3.白のナシルと黒のイヴァン
頭上に降ってくる大量のクリスタルガラス。
けれども、すくんだ足は、まるで動かない。
これが、落ちてきたら、私、まるで「オペラ座の怪人」の歌姫?
はたや、ガラスで串刺し寸前。へたをしたら即死。そんな時に、そんな雅なことを考えている場合じゃないのだが、彼女の頭の中には、20キロを優に越えた重量のシャンデリアが落ちてくる様子が、いやにゆっくりと映し出されてしまったのだ。その時、
「白い羽……」
ミルドレッドは、目を瞬かせると、天井に向かって意味不明な言葉を呟いた。シャンデリアの光に混じって、純白の翼の欠片が落ちてくる。
え、もう、天使が迎えに来ちゃったの?
その瞬間、耳をつんざく大響音が聖堂美術館に轟いたのだ。
瓦礫と砕け散ったシャンデリアのガラスが交じり合った砂埃が、もうもうと天井にまで舞い上がっている。
* *
「ミルドレッドっ!!!」
彼女とナシルのことが気になって、つい後を追って来てしまったキースが、顔面を蒼白にする。けれども、青年画家の心配をよそに『オペラ座の怪人』のような惨劇は、ここでは起こらなかった。寸でのところでミルドレッドの腕を引いた者がいたからだ。
その腕の主は、彼女を胸に引きよせながら言った。
「まったく、こんな場所で、爆発騒ぎが起こるなんて世も末だな」
「で、でも……と、とりあえずは、無事だったみたい」
ミルドレッドは、足の震えが止まらなかった。冷汗をかきながら、礼を言おうと、
「ありがとう、ナシ……?」
……が、自分を助けてくれたのは、てっきり傍にいた中東の王族 ― ナシル ― だと思いきや、
あれ? 黒い袖?
一瞬、虚をつかれたように、自分を支えている腕をもう一度、確認してみる。なぜなら、今日のナシルの服装は、一点の汚れもない純白の民族衣装だったのだから。
正面に目を向けると、キースが、面食らった顔をしてこちらを見ている。
まさか……。
おずおずと、後ろを振り返ってみる。……と、
「イヴァン! イヴァン・クロウ!」
黒のバイクスーツに身を固めた若い男が立っていた。髪は、深い亜麻色。そして、彼の赤みががった瞳の色は、この世のものとは思えぬ悲哀を秘めた灰色をしている。
3年前にも、彼は不意に現れては、彼女を何度も助けてくれたのだ。けれども、キースは驚くと同時にひどく戸惑ってしまった。
確かに、彼自身もこの男を待っていたのだ。……が、イヴァン・クロウが当時、世間を騒がせた連続殺人犯であることをミルドレッドは、まだ知らない。
「イヴァン、お前、いつの間に、この町に帰って来てたんだ?」
堪らず声を荒らげたキース。
「帰って来たわけじゃないくて、たまたま、この肖像画を見に来てただけだ」
男の背後に掛けられた”聖ミカエルの肖像画”が、愛しむように彼らを見下ろしていた。
「肖像画を……」
「そう、肖像画をね」
ミルドレッドは、丹精な顔に柔らかな笑みを浮かべたイヴァン・クロウに、思わず頬を赤らめたが、
「ミリーっ、大丈夫かい?!」
慌てて駆け寄ってきた、ナシルと対峙した時、イヴァンは、先ほどとは、うって変わった冷涼な瞳を彼に向けた。研ぎ澄まされた、どこか、この世を儚むような視線に、中東の王族は眉をひそめ、理由も分からず危険を感じて、つい身構えてしまう。
白のナシルと黒のイヴァン。
キースの心臓は、どきどきと鼓動を高めていった。すごく嫌な予感がする。どう考えてみても、この二人を引き合わせるべきじゃなかった。だって、“白と黒”。この色あわせは対極すぎるだろ。
切れ長の瞳を胡散臭げに細めて、ナシルはミルドレッドに尋ねる。
「誰?」
「昔の知り合いよ。色々と危ないところを助けてもらった人なの」
一瞬、白と黒が睨み合う。
「君は、この絵がお気に入りか」
“聖ミカエルの肖像画”を指差したナシルに、イヴァンは無言で頷く。
「ふぅん、僕は好きじゃないがね。これって戦火を逃れた教会に、一枚だけ残っていた絵だっていうじゃないか。それって、何か怨念めいたモノを背負っていないか」
聖堂美術館で2度目の爆発が起こったのは、その直後だった。
大展示室の柱の1本から火柱があがっている。その後ろから走り去る黒服の姿を目にして、
「やっぱり、うちの学園を恨んでる東洋マフィアの仕業か! イヴァン、あいつを追いかけるんだ!」
「東洋マフィア? 駄目っ、キース、危なすぎるっ!!」
黒服の後ろを追いかけようとした、青年画家の腕をミルドレッドが握り締める。その横をすり抜け、イヴァンが大展示室の出口に向けて駆けてゆく。その直後に、聞こえた銃声と、耳元をかすめていった銃弾に、
ヤバい! まだ、後ろにも、マフィアがいたのか。
キースは咄嗟にミルドレッドを抱き寄せて、そのまま床に身を伏せた。
……が、
「イヴァン……」
大展示室の出口で倒れている黒服と、大理石の床を見る見るうちに紅に染めてゆく血溜まり。その横に平然と立っている長身の男を目にして、苦々しげに、眉をしかめた。
イヴァン・クロウ……ナイフで咽喉元を切裂いてくる連続殺人犯。けど、俺が決死の覚悟で、3年前に、“聖ミカエルの肖像画”を渡すって約束で出した“用心棒の条件”をもう、お前は忘れてしまったのかよ。
「“人を殺すな”って、あの時、俺は言ったのに!」
泣き出しそうな声で訴えてくる青年画家。だが、彼に無表情な灰色の瞳をイヴァンは向ける。
「殺ったのは、俺じゃない」
そして、キースとミルドレッドの後ろに立った男を指差して言った。
「このマフィアを撃ったのは、あいつだ」
振向いた青年画家と少女は、
「ナシル……」
まだ、白煙をあげているライフルを構えたままで、うすら笑いを浮かべている中東の王族の姿に、二人は唖然と立ちすくんだ。
* *
「いくら王族だからって、民族衣装の中にライフルを忍ばせてた上に、それを人にぶっ放しておいて、それでもお咎めなしだって!」
爆発事件のあった夜。キースは、シティ・アカデミアのアトリエで、女教師レイチェルに向かって、盛大に声を荒らげていた。
「相手はマフィアといっても雑魚だもの、当局だって、町のゴミ掃除ができて有難がってるんじゃないの。それに、ナシル・ビン・アッサウド・サウードは、掛け値なしの大富豪。当然、事は有耶無耶になるのよ」
「はっ、人を殺しても不問だなんて、それって、深夜にTVにやってる昔のスパイ映画みたいだ」
すると女教師は、これ以上ないくらい小ばかにした笑みを頬に浮かべた。
「あなたね、そんな時代遅れの映画を見てる暇があるなら、贋作村のプレゼンを、来週、ロンドンでやり直すんで、その準備に取り掛かってよ」
「ロンドンで?」
「そう、ナショナルギャラリーから車で、20分ほどの豪華ホテルよ。そこで、当日の目玉として、あの美術館から私たちが盗み出した、本物の”ヴァージナルの前に座る婦人”を客に披露するわ。美術館側は、今だに私たちがすり替えた”贋作”を本物と信じて展示を続けていますってコメントを付けてね。それって、我学園が経営する贋作村の最高の宣伝になると思わない?」
ちぇっ、その”贋作”って贋作村で作ったんじゃなくて、俺が描いたものじゃんかよ。
思わず鼻白んだキース。……が、レイチェルは、
「今、贋作村で、これを同じ『ヴァージナルの前に座る婦人』の贋作を作らせているの。大量にね。あなたには、プレゼン当日に間に合うように、その手配とか梱包とかをやってもらうわ。そういえば、ナシルが贋作村に行きたがってたんで、明日にでも一緒にそうしてよ。彼は大切なスポンサーだから、ミリーも同行させるといいわ。……けど、あの娘も相当なやり手ね、今じゃ、彼の一番のお気に入りに納まっちゃって」
レイチェルの言葉に、そこはかとない嫉妬心を感じ取って、キースは、反吐が出そうだと顔をしかめた。けれども、ミリーもミリーだよ、あんな男と付き合ってるだなんて。
やがて、「頼んだわよ」と強制的な依頼を残して、女教師はアトリエから出ていった。
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フェルメール:ヴァージナルの前に座る婦人
* *
「ふざけんなよ! 手配に梱包? 俺が目指してるのは画家であって、贋作のデリバリー係じゃないんだぞ」
あああ……俺の器はますます小さくなる一方だ。何とかしなくちゃ、何とかっ、でも、どうやって?
くくっと押し殺したような笑いが漏れてきたのは、キースが大混乱に陥っている真っ最中のことだった。そちらに視線を向けると、パトラッシュを従えて、アトリエの奥の部屋から、黒のレザージャケットを羽織った背の高い男が姿を現した。
「イヴァン、僕が呼ぶまでは、奥の部屋からは、絶対に出ないでって言っといたのに」
「もう、あの傲慢な女は、出て行ったんだろ。それにしても、お前の気圧されっぷりは見事だったな」
笑っていても、彼の灰色の瞳から悲哀の色が消えることはついぞなかった。
イヴァン・クロウ……彼は殺人者。それも容赦なくナイフで獲物の咽喉を掻っ切る。
俺、何で、こんな危ない奴に用心棒になってくれなんて頼んじまったんだろう? でもさ……こいつの寂しげな灰色の瞳っていうのが、けっこうクセモノなんだ。ほら、今みたいに、穏やかに微笑まれたりすると、つい、信用してしまいたくなる。
それだから、
「えっと、適当なアパートが見つかるまでは、ここのアトリエに泊まっていいから。レイチェルは忙しくてしばらくは帰ってこないし、寝泊りに必要な物はだいたい揃ってる」
「ここに?」
「嫌なら俺のアパートでもいいけど……狭いし油絵具臭いし……」
それに、やっぱり、こいつと同じ部屋っていうのは、ちょっとなぁ……。
その時、突然、鳴った胸元の携帯電話の音に、キースはびくりと身を縮めた。
「もしもし……誰?」
すると、
”駄目よ!! 絶対に、絶対に、その男を自分の部屋に招いたりしちゃ”
携帯電話の向こうから響いてきた鈴の音のような声に、キースは目を丸くした。そして、アトリエの窓の下に置いてある少女の肖像画にその視線を向けた。
「お前っ、アンナか! でも、何で携帯に……」
こんな会話をイヴァンに聞かれてしまうのは不味い。アトリエの隅に移動してから、キースは小声で、
「アンナ、お前、幽霊だろ。携帯に電話をかけてくるって、どういう事だよ」
”私の霊気を声にして、携帯の電波に乗せてみたの。いいでしょ、これだったら、体がなくても、キースと話ができるもん”
おぃおぃ、オカルトと最新技術が変な風に合体してるぞー。
頭を抱えてしまいたくなった青年画家は、傍に駆け寄ってきた相棒 ― パトラッシュ ― に、冗談じゃないよと言わんばかりの視線を向けた。
俺と幽霊のアンナと出会ったのは、4年前のクリスマスだった。11歳で死んでしまった彼女は、毎年、彼女の誕生日でもあるクリスマスごとに肖像画を描いてくれた画家の父の代わりに、”12番目の肖像画”を描いてくれる画家を探してこの世をさ迷っていた。その肖像画を描いたのが、俺ってわけで……けど、それが描いたら昇天するって言ってはわりには、まだ、この娘はこの世に居座っているんだよな。
「頼むから、おかしな現れ方はしないでくれよ。それでなくても、俺の廻りには、ややこしい事がいっぱいだっていうのに」
”だって、その男は私が40年前に教会で会った、イヴァン・クロウと同一人物よ。その男はきっと闇の眷属なのよ。部屋に招いたりしたら、キースはその男の餌食になっちゃうわよ!”
”餌食”って、言われても、もう契約しちゃったしと、キースは小麦色の髪を掻きむしる。パトラッシュはというと、ただ嬉しそうに、わぉんと鳴き声を上げて尾をしきりに振っている。
「たとえ、殺人犯であったとしても……あの東洋マフィアに対抗できるのは、俺の廻りにはイヴァンくらいしかいないんだよ。40年前の話は、名前が同じ上に姿まで似てたんで、アンナが勘違いしたんじゃないの」
”違う! 絶対にそいつは危ないんだってば”
イヴァンが、アトリエの隅に座り込んでこそこそと携帯電話の会話を続けるキースに胡散臭げな目を向けている。
「ごめん、アンナ、もう切るよ。俺、そろそろアパートに戻るから。イヴァンには俺のアパートじゃなくて、このアトリエに泊まってもらえば、文句はないんだろ」
携帯電話の向こうからは、何の反応もなかった。
贋作村のプレゼンに、襲ってくる東洋マフィア。
携帯に電話してくる幽霊のアンナ。
それに、ライフル銃を撃ってくる中東の王族もいたっけ……。
キースはますます、ややこしさを増してゆく展開に悩みながらも、
「イヴァン、俺、とりあえず、自分のアパートに帰るから。これからの事はまた、明日にでも」
黒いレザージャケットの男をアトリエに残し、パトラッシュを伴って部屋を出てゆくのだった。
* *
ナシルのイラストの下にアラビア語で彼のフルネームを入れましたが、日本語→アラビア語ができる翻訳サイト、すごっ。ちゃんと、アラビア語表記ができる、なろうの機能も高機能だっ^^)




