【第Ⅱ章 ~12番目の肖像画】(中編)
暖かな体温を持った一人と一匹が出て行った後の洋館は、ひどく冷めざめとしていた。ひび割れた洋窓から、月の光が青白く輝き、12月の終わりの寒さを余計に感じさせた。するとその時、不意に黒い影がその光を遮ったのだ。
黒い影は、みるみるうちに人の姿になる。
黒のレザージャケットにブーツ。
端正な顔にかかる亜麻色の髪と、赤みがかった灰色の瞳。
アンナは、突然、館に現れた男の姿に驚き、瞳を瞬かせた。
……誰?
ところが、
「見覚えのある洋館があると思えば、まだ、お前はこの世をさまよっていたのか」
歳は20代半ばといったところだろうか。短くため息をつくと、男は、
「だから、あの時、後腐れがないように、俺は教会でお前に声をかけてやったのに」
「えっ、あなたって、まさか……!」
男は、そんな少女の言葉を手で遮って、大広間の壁を指差す。
「ここに掲げてある11枚の肖像画は、お前が作り上げた幻だろう? 本物はとっくの昔に売りさばかれて、今では方々に散り散りになっているっていうのに、何も知らない画家にこんな幻を見せつけて、一体、どうしようっていうんだ」
「……」
返事を返さない幽霊の少女に向かって男は言う。
「まさか、お前は、生前に描かれた11枚の肖像画にまだ未練があるわけじゃないだろうな」
「違うわよっ、ただ、私は12番目の肖像画を描いてくれる画家を見つけたかっただけ! ……売られてどこにあるか分からない他の肖像画のことなんて、とっくに諦めてる」
「12番目の肖像画を描いてくれる画家? ……まぁ、どうしようと勝手だが、せいぜい、その画家まで、あの世の道連れにしないように気をつけるんだな」
「冗談じゃないわよ! 私は悪霊じゃないんですからねっ。あなたこそ、体のまわりから血の匂いがぷんぷんしてるじゃない。ここは肖像画を描いてくれる画家のために、私が作りあげた館! いわば、私の聖地なの。あなたみたいな人を招いた覚えはないわ。だから、とっとと出て行って!」
聖地か……灰色の瞳の男は、埃だらけの洋館をぐるりと見渡した。こんな場所に想いを残して昇天できぬとは、まるで牢獄と変わりないなと。
……この幽霊の少女の霊力では、この程度を作り上げて守るのが精一杯だったのだろうか。
物憂げな視線を少女に向けてから、男は、分かったよと口元で呟いた。踵を返して、そのまま玄関へ向かう。
入ってくる時は窓からなのに、出て行く時は玄関なのねと、アンナはぷうっと頬を膨らませたが、
「11枚の肖像画は、”聖なる日に生れし子の成長の記録”……か。けれども、俺は、つい最近に、その絵のオリジナルを見たことがある。ロンドン郊外に大層な館を構えているグレン男爵。そいつも真っ当とは言えない人物だが……11枚の肖像画の少なくとも1枚は、彼が持っているぞ」
その言葉に、えっと声をあげてしまった。
「別にこんなことを言って、お前を惑わすつもりはなかったんだ。ただ、俺はそんな奴らが目障りで……いや、気にしなくても、あんな者はすぐにいなくなるさ。……満足のゆく12番目の肖像画が早くできるといいな。そして、クリスマスの日には、天に無事に召されることを心から祈っているよ」
男が浮かべた、今までとうって変わった柔らかな笑み。
洋館の玄関の扉を開いて彼が外へ出ていった後で、アンナは不思議な思いで目を瞬かせた。天井からひらりと一片の白い羽が舞い降りてきたからだ。
たった今、生まれたばかりの天空の光のように、一片の穢れもない純白の輝きが、優美な軌道を描きながら落ちてくる。
天使の羽……?
その美しい純白の輝きと、たった今、館にいた男の黒い姿が、どうしても繋がらず、アンナは首を傾げるばかりなのだった。
* *
12月24日の昼下がり
名門美術学校、“ピータバロ・シティ・アカデミア”
超豪華な学内には、クリスマス休暇のために、人っ子一人いない。そのせいか、普段でも、広すぎると思っていた回廊がよけいに長く感じられる。
がらんとした学校のアトリエの中で、キースはうんざりとした顔で、絵筆を動かしていた。足元では、相棒のパトラッシュが眠りこんでいる。
「あ~あ、休暇が終わるまでに模写を終えろなんて無茶苦茶、言いやがって!」
”ヴェネツィア、月の出”
イギリスを代表する国民的画家で世界的にも有名な風景画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの水彩画。
このターナーの模写を完璧に仕上げて、本物だって売りつけたら、そりゃあ、高値で売れるだろうよ。
キースが専属画家として契約している“ピータバロ・シティ・アカデミア”は、お金持ちの子息、子女の教育機関としての顔と、美術品の窃盗、詐欺を生業としている2つの顔を持っている。
口がうまくて、色仕掛けも何のそのの、女教師レイチェルから、由緒たっぷりの学校が所蔵している最高の作品ですわよ、なんて言われたら、成金画商たちはコロリと騙される。
自分が模写している水彩画に目を向けて、キースはちょっと苦い笑みを浮かべた。あの女教師が最近、妙に拘っているターナーの作品。
暮れてゆく運河を背景にした薄い光の中に、消え入りそうな色彩でたたずんでいる、寂しげで儚げな塔。……それが、昨日見た、幽霊の少女の姿に重なった。
ベネツィア 月の出 ターナー作
幽霊でも、やっぱり約束しちまったしなあ……
アトリエの隅に置いた、昨日描いたアンナのデッサンの方に視線を向けた時、
「キース、メリークリスマス!」
バタンと彼のアトリエの扉が開け放たれ、小生意気な声音の少女が姿を現した。艶やかな黒い巻き毛と輝く漆黒の瞳。アイドル並に可愛い溢れる笑顔。
「メリークリスマス、なんて気分じゃねえよ」
ぶっきらぼうに、答えたキースに、少女はさらに“生意気”度を増して言った。
「仕事があって良かったじゃない。汚い路地の露店で売れない絵を描いてるより、よっぽど、ましよ」
「ミリー……お前なあ」
キースは、学園の生徒の一人、可愛いけど辛らつなミルドレッド “通称、ミリー”の顔を呆れたように見返した。考えてみれば、この娘に懇願された事がきっかけで、彼は学校ぐるみの窃盗団と関わる決心をしたのだ。
幽霊でも、アンナは見た目には、ミリーと同じくらいの年頃か。俺って、つくづく、このくらいの歳の女の子に弱いのかも……
でも、俺は決してロリコンなんかじゃないぞ!
ぶるんと首を振ったキースに不審そうな視線を向けると、ミルドレッドは後ろに隠し持ってきた包み袋を、窓辺の棚に上にどかんと置いた。
「とりあえず、差し入れよ。それ、まだ出来上がらないんでしょ? 一人で食べ物もないクリスマスなんて、悲惨すぎるもんね」
袋には、1本のワインとホールチーズが入っていた。
「俺に、ここで”一人”で、ワインとチーズでクリスマスを祝えってのか」
その言葉に、ミルドレッドは一瞬、口をつぐんだが、青年画家の方にちらと目を向けると、
「あら、パトラッシュもいるじゃない」
つんと冷たく言い放つ少女。口じゃ、とうてい勝てそうにもない。まあ、ミルドレッドが口ほど悪い娘ではない事はわかってはいるのだが。
「わかったよ。ワインとチーズは有難く、いただいときます。お前はどうせ、セレブなご学友たちと、クリスマスパーティだろ? なら、さっさと行っちまえよ」
ミルドレッドは口元を膨らます。何よ、その言い方。せっかく、みんなとの約束を断って、キースに会いに来たっていうのに。
けれども、そんな様子はおくびにも出さず、取り澄ました顔をした時、ミルドレッドはふと、アトリエの隅にあった、少女のデッサンに気づいたのだ。
「それ誰のデッサン? すごく可愛い娘ね……キースの知り合い?」
「別に……誰でもいいだろ。お前には関係ないし」
愛想のない彼の反応と、彼が描いた少女の絵に、かなりムカつく。
「あのね、分ってるの! そんなデッサンなんか描いてるから、キースは、仕事が遅いって、いつもレイチェルに怒られちゃうのよ」
「ターナーの模写はクリスマス明けまでには、きちんと終わらせます。ミリーたちにご迷惑はおかけしません」
彼の言葉使いが、いつになく丁寧で妙に皮肉っぽい。ミルドレッドは焦った。
「べ、別に迷惑だなんて言ってないじゃない。それに、レイチェルときたら、最近は、私たちなんて当てにしないで、すっごく怪しい奴らとつるんでるみたいなのよ。中国のバイヤーとかいって」
「中国の? それ、本当か」
「それにね、ロンドンでは連続して殺人事件なんかも起こってて、世の中は凄くぶっそうなのよ」
キースは眉をひそめた。これは、アトリエで模写なんてやってる場合じゃないのかも。自分がぐずぐずしている間に、敵は、どんどん悪徳商売の幅を広げてゆく。
「ミルドレッド」
若手画家は、突然、椅子からがたんと立ち上ると、真っ直ぐな眼差しを目前の少女に向けて、
「ごめん。俺、ここでの日々の生活に慣れるので精一杯で、ちっとも、お前を助けてやれなくて」
彼女にとっては、その琥珀色の瞳が、クセモノなのだ。
「わ、わぁぁ……」
ミルドレッドは、自分でも訳のわからない声をあげてしまった。
こんなウダツのあがらない貧乏画家に、いつもいつも、何で、こうなの!
……が、
「キース?」
それに追い討ちをかけるように、真正面にいた彼が、突然、彼女の上に倒れこんできたのだ。
「ち、ちょ、ちょっと、待って! いくらクリスマスだからって、まだ、昼! お昼よ! そ、そんなのって心の準備がっ」
何っ、この予想のできない急展開!
別に嫌じゃないけど……ないけど、でもっ。
けれども、
「……あー、徹夜続きで、ふらついた。やっぱ、少しは寝ないと色々、考えても無駄か」
むっくりと体を起こして、傍で寝息をたてているパトラッシュの方を見た青年画家。支えにした少女に詫びを入れるでもなく、彼は、そうだよなっと、自己完結して相棒の頭をなぜている。
何、これ……。ムカつく。
ミルドレッドは、つかつかと、中型犬と戯れる画家に歩み寄ると、
「キース、あんた、睡眠不足でころりと逝っちゃうかもよ。すっごく顔色が悪いもん。何か蒼ざめてる感じ!」
そう言い捨ててから、頬をぷうと膨らませて、アトリエから出て行った。
顔が蒼ざめてる?
「嫌な事を言う奴だなあ!」
ミルドレッドの足音が、廊下の向こうに消えてゆく。アトリエのガラス窓に映った自分の顔を眺めてから、キースは、そんな事ないよなっと、横で大あくびをしている、パトラッシュに同意を求めるように目を向けた。
顔が蒼ざめている……すると、その脳裏に急にアンナの姿が思い浮かんできた。暗い館の中で一人で彼を待っている少女……。華やかに笑うミルドレッドとは裏腹に、寂しげに微笑むアンナ。その明暗がキースの心を痛くした。
やっぱり、あの娘を放っておくわけにはゆかない。
「パトラッシュ、アンナの館に行くぞ!」
握っていた絵筆を油壺の中に突っ込むと、ミルドレッドが持ってきたワインとホールチーズ入りの袋を手に取る。それと、アンナのデッサンをキャンパスバックに詰めてから、キースは、パトラッシュを手招きした。
「でも、その前に、あのエクソシストを何とかしないとな」
俺が、肖像画を描きあげる前に、あいつにアンナを祓われてたまるもんか!
街はずれの教会に向けて駆け出したキースの後を追いながら、くわん、くわんとパトラッシュが鳴いた。
幽霊だって、構うもんか! 僕らはあの娘を守るんだ。
と、パトラッシュが言ったかどうかは、定かではないのだが。