かったんだという気持ちと、何か大切なことを忘れているんじゃないかという気持ちが交錯する。すると、その時、アトリエの扉をノックする音が聞こえてきたのだ。
「誰?」
ミルドレッドが声をあげた。
「お届け物です。撤去された贋作村からの物ですが」
どうやら、シティ・アカデミアの事務員の声のようだ。そういえば、スコットランドの贋作村は警察の調べが入った後に潰されたんだっけ。
興味をしめさないキースの代わりにパトラッシュが扉口に駆けて行って、くわんと鳴いた。事務員が持ってきたのは、ワゴンに乗せられた数十枚の絵画だった。
扉をあけたミルドレッドが、思わず、ぷうっと頬を膨らませる。
「これって、キースが欲しがってた。あの女の子の肖像画じゃないの!?」
「えっ、女の子のって、まさか、アンナの!?」
そいうえば、あの幽霊の少女を描いた肖像画は、贋作村にそのままになっていたんだっけ。4年前のクリスマスにキースが、アンナに集めてくれと依頼された、11枚の肖像画。その中の1枚はグレン男爵から譲り受けてアトリエにあり、最後の12枚目はキースが描いて、それもここに置いてある。
何で、今頃、後の残りが俺のアトリエに届くんだ? 扉口へ駆け寄る青年画家。すると……
「えっ、えっ、ええっ!!」
その絵よりも、彼が驚いたのは、事務員の後ろから現した長身の男の姿だった。
カーキ色のスラックスに白のシャツ。けれども、その髪は目の梳くような亜麻色で、瞳は湖底に揺れる影のような深い灰色。
それにしても、全然、違うじゃんか!
キースは、漆黒のバイクスーツに身をかため、闇を纏っていた彼と、今の彼との変わりように思いきり目を瞬かせた。
* *
「お前っ、今までどこで何をやってたんだよ! そ、それに、その恰好はどうしたんだ。すっかり好青年っぽくなっちゃって」
トレードマークだった黒のバイクスーツと全く違う出で立ちの男に戸惑うキース。
すると、イヴァンはその気持ちを受け止めるかのように、優しく笑った。
「そう驚くなよ。絵ができたんだろ。それを受け取りにわざわざ来てやったんだから」
何故、絵が完成したのを知ってるんだよと、その質問をキースはイヴァンに投げかける気にはなれなかった。
今、自分がやるべきことは、彼との約束を守ることだけ。けれども、それを終えてしまった後のことを思うと、キースは切ないような気分になってしまうのだ。
イーゼルから、油絵具もまだ乾かない絵を取り外し、それをイヴァンに差し出す。ミルドレッドとパトラッシュが、驚きも醒めぬままの顔でそれを見つめている。
「これ、聖堂美術館の絵じゃなくて、俺が描いた聖ミカエルの肖像画だけど、それでもいいのか」
頷く、イヴァン。
「ただし、この少女の肖像画も俺がもらってゆく」
「この絵を? でも、この絵は俺の描いた物を加えると12枚もあるんだけど」
「その最後の1枚も含めて、12枚すべてだ。あの娘はそう言ってた」
「……」
意味深な笑みを浮かべるイヴァンに、キースは言葉を返すことができなかった。
すると、イヴァンは絵を持ってきた事務員に12枚の絵とキースの描いたミカエルの肖像画を中庭に運ぶように指示を出した。
「ねぇ、どういう事? こんなに沢山の絵を中庭に持って行って、一体、どうしようっていうの」
ミルドレッドの問いにも、イヴァンは答えない。ただ、くるりと背を向けて中庭に向かってゆく彼の背中が妙に儚げで、キースは不安でたまらなくなってしまった。
* *
空はやけに青く澄んでいた。曇りがちなピータバロ市の天候でも、夏の初めは爽やかな日が幾日か続く。湿気を含まない涼しい風が、中庭に立つイヴァンの亜麻色の髪をなで上げてゆく。それが、やけに、綺麗に思えた。
12枚目の肖像画を中庭の中央に下ろさせた後で、イヴァンは事務員に礼を言い、持ち場に戻るように指示を出した。
「……イヴァン、一体、どうする気なんだ」
心もとない顔で彼を見つめる青年画家と、お嬢様と、中型犬。すると、
「悪く思わないでくれよな。これもあの少女からの頼みなんだ」
「アンナの……」
イヴァンは、ポケットから古いマッチを取り出し、肖像画の山の中にそれを放り込んだ。
「あっ!」
キャンバスの一枚が燃え立つ瞬間、
「止めてっ!! その絵を燃やさないで!!」
イヴァンの前に飛び出してきたミルドレッド。しかし、
「ミリー、邪魔しちゃ駄目だ」
そんな彼女の肩を掴み、制止したキース。
「だって、だって、あれはキースの大切な絵なんでしょ……」
「いいんだ。燃えたっていいんだ。あれは本来は俺が持つような絵じゃなかった。きっと、あの娘は12枚の肖像画を持って、満足して天に召されてゆくんだ」
燃える炎の中で、こちらに微笑みかけるクリスマスの少女。青年画家と幽霊の少女のこれまでの経緯を未だに解さないお嬢様は、彼がうるうると琥珀色の瞳を潤ませる訳が今一つよく分からない。
ただ、燃え立つ炎と立ち込める煙に、キースが描いた”ミカエルの肖像画”を持って、イヴァンが近づいて行った時、どうしようもなく哀しくなってしまった。
「イヴァン、それも燃やす気か」
青年画家の問いに黙って頷くイヴァン・クロウ。
「それで、その後にお前はどこへ行くんだよ!」
「……あのバイクは、お前にやる。捨てるなり、乗るなる好きにしろ」
「……そんな事を聞いてるんじゃない。お前はどこに行くのかって聞いてるんだよ」
こらえていた問いが、我慢しきれず口から溢れ出てくる。灰色の瞳の男は、誰に向かうでもなく、その答えを返した。
「……俺はずっと天使が来るのを待っていたんだ。でも、この絵を手にしたことでやっと終止符が打てる」
「待って! もう少し待って」
けれども、キースの制止を無視して、イヴァンは手にした”ミカエルの肖像画”を炎の中に投げ込んだ。
それから先のことは、キースもミルドレッドもパトラッシュもあまりよく覚えていない。
ただ、空から羽が……光と共に真っ白な羽が降ってきただけ。
「天使が……天使が彼を迎えにくる」
気がつけば、彼らは燃え滓だらけの中庭に立っていた。そこには、もう、イヴァンの姿はなく、ゼファー1100、彼の漆黒のバイクだけが残されていた。
「みんな、行っちまった……」
がくんとその場に膝をつくと、青年画家は堪えていた感情を吐き出すように深いため息をついた。
アンナもイヴァンも……幽霊だって、何だって、俺は良かったのに。傍にいてくれるだけでも良かったのに……。
俯いたままのキースを心配して、彼の元へ歩み寄ってきた時、ミルドレッドは、はっと漆黒の瞳を瞬かせた。なぜなら、
「キース、あんた、泣いてるの……」
それが、お嬢様の心をきゅっと締め付けた。
* *
お話は、あと少しで完結ですが、ここにきてマウスが永眠しました……パソコン本体の機能でカーソル操作してるけど、使いにくい~。超高性能なマウスが欲しい。……が、資金なし。マウスって夏のバーゲンとかあったっけ?




