13.悪夢の終わり
”これが、”ヴァージナルの前に座る婦人”のオリジナル……”
その絵の中の婦人は、天空の欠片、ラピス・ラズリから抽出された、フェルメール・ブルーの輝きをまといながら、優雅な仕草でヴァージナルを奏でている。その婦人から醸しだされている純粋な愛。けれども、その純粋な心を誘惑するように、その背後には娼家の画中画が掲げられている。その二つのテーマの対比は人生の表と裏をみごとに一枚の絵に描き現しているのだ。
”すごい。この絵には、フェルメールの画家としての魂が込められている”
甚く感激している少年の様子を感じ取って、キースはにやりとほくそえんだ。
「どう? お前が入り込んでいる絵がニセモノだってことがよく分っただろ? 俺は、邪魔しないよ。入り込むなら、やっぱり、その贋作より、こっちのオリジナルの”ヴァージナルの前に座る婦人”の方じゃないのか?」
そして、くるんと対面している二枚の絵に背を向けると、まだ、ミルドレッドの中にいすわり続けているアンナに向かって言った。
「ああ、やっと暇になった。ウィリーの宿換えが終わるのを待つ間に、アンナに”13枚目の肖像画”を描いてやろうか」
「お断り。クリスマスにはまだ、ぜんぜん早いもん」
「お前、やけに冷たくなったなあ」
「だって、私、幽霊だもん」
そんな戯言を言いながらも、心臓はどきどきと音を高めていた。キースは背中に全身全霊の集中力を集めて、後ろの動きを伺っていた。はやる気持ちを抑えながら、パトラッシュの毛並みをなぜる。
時間が刻々と過ぎてゆく。それにつれて、月の光に作られた窓の影も姿を変えてゆく。そして、アトリエの空気が再び、密になった時、
突然、キースの後ろに青白いような光が浮かび上がったのだ。
ウィリアムが、絵から出てきた……。
息を殺して、そっと後ろを振り返った時に、キースが見た光景は、今まで入り込んでいた”ヴァージナルの前に婦人”の贋作から、外に出てきた少年が、オリジナルの絵の前に立ち、まさにその絵に入り込もうとする瞬間だった。
「今だ、行け、パトラッシュ!」
こういう時のパトラッシュは、猟犬なみにターゲットを確実に確保する。少年がオリジナルの絵に入り込む寸前に、彼の体を押さえ込んだ相棒に視線を向けると、キースは、満面の笑みを浮かべて言った。
「残念でした。このオリジナルって言ってた絵も贋作。製作者は《《俺》》」
「嘘だ! この素晴らしい絵が贋作のわけないじゃないか! この絵は、お前が僕を外の世界に出すために父からお金をもらって、ナショナル・ギャラリーから、盗んできた本物に決ってる! 僕を騙そうったって、そうはいかないぞ」
その言葉に青年画家はまんざらでもない顔をして、少年が入り込もうとしていた絵の右下を指差した。そこに書かれていたサインは、フェルメールのサイン、”Meer”ではなく、”K・L・V”(キース・L・ヴァンベルト)
「俺の腕を見くびるんじゃないぞ。別に盗まなくたって、オリジナルに負けない絵は描けるんだよ。それでも、贋作は贋作だ。ウィリー、これで目が覚めたんじゃないのか。お前が今までフェルメールの絵だと思って入り込んでいた絵は、出来のいい贋作にすぎなかったんだ。お父さんが首を長くして待っている。だから、もう、絵の中に逃げ込むなんて真似はやめておけよ」
キースを補うようにアンナも言った。
「そうよ。まだ、命があるのに、その魂を絵に封じ込んでしまうなんて、もったいなすぎるわ」
その言葉とともに、アンナはミルドレッドの中から出て行ってしまった。その直後に、がたんと音をたてて、アトリエの窓が開いた。
頬を通り抜けてゆく夜風が去る方向に目を向けた時、少年の視界にアトリエの窓の下に置かれた、少女の肖像画が入ってきた。
“私みたいに肖像画の中からしか、この世を見れない者だっているんだからね”
頭の中に響く声と、肖像画の中から彼につぶらな瞳を向けてくる少女の姿に、少年は唖然とする。
「お前は悪い夢からやっと、目覚めたんだよ。だから、もうお父さんの所へ帰ろう」
キースは、少年の肩を軽くたたいた。
パトラッシュが彼の頬を鼻先でちょんと小突く。その時触れた中型犬のふさふさの毛のぬくもりに、やっと、少年は顔をあげ、
「でも……父は、本当に僕を待っていてくれるんだろうか」
「大丈夫。今日、ちらりと聞いた話では、グレン男爵はあの”悪趣味の館”を競売にかけたって話だから。男爵は贋作村だって、いずれはこの学園に権利を売却するだろう。俺も最初は、騙されてるんじゃないかって疑ってかかったりもしたけど、その話を聞いて、ちょっと、彼を見直しちまった」
すると、今まで頑なに父親を否定していた少年の態度が、一変して、そわそわと落ち着かなくなってしまったのだ。
「僕、お父さんに会いたい」
けれども、時間は午前4時。外でタクシーを拾うにも、なかなか、難しい時間帯だし、おまけにグレン男爵の館までは、ピータバロ市から小1時間はかかるのだ。
高飛車なお嬢様 ―ミルドレッド― の声が、今度はきちんとミルドレッドとしての体から響いてきたのは、その時だった。
「そんなの問題なしよ。うちの家のお抱え運転手をたたき起こせばいいんだから。私が携帯をかければ、彼は、何時だって飛んでくるわよ」
アンナが入り込んでいる時とは違って、その態度はえらく傲慢で、キースは思わず苦笑してしまう。
「ミルドレッド、お前がセレブな小学生で本当に良かったよ」
「ちょっと、それって皮肉っぽくない?」
それでも、いつもと変わらぬ彼女の口調に、キースが、内心、ほっとしたのも事実なのだ。時折、アンナが見せる哀しげな表情とは裏腹に、ミルドレッドの声には生きている輝きみたいなものが満ち溢れていたから。
「そんなことはないよ。心の底からミリーには感謝してる」
……と、その直後に、ミルドレッドの脳裏に、何ともいえない妙な感覚が通り過ぎていった。
あれ……? 私、何かとても大切なことを忘れているような……。
ここにいる少年があの絵から、出てきたのを見ていた記憶は、あるんだけど。
そのとたん、
「キス! 私、キスしてもらってない!」
すっとんきょうな声をあげて、キースの上着の裾を引っ張ったミルドレッド。すると、青年画家は、胡散臭そうに少女の顔に視線を向けて、
「キス? ミルドレッド、もう夜明けだぞ。お休みのキスをする時間じゃないだろ」
「でもっ!」
泣き出しそうな顔の少女を見て、青年画家は、仕方ないなぁと彼女に近づくと、
「今日はありがとう、ミルドレッド」
と、その頬に軽くキスをした。
「……」
納得ゆかない。何だか、私、もの凄く、子供扱いされてるし!
後々にこの彼の行動が、ミルドレッドの将来設計を大きく変えることになるのだ。けれども、この時点で、キースがそれに気づくはずもなかったのだが。
* *
空には雲もなく、夜明けを待つ間を惜しむように、明るい星々が、きらきらと瞬いている。
キース、ミルドレッド、ウィリアム、そして、パトラッシュ。
ピータバロ・シティ・アカデミアの正門前で、夜風に吹かれながら、ミルドレッドがチャーターしたリムジンを3人と1匹は待っていた。
それにしても、ピータバロ市の3月の気温といったら、この時間帯のせいもあって、真冬といっていいほど冷え込んでいるのだ。
「この寒さ、どうにかならないの」
「もうちょっと待てよ。すぐにリムジンが来るから」
「それにすごくお腹がすいた。何ヶ月も絵の中にいて何にも食べてないのに、どうせ僕を呼び出すなら、食べ物くらい用意しててくれてもいいじゃないか」
その少年の言葉に青年画家は眉をしかめ、
「ミリーが買ってくれた食料があるけど、あれは俺のもん。それに、お腹がすいてたって、そんなのは自業自得だ。寒かったら、パトラッシュにでも、しがみついとけ! ウィリー、お前、絵から出てきたはいいが、ちょっと我ままだぞ」
やっぱり、金持ちのご子息ってのは、俺は苦手だと、自分の隣にいる”もっと金持ち”のご息女の方にちらりと視線を向ける。けれども、ミルドレッドは文句も言わずに、冷えた両手を揉みほぐしている。そんな姿にへぇと目を細めて、
「ミリー、寒い?」
「そりゃあ、寒いわよ」
すると、青年画家は油絵の具で汚れた手を少女の手に伸ばしてきた。ぎゅっと彼女の片方の手を握り締めて、自分の上着のポケットにそれを突っ込む。
「これで少しは暖かいだろ?」
思わず、頬をピンクに染めたミルドレッド。
……普段は無神経なくせに、何でこいつは時々こういうことをするのよ。
ポケットの中の暖かさが頭の芯まで届きそうだった。その時、キースは、正門の向こうからこちらへ近づいてくるリムジンに気づき、
「ごめんな。ミリーをこんな時間までつき合わせたくはなかったけれど……でも、もう少しだから我慢して。ウィリーをグレン男爵の元へ送り届けて、シティ・アカデミアが贋作村の権利を手に入れたら、俺はそろそろ動き出すから。贋作村は危険だ。だって、あの村には凶悪なチャイニーズ・マフィアが……」
ところが、前方から、花火が弾けるみたいな音が響いてきたのは、その時だった。
「ヤバい! 噂をすれば何とやらか! みんな、早く、リムジンの中に入るんだ!」
あちらこちらから、乾いた音をたてながら、銃弾が飛んでくる。
ウィリアムを先頭に、ミルドレッド、キース、そしてパトラッシュは、ぎゅうぎゅう詰めになりながら、リムジンの後部座席へ飛び込んだ。わらわらと拳銃を手にした男たちが闇の中から姿を現してくる。それをリムジンの窓ごしにキースは睨めつけ、
「ほぅら、言わんこっちゃない。贋作村とシティ・アカデミアの事をかぎつけた東洋マフィアが攻撃をしかけてきやがった」
「キース、どうするの! 一体、どうすればいいの!」
どうすればって聞かれたって……。
「とにかく、ここから逃げることが先決だ! 運転手さん、リムジンを走らせて!」
けれども、彼らよりもっと事の状況が把握できず、慌てふためいて運転手がアクセルを踏もうとした時、車体の前に銃を構えた東洋マフィアたちが立ちはだかってきた。
男たちが、手に銃を構えながらこちらへ近づいてくる。
「それは、グレン男爵が探していた息子だな。それと、好都合なことに、カーンワイラー氏のご令嬢まで一緒か」
キースは、両手にミルドレッドとウィリアムを抱えこんで、ぎゅっと唇をかみしめる。
ウィリアムとミルドレッドは、とりあえず、人質として生かされても、俺やパトラッシュや運転手は、即座にここで撃ち殺されてしまうぞ。けど、俺はまだこんな所で死ぬわけにはゆかないんだ。
どうする?
そんな質問をお互いにぶつけ合うように、キースとパトラッシュは目と目を交わす。
……と、彼の相棒が、
わぉんと、一声、大きく鳴いた。
すると、
突然、空から、ごろごろと雷鳴が鳴り響いてきたのだ。
ほどなく、バケツをひっくり返したような大雨が降ってきた。
「な、何だ、ゲリラ豪雨か!」
轟音を伴った光が、天から落ちてきたのは、キースが、窓の外に目を向けようとしたその瞬間だった。夜を切り裂きそうな閃光が、正門横の大銀杏の木を直撃する。
銀杏の木が焦げたきな臭い匂い。けど、今日の天気予報では、雷どころか、雨が降るなんて少しも言ってなかったじゃないか!
辺りに静けさが戻った時、
落雷の音と光に頭の芯が痺れたままで、キースは、恐る恐るリムジンの扉を外に開いてみた。
「だ……大丈夫なの」
ミルドレッドの声を背中に受けながら、銃弾が飛んでこないことを確認し、キースはリムジンから外に降り立つ。すると、
「おい、パトラッシュ……俺、おかしな夢を見ているのかな」
先ほどの大雨が嘘のように、外は晴れわたっていた。おまけに、夜空には星々が瞬き、白い月が煌々と輝いている。
けれども、雷が落ちたらしい銀杏の木の周りには、気を失ったマフィアたちが、ばたばたと倒れていたのだ。これは……やっぱり、現実なんだ。
するとその時、けたたましいエンジン音が響いてきたのだ。
まだ夜が明けきれぬ冷気の中に佇む、一台の黒塗りのバイク ―ゼファー1100―
そして、それに乗った黒いジャケットの男。
「あっ、イヴァン!」
少女の声に答えるでもなく、赤みかかった灰色の瞳で彼らに向ける。その直後にヘルメットを装着し、くるりとUターンをして走り出したバイクのライダーに、ミルドレッドが手を振る。そんな彼女に訝しげな目を向け、キースは言った。
「あいつ、何で、こんな所にいるんだ。それに、お前……親しげにしてるけど、分ってるんだろうな、あいつが殺人鬼だってこと」
「殺人鬼? 何それ」
「だって、ミリーだって見てたんだろ。お前を助けた時、奴がマフィアを殺ったところを」
「キース、あんた、何言ってんの。もしかして、あの時にあんまり怖い思いをしたんで、後でおかしな夢でも見たんじゃないの?」
ミルドレッドは、イヴァンに助けられたことは覚えていても、その後の惨劇については全く、記憶にないようなのだ。
イヴァン・クロウ……
さっきのゲリラ豪雨や、雷といい……あの男が現れる場所には、おかしな事ばかりが起こる……。
だが、その時、くわんと吠えたパトラッシュの声に、キースは、はっと我を取り戻した。幸い、マフィアたちは気を失っているだけらしい。面倒が大きくならないうちに、さっさとウィリアムをグレン男爵の所へ送り届けてしまわなければ。




