【第Ⅱ章 ~12番目の肖像画】(前編)
ロンドンから鉄道にのって北に約1時間。
小都市、ピーターバロ。
ゴシック様式の大聖堂と、美術館。それに続く小道に点々と出された無名画家たちの露店。この都市には、古き良き時代のイギリスの風景が、今も多く残っている。
その路地を油絵用のキャンバスバッグを抱えた青年が、不機嫌な様子で歩いていった。
歳は17。小麦色の髪に、破れたGパン、絵具で汚れた上着。身なりに気を使えば、それなりに女の子に好かれそうな顔だちなのだが、彼自身はそんな事には一向に興味がないらしい。
その青年、― キース・L・ヴァンベルト ― は、彼の相棒、“パトラッシュ”の頭をくしゃくしゃっと、なぜて言った。
「あ~あ、明日はクリスマスイブなのに、今日もニセ物造りに精を出せかよ。シャガールでもユトリロでもムラカミタカシでも、お望みなら、何でも描いてやるけど、肝心の俺の絵はいつ描かせてくれるんだろ」
キースの言葉にパトラッシュが、同情をこめた小さな声音でくわんと鳴いた。
このパトラッシュ、雑種の中型犬だが、毛並みの茶色と白の模様はなかなかいいコントラストをしている。それに垂れ下がった茶色の大きな耳が、けっこう可愛い。
自分で選んで、あの学校の専属画家になったものの、お高くとまった女教師のレイチェルにアゴで使われるのは、やっぱり胸くそが悪くてしょうがない。
そういえば、もう夕方だっていうのに、昼食も食べてないやと、キースは、小さくため息をつくと、2ブロックほど先の木々の間に見えている豪奢な白い建物に目をやった。
“ピーターバロ・シティ・アカデミア”
それは、このあたりでも裕福な家の子息、令嬢が通う名門の美術学校だった。ひょんな事から、この学校の専属画家になったキースだが、学内の様子を知れば知るほど腹がたって仕方なかった。
偉そうな事言ってても、正体は学校ぐるみの“絵画泥棒”兼“詐欺師”じゃん。畜生! 見とけよ。今に泣き面かかせてやるから。
ちょっぴり熱くなってしまっているキースを諌めるかのように、パトラッシュがその上着の袖口を、くわえて引っ張った。
「わかってるって、焦るなよって言いたいんだろ」
その時、ちらり、ちらりと粉雪が降ってきた。ふと空を見上げた時、自分の視界に飛び込んできた洋館の姿に、キースは首を傾げた。
おそろしく古びた煉瓦の壁には、枯れた蔦がびっしりとこびりついてしまっている。見晴らし台のあるバルコニーや、豪華な玄関口のアーチを見てみれば、それなりの資産家の住まいだったのだろうが、それも今は見る影もない。それより、キースにとって問題なのは……
昨日まで、こんな洋館、ここにはなかったぞ。
という事だった。
恐る恐る、玄関口に近づいてみた。近づけば、ろくな事はない事がわかっているのに、好奇心を止められない。この青年はそういう役回りと決まってしまっているらしい。
玄関口のポーチを通り抜けて、扉に手を触れてみると、彼を待ちかねていたように、扉がすうっと勝手に開くではないか。その時、横にいたパトラッシュが、突然、館の中に駆け込んでいった。
「おいっ、不法侵入だぞっ!」
パトラッシュを追いかけようと、館に一歩、足を踏み入れた瞬間、キースはあっと小さく声をあげた。
円形の大広間の壁にぐるりと掛けられた何枚もの肖像画
「1、2、3……11枚も?」
唖然と絵の枚数を数えながら、
「女の子の肖像画? でも、最初の1枚はまだ赤ん坊だ……」
この11枚の肖像画は、この女の子が生まれた時からの成長記録か。にしても、この館は……
蜘蛛の巣にまみれた館の中は、どうみても幽霊屋敷に近かった。
解せない顔つきで、ぐるりと屋敷の中を見渡してみた。人っ子、1人いそうにない廃墟の中で、大広間の片隅に残された、窓の高さをはるかに越えた埃まみれのクリスマスツリーが、寂しげにキースとパトラッシュの姿を見下ろしている。
「絵の下に、モデルになった女の子の名前と肖像画が描かれた日付が書いてある。えーと、一番、最初が、アンナ1歳、1960年、12月25日」
1960年って……50年前じゃないか。
2枚目が描かれたのは、翌年の12月25日……3枚目はその翌年の12月25日
「もしかしたら、この肖像画って、全部、クリスマスに描かれたものなのか!」
11枚目の肖像画の下には、“アンナ11歳”と書かれている。日付は1970年の12月25日、40年前のクリスマスだ。
白いドレスに身を包んだ少女が、飾り付けられたクリスマスツリーを背景に、少しはにかんだような笑みを浮かべている。
肩までの少しウェーブがかった栗色の髪とそれと同色の大きな瞳、ばら色の頬。白い毛皮のタフタがついた赤の上着が、いかにも聖夜で、おまけに金持ちっぽい。
「一体、何なんだ、この館は。それにこの肖像画は?」
その時、キースの横にいたパトラッシュが、くわんと鳴き声をあげた。
「何だよ、邪魔すんなよ。今、俺は思考中……」
パトラッシュの方向に降りかえった瞬間、キースはぎょっと大きく目を見開いた。そして、もう一度、11枚目の肖像画に目をやってから、おそろしく複雑な表情をした。
「お前、誰! って、これ愚問……か」
キースとパトラッシュの後に立っている少女。白いドレスにタフタのついた赤の上着、栗色の髪と瞳、はにかんだような微笑。
それは、まぎれもなく肖像画に描かれていた“アンナ11歳”だったのだ。
「……でも、変じゃないか……あの肖像画は40年も昔に描かれた物だろ……」
キースの言葉に、少女はにこりと笑い、鈴のような可愛い声音でこう答えた。
「変じゃないわよ。だって……」
その続きを聞けば、また、ややこしい事になる事がわかっていた。けれども、もう逃げれそうにもない。
「私、幽霊だもん」
ほうら、やっぱりだ。
「パトラッシュー、窃盗団の次は、幽霊だってよー」
キースはパトラッシュのそばに膝まづき、“助けてくれよ”と、言わんばかりに彼の相棒の首根っこにしがみついた。そして、
「……で、幽霊が、俺に何の用?」
と、おそるおそる、女の子の方に視線を向けた。
その瞬間、少女の幽霊は、つぶらな目を大きく瞬かせた。
とうの昔に止ってるのに、何でときめいてんのよ。私の心臓!
でも、このお兄さんの瞳って……なぁんて、綺麗な琥珀色!
「わ、わ、私の名前は、アンナ。……で、その肩にかけたキャンパスバッグと、油絵の具の匂い。お、お兄さんって、もしかして画家?」
「も、もしかして、そうだったら、な、何?」
とてつもなく悪い予感がする。それでも、このアンナが幽霊になってまで、俺の前に現れたという事は、もう自分はこの状況から逃げれない……って事なんだよな。
すると、案の定、アンナは、心配通りのややこしそうなお願いをしてきた。
「肖像画を描いて欲しいの! それも、今年の12月25日までに」
顔色は幽霊だけあって蒼ざめてはいるが、見た目は可愛い少女だ。いきなり目玉が転げ落ちるなんて、そんな事もなさそうだ。
「……肖像画を描けって、ま、また、何で?」
「私は、死んでしまったから。12回目の誕生日プレゼントの肖像画を見れないままに」
誕生日プレゼント? 12回目? って事は……。
……が、その時、
“父と子と聖霊の名において、父なる神へ信仰の告白をせよ! 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛せよ!“
高らかで、おまけに耳障りな大声が外から響いてきたのだ。今度は何ごとだと、キースは、そうっと玄関脇の小窓から外の様子を覗ってみる。
すると……館の玄関前に、無駄にでかい背丈の男が立っているではないか。
キリスト教の聖職者たちが、ふだん着る丈の長い服 ―アルバー の上に白い上衣を羽織り、手には不自然に大きな十字架を掲げ持ち、どう見ても“いい人”には見えない、強面の顔がまえの、その男を見て、
「また、えらく胡散臭い奴が門の前まで来てるぞ……待てよ。あの男、前にシティ・アカデミアの事務所で見た事があるぞ。あの時は、レイチェルと骨董品の価格交渉をしていた。聖職者のくせに、えらく業突く張りな男だなと俺はムカついたのを覚えてる」
一寸、言葉を止めてから、キースは、アンナの方に目を向けて、
「あいつ、知ってるぞ! 町外れの教会の神父だろ」
「あれは“エクソシスト”よ! あいつって最低! だって、最初は親切そうな言葉で話しかけてきたくせに、この肖像画のことを知った後は態度を一変させて、私を祓おうとしつこく館にやって来るんだから」
「エクソシストぉ? あの“悪霊祓い”ってやつか。あいつって、胡散臭いと思っていたら、そんな稼業にも手を出してんのか」
でも、それって……エクソシストが出てくるって事は……
この娘って、あ、悪霊ぉ?
「あのねっ、この私の顔を見てよ。そんなわけないでしょっ」
少女の幽霊は心外だと言わんばかりに、くすんと首を横に振った。
拗ねたようなその仕草がやけに可愛い。だが、キースは、その邪念を無理矢理に心から振り払った。
待て、待て。この子は幽霊。それに、俺は、決してロリコンなんかじゃないんだから。
まぁ……そんな事は置いといたとしても、あんな男がやって来るなんて、やっぱりどこか胡散臭い。
「でも、それなら、どうしてエクソシストがここに来るんだよ」
「だって、最初は普通の神父さんかと思ったから……あいつ、あれでも霊感があって、やけに親切で……でも、それって私の肖像画を手に入れるための口実だったのよ」
「肖像画って、あの11枚の肖像画の事か?」
「私のお父さんってね、かなり名のある画家だったらしいの。でも、私にはくわしいことは何も教えてくれなかったんだけど」
アンナの言葉に、キースは足元にいる ― 相棒 ― パトラッシュと、なるほどねと、目を目を交わした。別に何かを語り合うわけでもないが、お互いに意思疎通ができているような気がするから不思議なものだ。
「この子の父親が有名画家だったとすれば、その人が描いた絵なら、相当な高値がつくだろうからな」
……で、その肖像画の売り先がレイチェル……表向きは名門、裏は窃盗団のピータバロ・シティ・アカデミアの女教師ってわけだ。あの女もろくな商売してないなあ。
にしても、有名画家? ……それって、誰なんだ?
その時だった。
“悪霊退散! すべからく、この場から立ち去るべし!”
その声と同時に、アンナの体が広間の壁まで吹っとんでいった。その体は壁を通り抜けるわけでもなく、痛々しく壁に打ち付けられた。
「おいっ、大丈夫か!」
「くすん……私、このままだと、いつかあいつに祓われてしまうわ」
床の上にうずくまり、ぽろぽろと涙をこぼしている少女。キースは、その姿を見つめているうちに、無性に腹がたってしかたがなくなってしまった。
幽霊だから死にはしないだろうが、こんな小さな女の子を虐めるなんて本当に最低だよ!
“悪霊退散! 悪霊退散!”
うるせぇなと呟いてから、キースは玄関に歩み寄る。そして、扉をばんと開いて叫んだ。
「近所迷惑なんだよっ! 坊主は、こんな所でわめいてないで、おとなしく教会でお題目でも唱えてろっ!」
叫んでいた神父はきょとんと目を瞬かせる。
「お前……誰だ!」
「誰って、ただの画家だよっ」
「さては、悪霊の下僕か。お前、神に背いて魂を悪魔に売り渡したな!」
こんな奴と、まともに話なんかしてられない。
キースはこそっと、隣に控えている相棒に何かを耳打ちした。その瞬間、
くわん、くわんっ!!
激しく吠えながら、パトラッシュがエクソシストに襲いかかっていったのだ。
「うわぁっ! 地獄の番犬ケルベロス!」
どう妄想すれば、パトラッシュがそんな風に見えるんだよと、キースは、せせら笑らった。
すると、“覚えておけよ!”と、捨て台詞を残した神父は、地獄の番犬に追いかけられて、あたふたとその場を去っていった。
* *
「あ~あ、口ほどにもない奴」
あっちの方はパトラッシュに任せればいいやと、キースは、泣きべそをかいているアンナに、困ったように視線を向けた。
「泣くなよ……幽霊が泣いてると、よけいに悲しい感じがする。とにかく、話くらいは聞いてやるよ……何で、今年の12月25日までに、肖像画を描く必要があるんだ? それを描いたら、何がどうなるっていうんだ」
……が、青年画家の真摯な琥珀色の瞳は、止まっているはずの幽霊の少女の心臓を、またも、高鳴らしてしまうのだ。
「ク、クリスマス ― 12月25日― が、私の誕生日だった。……画家だった私のお父さんは誕生日ごとに私の肖像画を描いて、それを館の大広間に飾ってくれたの。けれども、体が弱かった私は、11歳で死んでしまった。12番目の肖像画ができあがる前に」
アンナは目の前の若い画家に懇願した。
「私だって、こんな寂しい洋館に、いつまでもいたいわけじゃないの。でも、私は12番目の肖像画が見たかった。その思いが邪魔をして、私にはいつまでも天国の門が開かないの。だから、お願い! 私の肖像画を描いて。今年の12月25日を逃してしまったら、私はまた来年のクリスマスまで、この世をさまよう事になる」
やっぱり、そんなことかと、青年画家は、ふうっと一つ息を吐く。けれども、
「40年も前にお前は死んだんだろ。何で今頃、俺にそんな事を頼むんだよ。それに、あのエクソシストのことだって、館に引き込むなら、もっと真っ当な奴にすればよかったのに」
「……引き込むなんて、そんな言い方ってないわ! 私は、むやみに生きてる人に害をあたえるなんて、そんなひどい事はしないわよ」
「そう? それを聞いたら、一安心だ。……じゃ、俺、もう帰るから」
強気な態度をとってはいたが、正直言って怖かった。どんなに可愛かったって幽霊は幽霊だ。こんな場所からはさっさと出て行ってしまおうと、戻ってきたパトラッシュを伴って館の玄関に向かおうとした時、
「待ってよ!」
その声とともに、館の扉が勝手にばたんと閉まった。ひゅうと吹き込んできた冷たい隙間風が、青年画家の頬をすり抜けてゆく。
「この40年間に、私はあなた以外にも、何人もの画家に肖像画を描いてもらった。けれど、駄目だったのよ。どれもこれも、何かが足りなくて……」
館に閉じ込められてしまった状況にどきどきしながらも、キースはちょっと驚いてしまった。幽霊の肖像画を描く奇特な奴も世間にはいるんだなと。すると、再び、アンナが言った。
「40年間、誰一人として、私が満足のゆく肖像画を描いた画家はいなかった」
それがキースの画家魂に火をつけてしまったのだ。
40年間もか、面白い……って事は、この幽霊に認められたら、俺の絵は確かな価値があるって事なんだな。
「分かったよ。描いてやる! ……肖像画だったな。だから、もう泣くなっ!」
そうと決めると怖さなんかより、絵を描く事に没頭してしまう性格だ。持ってきた絵具の入ったキャンバスバックをアンナの前にどさりと置くと、キースは、取り出した鉛筆で白いキャンバスにさらさらと少女の輪郭を描きだしだ。
「ただし、今日は下書きだけ。残っている仕事を片付けないと、レイチェルにまた、どやされる。クリスマスにはまだ2日あるだろ、だから、とりあえず今日は俺を帰してくれ」
「ちゃんとここに戻ってくる? 約束できる?」
「戻ってくるよ」
空でしたようなその返事に、アンナは頬を膨らませたが、
「戻ってこなかったら、呪ってやるんだから!」
可愛い顔で少女が言った怖い言葉。ぴたりと鉛筆をもった手を止め、キースはお愛想程度の笑顔を作る。でも、なんだか不安になってしまった。
「さっき悪霊じゃないって言ったじゃないか!」
「だって、それが幽霊の専売特許だもん」
専売特許ね……。
その時、街の教会の鐘楼の鐘が午後7時を打った。
それと同時に、暗い館の中に、ぽっぽっと蝋燭の炎が勝手に燃え立ち、埃まみれのクリスマスツリーを照らし出した。色が剥げ落ちたガラスの玉飾りが仄暗い光を放ち、陰鬱な風景の中に立っている少女の姿が、その中で寂しげに揺れた。
「今日はこれでおしまい。じゃ、俺はもう行くから」
出来かけの肖像画。それを手に持ち、不安げなアンナに、一時の別れを告げて玄関を出た時、キースは少し後ろめたいような気分がした。
枯れた蔦にびっしりと覆われた、寒々とした洋館。
いくら幽霊でも、こんな気色悪い場所に小さな女の子を一人っきりにしてもいいのか……
肖像画の下書きをしている間中、パトラッシュの頭をなぜながら、はみかんだような笑みをこちらに向けていたアンナ。
目茶目茶に可愛いかったんだよなあ。
……が、
駄目駄目っ、変な心を持っちまったら、こっちまであの世に引き込まれちまうぞ。肖像画が描けたら、あんな幽霊とは、きれいさっぱりお別れなんだから。
そう自分の心に言い聞かせて、青年画家は、古い洋館から出て行った。