Ⅰ、目覚め
真っ暗な暗闇を感じた事があるだろうか?
深淵と呼ぶのが相応しいそれは無情にも自らの前に広がっていた。
なぜ俺はこんな所にいるのだろうか……。
その経緯を思い出せそうにない。
確か大学の履修した講義の時間まで一眠りしようと図書館で寝ていたはずである。
まさか夜まで寝てしまっていたのだろうか?
そんなはずはない。
図書館の閉館には必ず起こされるはずである。
何よりも、段々と闇に馴れてきた目が、捉えたものは西洋風のテーブル、消えた燭台、天井には蝋燭のシャンデリアといった如何にもな情報がここが図書館てはないことをありありと告げているからであった。
ひょっとして誘拐だろうか?
それもないだろう。
そもそも俺は男であり、決して裕福な家族に生まれたわけではない。
少々自身は普通とはかけ離れているものの、金の匂いというものを振りまいた覚えはない。
そもそも、暴漢に襲われたとしても撃退できるだけの護身術を身につけている。
睡眠欲には弱いが、どこかに連れ去られるほど無防備で寝るなどしない。
そんなことを考えていると、ものすごい勢いで地面に押さえつけられた。
「ちっ、本当に軟弱な奴が召喚されたのか……。こんな簡単に組み伏せられたぞ。まるで見込みがないな」
組み伏せられ、背中に馬乗りにされた俺の耳に届いたのは、野太い声色の男の不機嫌な罵倒。
気配はそれだけではなかった。
前方の気配に気がついた俺が、顔を上げると前方には男ではなく美女が立っていた。
白銀の真っ直ぐな長い髪を片方だけサイドで縛り、全身黒いフワッとしたフリル付きのワンピースのような服を身にまとい、スラッとした足は白いニーハイに包まれて純白さを訴えている。肌は色白く、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでおり、どこか艶やかさがある美女と美少女の中間さを持つ小悪魔を想像させる女性だった。
「お待ちししておりました、新しい魔王様。サイ、あまり手荒に扱わず連れてきなさい」
「了解」
魔王とは一体なんの事だろうか
アトラクションじゃあるまいしと思いつつ、身動きが全く取れないため、されるがままに暗闇の中を引きずられて連れ去られる。
数分ほど歩かされただろうか。
手荒にされないかと思ったが、俺を押さえつけた巨漢は元来から無骨のようで、強引に連れ去られた場所はこれまた真っ暗な暗闇の広間だった。
「やっと連れてきたのか。どうやら召喚は成功したが、ハズレのようだな」
無人のようだと思い、何のためにここに連れてきたのか、目的を聞こうと顔を向けた途端に、2人とはまた別の声が聞こえてきた。
それと同時に一斉に燭台が燃え上がり、部屋が明るくなる。
そして、俺はまた、巨漢に足を払われ、地べたに突っ伏すこととなったのだった。
「はぁ……」
あまりのツいてなさにため息が漏れる。
憤りよりもこの現状に虚しさを感じているのだった。
「こっ……のっ!!神聖なる場にてなんと無礼な事を!!」
「よいよい。何も事情を知らぬまま手荒に扱われてそれくらいならかわいげあるもんだ。それよりも手荒に扱いすぎて壊してもらっては困るんだよ。今はまだね」
どうやらサイにこれ以上痛めつけられる事はなさそうである。
何とかしてくれという意味を込めて、美女に視線を移すが、目をつむり、寝ているかのように沈黙し、聞こえていらっしゃらないようだった。
ていうか、本当に寝ているんではなかろうか?
俺も酷い扱いだし、暗いし、目覚めも悪かったから寝よう案外夢オチかもと思っていると、先ほどとは違う声が聞こえてきた。
「さて、異界より堕ちたものよ。ヌシは世界から弾き飛ばされた。そこを我々が召喚する事で拾ってやったのじゃ。ゆえに、ヌシにはこの世界で我々魔族の繁栄のために、一魔王をしてもらう。そして、いずれは地上の宿敵共を駆逐し、滅ぼす為に働くのだ。」
途端に、すべての燭台の蝋燭が一斉に燃え上がる。
何事かとあたりを見回すと、そこには多くの存在が此方に向かって視線をやっていた。
人のようなものもいるが、中にはおおよそ人とは思えない異形の主もいる。
しかも人だと思っていたものも、よく見ると角や尻尾が生えていたり、肌の色が全く違う事に気が付く。
サイも腕から赤っぽい肌をしている事に気が付いた。
さすがにこの状況には驚かざるを得ない。
状況どんどん悪い方に向かっている。
幸いな事は、俺の表情は目が隠れるほどの長い前髪のおかげで知られる事はなかったことだろう。
「なあ、爺様方よ。回りくどい事はやめようぜ。うちら悪魔は善人じゃないんだからよう。言っちまえよ。お前を利用する為に召還したんだって。ダンジョン作成能力を持つものが少ないから、外部から無理矢理引っ張ってきてるんだってよぉ……」
「ガイス!!!!余計な事を……」
「それ以上近づくことはさせないわ」
あっけにとられているところを、異形の主の間をかき分け、粗暴が悪そうな、人型に近い男が俺に向けてニヤニヤとニヤつきながら近づいてくる。
爺様方とは先ほどまで俺に話をしてきた人たちだろう。
ガイスの登場に何とも言えない雰囲気を醸し出している。
そんな俺とガイスの間に、さっきまで沈黙を貫いていた、美女が立ちはだかった。
「おやぁ、リリンじゃねぇか。相変わらずいい女だな。やっと俺の妻の一因に加わる気にでもなったのかぁ? 」
「お断りするわ。あなたみたいな品のない人に尽くしたら、サピエンティーア家の名折れよ」
「ふんっ。5大魔貴族か……そのうち、俺の前にひれ伏すさ。今俺のダンジョンは急成長を遂げている。ここの何人かのダンジョンマスターも俺の傘下に下っているものだっているのだからな!!名高いサピエンティーア家の3女様は新しい新米魔王様の養育係か。できそこないの人魔とは絶望的じゃないか。名折れどころか地に落ちているだろう」
「クッ……貴様、リリンお嬢様を愚弄するのか!!!」
サイがリリンを侮辱されて、ガイスに詰め寄ろうとする。
俺はずっと押さえつけられていた為、やっと解放された体をほぐす。
そして成り行きを見守ろうと思った瞬間にサイが何かをされて、吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた瞬間を目撃した。
「ただの肉団子が邪魔すんじゃねぇよ。俺は100階級のダンジョンマスターになったんだっつうの。ダンジョンも作れねえ三下が絡んでくるな」
「まあその辺にしておけ、サイも地上のやつらを駆逐する為には立派な戦力であるぞ」
「まあいい、それよりビン長老。この人魔本気でダンジョンマスターとして一因に加えんのか?異界とはいえ元人間だぜ?ここで殺して、もっかい召還した方がいいんじぇねえの?」
そう言ってガイスは俺へと殺意を笑いながら向けてくる。
思わぬ展開に俺は何もできないが、とりあえず身構える。
ガイスのバキバキっと鳴る鋭い爪を持つ指に思わず唾を嚥下してしまう。
確かに睡眠は大好きである事は間違いないが、こんなわけもわからないところで永遠に眠るのは冗談ではない。
「おい、やめぬかガイス!!召還はそう何度もできる物ではない。魔素が色濃く溜まらなければならぬ。そして溜まるのは何百年に一度と誰でも知っているじゃろうが……まがい物の召還法と陣ではないのじゃから、そうポンポン出来るわけあるまいて。こんな弱そうな元人間の人魔とはいえ貴重な真なる魔王なのじゃから、無下に扱う事は許さぬ。いかにおぬしとて、統合魔王の候補魔の資格を失うぞ」
「ちっ。命拾いしたな人魔。俺が統合魔王になるまでだがな……」
その言葉と唾を吐き捨てると、ガイスは荒々しく扉から出て行った。
後に残された者たちからは、安堵と困惑が残ったのだった。
「ふぅ、やっと話が進められるな。では話を始めていこうかの。この世界におけるお主のあり方を……の。その前に名を聞こうかの」
再び俺に眼が集まる。
「この雰囲気は返してくれそうにはないんだな。わかった。俺の名前は、霧ケ峰凪。氏名の括りはあっても、文化が違うだろうから凪でいい。とりあえず、命の保証を要求する」
俺はそれだけ告げて、自分の生きる為に一歩を踏み出した。