22.イヴァンの洗礼
「キースの馬鹿っ、薄情者の女たらしっ!」
わき目も振らず、3階の部屋への階段を駆けあがるお嬢様。
知らず知らずのうちに目が潤んでくる。もっと、和やかに彼と話がしたいのに、何でいつも、こうなってしまうのだろうと。
とりあえず、自分の部屋で大泣きしてしまおう。こんな顔をしているのを他の誰かに見られたくない。
……が、
階段の途中で、そんな彼女の腕をがしりと捉えた者がいたのだ。
不審げに隣を見上げたミルドレッドは、えっと目を瞬かせた。
亜麻色の髪に黒のバイクスーツ?
「イヴァン? ……でも、いつの間にここに来たの?」
さっきまでは、誰もいなかったのに。
「心外だな。そんな台詞を聞くなんて。俺を呼んだのはお嬢ちゃんの方じゃなかったのか」
少女の泣きっ面の涙を指先でそっとぬぐう。そして、イヴァンは優しく微笑んだ。すると、ミルドレッドの堪えていた瞳から、どっと涙が溢れ出てしまった。
やだ、やだ……そんな顔されたら、もう、我慢できない。
「だ、だって、だって……せっかく看病してあげたのに、キースがキースが、えっ、えっ……」
まるで子供だと思ってみても、切れてしまった堰の水はなかなか止めることはできないのだ。イヴァンは、多少覚めた瞳を向けて、
「ふぅん、あいつの看病ね……」
その一瞬、違和感を覚えて、ミルドレッドはイヴァンの方をもう一度見上げた。灰色の瞳の中に妙に輝く紅の光がある。
何かが変。
それが、彼女を躊躇わせた。
「えっと、私、ちょっと用があるから、お話は後、後ね!」
異質なオーラを感じてか、そそくさと階段を上がってゆく少女の第六感の鋭さに、イヴァンは肩をすくめる。するとその時、階下の廊下を歩いてゆく初老の男の姿が目に入ってきたのだ。
きっちりと撫で付けられた白髪と恰幅のよい堂々たる歩きっぷりが、いかにも実力者風。おまけに、仕立てのよいブランドスーツが、もの凄く金持ちっぽい。それはそうだろう。その男は、W・ジェームズ・カーンワイラー。ミルドレッドの父 ーこの豪邸の当主ー だったのだから。
あいつがいる部屋に何の用だ?
カーンワイラー氏が入って行った部屋は、キースが寝かされている部屋だったのだ。
今回の事件の首謀者の話を聞きに来たってところか、それにしてみても、普通は側近あたりが来るものなのに。
イヴァン・クロウは、その男が入っていった部屋を見つめて眉をひそめた。
* *
キース・L・ヴァンベルトは、ベッドの上に起き上がると、飛び出していってしまったミルドレッドのことをあれやこれやと考えていた。
「あの娘は、いい子なんだけど、色々とやり過ぎるんだよな」
傍にやってきたパトラッシュに憮然とした瞳を向ける。そういえば、彼女がこちらに帰ってきてから、喧嘩ばかりで何となく心地が悪い。
俺だって、ミリーがアンナぐらいに大人しかったら、もっと優しくしてやれるのに。とはいっても、東洋マフィアを相手にした幽霊の少女の撃退ぶりを考えると、そうともいえないか。
「ああ……あのワガママお嬢さんを何とかしてくれよ」
独り言とも、パトラッシュへの呟きとも分らぬ声を出す。すると、
「どうも母親を早く失くして、我がままに育てすぎたようだ。けど、気立てはいい娘なんで許してやってくれないか」
「そう、気立てはいいんだよな。けどさ……」
その時突然、響いてきた太い声に、キースは、えっと、声のする方向に目をやった。以前、シティ・アカデミアを奪取するために、勢いがかって会いに行った恰幅ある紳士がそこに立っていた。
「カーンワイラー氏!? ……けど、どうして……」
もしや、今回の事件の責任を取れとか言われるんじゃないだろうな。
不安が胸に湧き上がってくる。責任って言ったって、俺には地位も金もないんだけど。
カーンワイラー氏は、和やかな笑みを頬に浮かべて、こう言った。
「やぁ、会うのは2度目だね。怪我はもう大丈夫かね。実は、今日はこちらの頼みを聞いてもらいたくて、ちょっと寄らせてもらったんだ」
* *
1時間後
地位もお金もない青年画家は、足をひきずりながら、玄関に続く階段の踊り場まで下りてきていた。琥珀色の瞳は困惑の色に染まっている。このまま階段を降りて、玄関から出て行くか、それともここに居座るか。その後を相棒のパトラッシュが心配げについてきていた。
いや、やっぱり出ていった方がいい。シティ・アカデミアにある荷物をまとめて、今日中に田舎に帰るんだ。
キースが上から下りて来る足音に気づいたのは、その時だった。
「イヴァン?! いつの間に来てたんだ」
「気づかなかったのは、そっちの方だ。俺はさっきから、ずっとここにいたのに」
パトラッシュがそんなイヴァンを不安顔で見つめていた。
「それにしてもその顔は何だ? 何か心配事でもあったのか」
「カーンワイラー氏と今後の話をしたんだけど……」
歯切れの悪いキースの言葉。先ほど、部屋に入っていった”権力も金もある実力者”によほど難儀な依頼でもされたのかと、イヴァンは訝る。
ところが、
「俺、カーンワイラー氏の依頼を受ければ、お前との約束果たせそうなんだ」
「どういうことだ?」
5秒ほど間をおいて、
「実は、聖堂美術館……今回の事件で、カーンワイラー氏はシティ・アカデミアとともに連携しているあの建物も買収に乗り出したらしいんだが、将来はその館長に……俺をって」
その言葉に、イヴァンは珍しく大層驚き、
「へぇ! 気前のいい話があったもんだ。ということは、俺が欲しがっていた”ミカエルの肖像画”も簡単に手に入るわけだ」
「……そう、それは俺も良かったと思うんだけど……でも、館長に就任するために、3つの条件を出された。1つは、俺の身元調査。まぁ、されても俺、別段、どうってことない普通の田舎出の若者だし……2は、3年間の国内、海外での勉強」
「ふぅん、その勉強が嫌でたまらないってわけでもないんだろう」
「嫌どころか! ……それは、俺にとっても願ったり叶ったりなんだけど。でも、第3の条件ってやつが……」
この先を声にするのに余程の勇気がいるのか、青年画家は何度もため息をもらす。そして、試行錯誤の上でようやく、
「第3の条件、それは、シティアカデミアの今後のことだ。カーンワイラー氏は将来は、娘のミルドレッドに経営を任すつもりらしいんだけど……そのための勉強も兼ねて、俺と彼女、二人で海外に留学しないかって誘いかけてきた。でも、その前に……」
「その前に? 何も困ったことはないんじゃないのか」
カーンワイラー氏が娘に経営を任すのも、当然といえば当然だ。ミルドレッドはまだ若いが、美術に関しては、豊富な知識量と審美眼を持っている。将来的には、きっといい経営者になるだろう。
にしても、キースの困惑ぶりは並大抵じゃなかった。イヴァンは、改めて彼の顔をまじまじと眺めてみる。これだけ、目に見えて、うろたえてる奴も珍しいなと。
「その前に、あの……カーンワイラー氏は、今回の働きで俺のことをえらく気に入ってくれてて……それで、ミリーとの婚約を……」
「《《婚約》》!」
イヴァンはくっくっと声を出して笑ってしまった。けれども、父親からしてみれば、今回の献身的なキースへの看病ぶりを見ていると、娘が彼に夢中なのは、一目瞭然だし、そう持ちかけずにはいられなかったのかもしれない。
それにしても、娘が娘なら父も父。何て、気の早い親子なんだ。
「嫌なのか。あのお嬢ちゃんは、掛け値なしのいい娘だと思うが」
「ミリーが嫌だとか、そういうんじゃなくて、俺みたいな貧乏画家とこんな豪邸に住むお嬢さんが婚約なんて、身分違いも甚だしいんだよ。それにミルドレッドはまだ15歳だぞ。ナシルは似非王族だったけど、これからどんな”拠所ない大金持ちのイケ面”と出会うかだってわかりゃしない。彼女にしたって、迷惑な話に決ってる」
「そうかな……けっこう、あのお嬢ちゃんにしてみれば、いい話だったりしてな」
「からかうのは止めてくれよ。俺にとっちゃ、画家になるのを諦めて田舎に帰るかどうかの悩みどころだっていうのに」
すると、イヴァン・クロウは、小気味良さそうな声音で、
「なら、さっさと断れば。けれども、田舎に帰るのはお前の勝手だが、俺との約束はどうしてくれるんだ」
ご満悦そうに笑う男。
こいつ、完全に俺を虐めて、喜んでやがる。
キースは、イヴァンに、非難の視線を投げかける。そして、これ以上、この話を続けると、余計に悩み事が増える気がして、とりあえず、話題を変えてみることにした。
「そ、それはそうとレイチェルは、あれからどうなったんだ? エクソシストの神父と姿をくらましたっていうのは、聞いているが」
「ああ……あの女か。実は……」
「実はって? また、何かおかしな事でも起こってるのか」
本当にややこしい事はもう御免なんだ。だが、
「実は、ロンドン搭近くのヨットハーバーで深夜、1時に俺と会う約束になっている」
その言葉に、キースは酷く驚いた。あの阿漕な女のことだ。下手をすれば命だって狙ってくるかもしれない。
「止めろ! 止めてくれ。あの女はお前を恨んでる。どんな汚い罠があるかわかったもんじゃない」
先ほどの自分の悩みなどどこ吹く風で、心配顔で声を荒らげる青年画家に、バイクスーツの男は、まんざらでもない顔をした。
階段を降りて彼のすぐ近くまで歩み寄る。その灰色の瞳の中に紅の光が煌いた瞬間、彼は手をキースの襟元に伸ばしてきた。
「ゴミがついてる」
「え……? ゴミ?」
突然、話題を変えられて、ひるむキースの首筋にイヴァンの長い指が絡み付いてくる。
ちょ、ちょっと待って!
何だか焦る。けれども、そのとたんに、キースは、首筋に軽い痛みを感じた。すると、妙に体がふわふわしきた。何だか、空の上を飛んでるようなおかしな気分。
”あいつを自分の部屋になんか招いたら餌食にされちゃうんだから!”
以前、幽霊のアンナが言ってた台詞が脳裏に浮かび上がってくる。
目が回る……回る。
キースは立っていることも出来ずに、そのまま、階段の下に転げ落ちていった。
パトラッシュの鳴き声が、木霊みたいに耳に何度も響いてくる。おぼろげに見た黒いバイクスーツの男の後姿が消えてゆく。その消えざまに、彼の相棒に語りかける低音な声。
「そんなに吠えるなよ。俺は何も悪さはしていない」
なくなってゆく青年画家の意識の向こうに、驚いた顔で階段を駆け下りてくる少女の姿があった。
「キース、キースっ! だから、無理をしないでって言ったのに!」
その声が何だか懐かしかった。
本当に、この子は掛け値なしのいい子なのにな……。




