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【第Ⅳ章 ミカエルへの哀歌】1942年~イヴァン・クロウ 

これまでとかなり雰囲気が違いますが、イヴァン・クロウのルーツを書いた話です。

それは、1942年の12月。欧州の小さな村から始まる物語。


木製の扉が軋む音。


 その響きとともに拘置所の中から出てきた神父は、雨から雪に変わりだした空を見上げて吐息を吐いた。


「明日の朝、また、こちらへ参ります。寒い朝になりそうですが、あの方に神のご加護がありますように、祈りを捧げさせていただきます」


 看守たちに軽い会釈をしてから、去っていった神父の後姿が、寒々とした景色の中に消えてゆく。北の風に煽られた粉雪が、ひとひら、空に舞った。


* *


ここからは空が見える 君の瞳に似た青い空

ミカエル

君の瞳だよ ミカエル


雨の日には鉄格子をすり抜けられる小さな指に

降る雨を受けるんだよ


でも夜は眠れないんだ

白いパンと蜂蜜が運ばれるような日が

いつかここへやってくると思うと

口のうちに流れる蜜の味は昔のキスの味がするんだ


ミカエル


僕は君を待っている


だから愛して 僕を愛して


ミカエル

                by M・polnareff


* * *


 この雪の夜に、凍りつきそうに冷え切った拘置所の中で、死刑囚の男は鉄格子の隙間から漏れる雪明りを見つめていた。

 ふと、石畳の床に置かれた小さな机の上の聖ミカエルの画に視線をうつし、その姿に寂しげな瞳を向ける。そして、男は口元で昔聞いた覚えがあるこんな歌を呟きだした。


 ミカエル

 僕は君を待っている。

 だから、愛して。僕を愛して


 ……が、その節が終わらないうちに、一陣の風が鉄格子の外から、男の頬を通り過ぎていった。


「絞首台で吊られて、死ぬなんてまっぴらだよね」


 突然、背後からかけられた声に、男は驚き後ろを振り返る。


「だから、あんたは天使が来るのを待っているんでしょ?」


 まだ、年端も行かぬ少年が、そこに立っていた。

 青い瞳が、それにかかる金の髪の向こうから、冷たい光を放っている。

 すると、少年は、男の背後を指差し言った。


「生きていたいんでしょ。ならば、彼の手を取れよ。そうすれば、永遠の命が手にはいるから」


 少年が半ばからかい気味の声音が、男の耳に残酷な余韻を残して響いてきた。


 背中にぞくりと悪寒を感じ、振り向いた死刑囚の男は、拘置所の天井から彼を見下ろす黒い笑みに大きく目を見開いた。


 漆黒の翼を広げた闇の王が、鋭く伸びた爪をこちらへ差し出している。

 

 魔王……


「その手を取れよ。ただし、あんたの忌わの際に、ここにやって来たのは、天使ではなく……“闇の王”」


 少年の無邪気な声音が、有無を言わさぬ強さを伴い、密閉された氷の室に木霊した。



* *

 2013年、12月24日、ロンドン。


「マスター、見て! クリスマスツリーが綺麗だよ。ここで、夏にテロ事件があったなんて、思えないくらいだね」


 ラッセル広場に飾られたクリスマスツリーの袂からダビストック・スクエアを眺めて、少年は無邪気な笑顔を浮かべた。傍らに立つ黒い皮服の男はやたらに背が高く、背中まである漆黒の髪と少年の金の髪が不思議なコントラストを描き、否応なしに人々の目を引いてしまう。


 少年を伴い、ショッピングモールへの通りを歩きながら、


「思えなくもないさ」


 マスターと呼ばれた黒い男は、ぴりと寒さに引き締まった外気を吸い込むと満足げな笑みを浮かべた。


「人々の悲哀、叫び、悔恨。それこそが我らの安住の地なんだ。闇の輩の聖なる夜の宴に、これほどお似合いの場所はないではないか」


 少年は、ほんの少しだけ寂しげに表情を翳らせる。……が、通りのショーウィンドウの中に目をやった瞬間、


「わぁ、可愛い! マスター、見てよ。赤いクリスマス用のケープをはおった、ビスクドールだよ」

「ティル・ネーナ。お前も着てみるか。きっと、あのビスク・ドールよりよほど綺麗な姿に様変わりするぞ」


 皮肉まじりな目をして言った、黒い男の言葉に、ティルと呼ばれた少年は、“嫌だよ”と、顔をしかめた。

 ショーウィンドウの人形が、そんな彼をつぶらな瞳で見つめている。せわしく行き交う人々の姿が次々に窓のガラスに投影されては消えてゆく。だが、黒い男と少年の姿が、そこに映し出されることは、ついぞなかった。

 二人が、その場から立ち去ろうとした時、


「あら、素敵なお兄さん、私たちと遊ばない? 行き着けの店があるのよ。お安くしとくわよ」


 不意に横からかけられた猫なで声に、黒い男は口元でかすかに微笑んだ。

 派手な色合いの短い丈のコートから艶かしい長い足を覗かせた女たちが、手招きしている。皮手袋の手を女の一人の肩に回すと、男は少年に意味深な一瞥をくれてからこう言った。


「クリスマスディナーが自ら、やってきてくれた。ティル、悪いが、ここでちょっと待っていてくれないか?後でお前にも分け前をくれてやるから」


 にやと舌なめずりをする男に、女は笑顔で微笑みかける。


「そうよ。最高級のディナーですもの。でも、そちらの坊っちゃんには、ちょっとお味がわからないかもね」


 甲高い笑いを残して、女たちと黒い男はティルを残して路地の奥へ消えていってしまった。


 灰色の空から、細かな雪の粒が降ってくる。

 路地の奥から流れてくる女たちのかすかな悲鳴を、金の髪の少年は無表情なままに聞き流し、空の彼方を見届けるように真っ直ぐな瞳を上に向けた。


 芳しい血の匂い

 生暖かい風が、頬をなぜてくる。


“ティル・ネーナ。ごちそうの分け前だ。お前にも十分、味わえる最高級のディナーだ”


 そんな台詞とともに、空に舞い上がった黒い影。

 足元に流れてきた、おびただしい鮮血を見据え、少年は深くため息をついた。


 僕はお腹がいっぱいで

 もうこれ以上は何もいらないよ。


「そぅいえば、イヴァン・クロウはどうしてるんだろう」


 ふと、もう一人の仲間のことを思い出し、ティルは、くるりと路地に踵をかえすと、粉雪の舞い散る冬の空に舞い上がった。

 

 あの男は、“今”が嫌いだから、きっと、“昔”にいるんだろうな。


 仲間の居場所を探るように、研ぎ澄まされた五感を解放する。


 ロンドンの空は、冷たく凍りついていたけれど、煌びやかに飾りつけられた街々のクリスマス飾りが、きらきらと電飾の灯りに輝いていた。それが、すごく綺麗だとティルは心からそう思った。


* * *


 1943年 欧州の村


 イヴァン・クロウは、故郷の隣村の道を一人で歩いていた。いつ訪れても寂れているなと、切りそぐねている亜麻色の髪をかきあげて、辺りを見回す。見知った者はほとんどいないが、すれ違う人々に顔を見られぬように灰色のコートの襟を高くたてている。

 道の向こうにある教会の赤屋根を見ながら、慎ましやかな窓飾りを備え付けた民家の前を通り過ぎた時、イヴァンは、クリスマス休暇にもかかわらず一件だけ店を開いているレストランを見つけた。


 店の中庭から響いてくるピアノの旋律。


 この寒さの中で、中庭でピアノを弾いているのは誰だ?その音に導かれ、足を店に向けようとした時、


 見つけたぁ! イヴァン・クロウ!


 突然、上空から吹き付けてきた風にまどろこしそうな表情を浮かべる。


「ティルか。マスターと一緒だと思っていたのに」

「う~ん、ちょっと、飽きちゃってね」


 にこりと微笑んで、彼の横に姿を現した金の髪の少年。


「それにしても、イヴァンは相変わらずこの村にいるんだね。嫌じゃないの? 絞首刑の憂き目にあったこんな場所が。どうせなら、もっと昔に飛んでいって、あんたの婚約者が殺されちまう前に戻ればいいのに」


「戻れば、また同じ惨劇が起きて、また一つ村がなくなる。そんな馬鹿げた繰り返しを俺は何度も見る気はないんだ」


 ふぅんと気のない返事をするティルに向かって、そういうお前は……と、男は呟いた。


「何でそうなれなれしく着いてくるんだ? あの時、お前の咽喉をかっ切った憎い殺人鬼のこの俺に」


「だって、もう仲間じゃん」


 そう言葉を繋いでから、ティルはほのかに潤んだ瞳をイヴァンに向けた。


 

 残忍な月の光が僕らの村を煌々と照らしていた、あの日、あの時、

村の男たちが一人の可哀想な女を村はずれの家へ追い詰めていった。家の戸口には、二つの正三角形を逆に重ねた黄色の六芒星ヘキサグラムが描かれていた。


 ”純血の血を汚す“命に値しない命”


 僕には、さっぱりその意味がわからなかったのだけど、沢山の松明の火と、仕留めてやったと雄叫びをあげる男たちの声が妙に嬉しげで、僕も浮かれて彼らの宴に加わってしまったんだ。


 あれは、12月の終わりの寒い冬の日だった。


 イヴァン・クロウ。時がどんな風に経とうと、僕は昨日のことみたいにあんたが手にした、銀のナイフが僕の咽喉ぶえを切り裂いた時のことを覚えてる。


「恋人をなぶり殺しにされた、あんたはすごく怒ってた。でもね……」

「でも……?」


「僕だって、生きていたかったんだよ」


 ほんの少しの沈黙があった。言葉に詰まったイヴァンを笑い、ティルが言った。


「でも、あの後でマスターに別の命をもらったし、僕は別にイヴァンのことを恨んでなんかいないんだ。僕はイヴァンが好きだよ。だって、あの拘置所の中で聖ミカエルのフレスコ画を見つめながら、あんたは絞首台に上のが怖くてたまらないって震えていたじゃないか」


 鈴のような笑い声を残して空に身をひるがえした少年を斜めに見やり、イヴァンは言った。


「ティル、お前、いつまで、男の成りでいるつもりなんだ」


空から声が返って来る。


「このまま、ずっと」


 空気の層の中に溶け込んだしまった、少年の姿の少女。


 自分が咽喉を切り裂いた可愛い少女の面影と、死の瞬間に目に焼きついた驚いたような瞳の表情を思い出し胸が痛くなる。そんな気持ちをひきずりながら、イヴァンは、ピアノの音が響いてくるレストランの中庭に入っていった。


 ピアノを奏でていたのは背を丸めた老婆だった。人っ子一人いない、レストランの中で、木枯らしに吹かれながら彼女は静かに鍵盤をたたいていた。


 午後2時。


 天の中心にあった陽の光が、ゆるやかに西へ動き出した冬の空を男は物憂げに見上げる。そんな客に老婆は穏やかな笑みで微笑みかけた。


「いらっしゃい。クリスマス休暇で、みんな家に帰ったからね、こんな日にお客が来るとは思わなかったよ」


 彼女の言葉にイヴァンは、少し首を傾げて言った。


「なら、お店なんて開かなきゃいいのに」

「駄目なんだよ。今日はね、息子がクリスマス休暇で、兵役のつかの間の休みだから……約束したのさ。あの子の好きなピアノを弾いてここで待っているってね」


「今日? おばあさんの息子が?」


 空の色は、まだ青かった。それでも、闇の目をもつ青年の瞳の中で、それと一繋ぎの遠くの空は赤く燃え上がりその背後にうごめく闇と合間見えながら、まだらの渦を描いていた。


 死の影が、ひしひしと近づいてくる。

 明日にはここにも、戦火がくる。家が燃え、人は死に、村は消えてなくなる。


「それでも、おばあさんは、ここであんたの息子を待っていたいの?」


 脈絡のない男の問いに、老婆は落ち窪んだ瞳を向けてこくんと頷いた。


「ここは、あの子の故郷だからね。このレストランもあそこで遊ぶ子供たちも、全部、そっくり、あの子の宝物なんだよ」


 中庭に備え付けられた小さな窓から、外で遊ぶ村の子供たちの声が聞こえる。イヴァンは、耳をそちらに澄ませた後でピアノを弾く老婆に近づいていった。

 そっとその肩に触れ、白髪まじりの老婆の髪を彼女の首伝いに指にからませる。優しい笑みを浮かべた老婆に銀色に光る眼を向けて、彼は言った。


「ならば、もっとそのピアノを聞かせてよ。ずっと鳴り止まない、その音があなたの息子の耳に届くまで」


* *


「あ~あ、ここにももう飽きちゃったな」


 村の上空を一回りしてきたティル・ネーナは、子供たちが遊ぶ広場に降り立つと退屈そうに欠伸をした。

 広場の向こうのレストランの中庭から、ピアノの音が響いてくる。それと同時に、子供が蹴り上げたボールが、ティルの前に転がってきた。

 取っておくれよ! とばかりの満面の笑顔で手を振る子供たちを見据えて、ちょっと彼らと遊びたくなる。


「ねぇ、僕も入れてよ。退屈なんだ」

「うん。いいよ」

「ところで、ここに男の人がいなかった? 灰色のコートを着た、背の高い」

「ああ、その人なら教会の方へ歩いて行ったよ」

「教会へ?」


 腑に落ちない表情の金の髪の少年を見て、子供たちは、そんな事より早く遊ぼうよと、まどろこしそうに彼の腕を引っ張った。


  遊ぼうよ

  遊ぼうよ

  時間はたっぷりあるんだから

  君と僕らは、もう友達なんだから


 その言葉に、ティルは、ぎょっと子供たちの方に目をやった。

 どの子の首にも、残されている深い二つの傷跡があった。


「イヴァン・クロウ! あんたは、何で!」


 耳に響いてきたピアノの音に引きつけられ、飛び込んでいったレストランの中庭。

 そこでピアノを奏でる老婆を見て、ティルは、唇を噛みしめる。


 同じ噛み跡、あの子供たちと。

 同じ惨劇、僕らの村を全滅させた、あの日の夜と。


 その時、にわかに空に黒雲がたなびき出した。


 闇の王がやってくる。

 黒い風が飛来する。

 焼夷弾に焼かれた炎と、飛び散った血糊と、粉々に砕け散ったコンクリートの塵灰を巻き込んで。


「マスターが、この地に降りるぞ!」


 慌てたような声音を出して、金の髪の少年は仲間を探し出した。そうだ、教会だ! イヴァンは教会に向かったと子供たちが言っていた。


* *


 教会の鐘は、今日も鳴ることがなかった。手伝いの青年が戦争に駆り立てられ、誰もそれに触れることはなくなり、神父は年をとりすぎて、鐘突堂のある鐘楼に上れなくなった。

 人気のない教会の祭壇の横には、聖ミカエルの画が掲げられていた。

 白い翼を広げ、天使を率いて地上に降り立つその姿を見据えて、夢遊病者のように、その画の下にたどりついたイヴァンは、膝をおり、祭壇の下の床にかしづいた。すると、その時、


「イヴァン・クロウ。馬鹿な……お前は、一年も前に絞首台に吊られたはずなのに……」


 見上げた先に、見知った神父の顔がある。拘置所の最後の雪の夜に、祈りを捧げてくれた、あの神父だった。


「闇の王が降り立って、私に命をくれたのですよ。絞首台の無情な綱では、吊るしきれない無限の命を」


「……お前は、闇の人畜か! そうして、またこの村に厄災をなすつもりか!」


 だが、闇の男は、神父の言葉に、強く頭を横に振ってから、教会の天井を指差し言った。


「私がやらぬとも、じきに、この地は闇の支配に落ちてゆく。ほら、もうそこに、魔王は来ている」


 驚き、上に目を向けた神父は、教会の天井 ― 神々を描いた美しいフレスコ画がある― を覆い隠すように、広がった、黒い笑みに唇を震わせた。


 魔王……


「なぜ、お前は聖なる神の家に入り込む?」


 なぜ、入り込める……?


 そんな神父の懸念を読み取ったかのように、闇の王は声を荒げた。


 神の慈しみ、神の愛、神の奇跡。そんな物でこの世の闇を拭い去ることができるものか。人は壊し、人は憎み、人は死ぬ。それとともに、私の力も大きくなるのだ。

 私は、破壊者。破壊するものが消えぬ限り、私はいつでも、降臨する。例えそれが、聖水と祈りに浄化された神々の城であったとしても。


 嵐のような笑いを残して、黒い笑みは教会の天井から天空へと消えていった。


 愕然とその跡を目で追った神父は、悲哀に押しつぶされそうな表情をして、イヴァンの方向に目を向けた。


「イヴァン・クロウ、闇の生物。それなのに、なぜ、お前はこの場所に平然とかしづいていられるのだ。聖ミカエルの御姿の元で、お前は少しの怖れもなく、まるで、一身にその加護を受けているように、とりすました顔をして……」


 その問いに、彼は答えを返さなかった。……が、ただ、こう言葉を残した。


「私は、待っているだけなのです。あのレストランの老婆のように……未来永劫、亡くしてしまった、自分の天使を」


 神父は唇を震わせる。


「まさか、あなたは、村の人々を……」


 闇の男は、首を横に振る。


「襲いやしません。ただ、仲間に引きいれただけなのです。やがて、ここに訪れる死の洗礼から逃れるために」


「何てことだ! 何という罰当たりなことを!」


 今にも頭を抱え出しそうな神父を、イヴァンは無表情な目をして眺めていた。祭壇の下の引出しから、神父が銀の拳銃を出し、それに銀の玉をこめた時にも、彼は知らぬそぶりを決め込んでいた。

 銀の拳銃を掲げた神父が、教会の出口へ歩いてゆく。その後姿に向かって、イヴァンは初めて言葉を口にした。


「その銀の拳銃で、私の心臓を打ちぬかないのですか」

「無駄だ」

「なぜ?」

「あなたには、聖ミカエルの加護がある。こんな理不尽を神が許すわけがない。なのに、私にはそれが分る。だから、せめて、私は、闇の世界に踏み込んだ哀れな村人たちを救わなければならない。たとえ、この手で彼らの心臓を打ち抜いてでも」


 神父が教会から出てゆくまで、もう、二人には交わす言葉もなかった。


 聖ミカエル


 その画の下で、イヴァンは、物憂げに昔、覚えた歌を口ずさみだした。



 ここからは空が見える 君の瞳に似た青い空

 でも夜は眠れないんだ

 白いパンと蜂蜜が運ばれるような日が

 いつかここへやってくると思うと

 口のうちに流れる蜜の味は昔のキスの味がするんだ


 ミカエル

 僕は君を待っている


 青空だった空は、いつの間にか暗い灰色に変わり、高い空の向こうから冷たい粉雪が落ちてきた。仲間を追って教会へやってきた、ティル・ネーナは、目前に聳え立つ教会の扉の前で、足元から沸きあがってくる、大きな不安に激しく体を振るわせた。


 クリスマス用のリースに用いられた、魔よけのヒイラギが新たな不安を呼びおこし、教会の建物そのものが、邪悪の輩と、ティルの侵入を固く拒んでいた。


 けれども、つい今しがた、教会の屋根から滲みでてきた、黒い影はマスターではなかったのか。かすかに礼拝堂から聞こえてくる歌は、イヴァン・クロウの声ではないのか。


 なぜ、僕は、拒まれるのだろう。

 なぜ、僕は、教会に入れないの?


 泣き出しそうな顔を、教会の入口に向けた時、不意に開いたその扉。

 銀の拳銃を手にした神父の姿に、思わず後ずさる、ところが、ティルを見て、神父は穏やかな微笑みをたたえて言った。


「どうぞ、中にお入りなさい。怖がらないで。神は誰も拒みません」

「でも、僕……」

「大丈夫。たとえ、あなたが闇の使者であったとしても、祝福はあなたの元に訪れます」


 扉から、出てきた神父の優しい声音に背を押され、ティルは、教会の中に歩を踏み出した。

 礼拝堂の壁に掛けられた、聖ミカエルの画が、眩しすぎるみたいに輝いてみえた。その下に佇むイヴァン・クロウの姿に、金の髪の少年は、生まれてからこれまでで、一番、嬉しそうな笑顔を浮かべた。


 きらきらと粉雪のような光が、体をとりまく気がした。

 すると、急に哀しくてたまらなくなってしまった。


 体が薄く透けてゆく。

 瞳から、一粒、涙が流れる。


 そうなんだ。マスターの力は無限に大きく、イヴァン・クロウの背にはいつも、天使の加護があり、それなのに、僕は……僕らは、ただのちっぽけな人間にしか過ぎなくて……


 それでも、僕たちは生きてゆきたくて……。


 ぱさりと礼拝堂に落ちた砂粒。

 それらが、扉の外から吹いてきた寒風に吹かれて飛び散る前に、ティルは最後の意志を振り絞り、かすかな声を残して逝った。



 どんな時でも、

 一番、生きていたかったのは、いつも、僕たちだったのにね。



 イヴァン・クロウは、金の少女の声が小さく消えてゆくのを背中で聞いた。

 天使を携えた聖ミカエルの画が、そんな彼を遠くから見下ろしている。

 彼は歌った。昔、聞いた天使の歌を。



 それでも、僕は待っている。

 だから、愛して

 僕を愛して


 ミカエル。



     【ミカエルへの哀歌】 ~完~


* *


この話は、もともとはピータバロシリーズの外伝として書いた話です。大天使ミカエルは、戦いを司る天使ですが、最後の審判で人類を裁くのも、この天使です。Michel Polnareff の曲をベースにして、その意味合いも、ちょっと含めて書いてみました。

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