第八話 浮かび上がる泡
思いのほか時間をかけて、侍女はお妃さまの元から戻ってきました。
手に小さな籠を下げて戻った侍女は、部屋に入るなりツァーレンの目の前で籠の中から銀製の丸い缶を取り出してテーブルに並べました。
「ひめさま。お妃さまからの御伝言で、今宵はよく休まれよとのことでした。それと、この紅茶をくださいました。お飲みになられますか」
「それは……お妃さまに御礼状をしたためなければなりませんね」
「そのことですが、それもよいと。ひめさまが過労と診断されたとお伝えしたところ、この紅茶をくださいました。カモミールティですわ。疲労回復によいと伺いました。これを飲んでゆるりとされよとのことでした」
ツァーレンは首をかしげました。
結婚話が舞い込んで以来、お妃さまは何かとツァーレンによくしてくれるように思うのです。
香油しかり、この紅茶しかり。
それ以外にも刺繍が得意なツァーレンに珍しい糸や布が届けられることもあるほどです。
お妃さまはわたくしのことを醜いと、一緒の席に立ちたくないと仰せだったはず。
部屋の中にいてさえ帽子を帽子を被り、顔を見せないようにとの御助言を下さったのもお妃さま。
父である国王すら醜いわたくしをお忘れになり、こちらに来られた記憶が一遍もなく。
それなのにどうして、このようにわたくしに何かを与え、わたくしによくしてくださるのでしょう。
ツァーレンにはお妃さまの急な変化の理由が掴めませんでした。
思いに沈んでいると、かちゃりと薄い陶器のぶつかる音が聞こえました。
侍女がツァーレンの返事を待たず、お妃さまの紅茶を淹れてきたようでした。
「……美味しい」
「ようございました。お妃さまがお付きの侍女に、私のお茶の淹れ方がなっていないようだからお茶の淹れ方を教えるようにとおっしゃられて。先ほどはそれでひめさまの御前を下がったのですが……ひめさまが倒れられたと伺って急いで戻ってまいったのです。お茶のことといい、必要な時にひめさまのそばにいれなかったことといい、侍女としての役目をこなせず、ひめさまにはご迷惑をおかけいたしました」
深々と頭を下げる侍女に、ツァーレンはふるふると首を振りました。
わたくしを支えてくれる唯一の人が何を言うのかしら。
わたくしなど見捨てて、ほかの王族に仕えるなり、もしくは貴族に仕えるのならばもっと楽しいことも多いでしょうに。わたくしなどに仕えたがために一日中部屋の中でいるしかない、他の侍女と交流すら持つこともできず、この部屋でわたくしと一緒に生きてくれているというのに、その程度のことで迷惑をかけたなどと言わないで。
「紅茶をありがとう。あなたも今日は疲れたでしょうから、もう下がって休んでください。わたくしももう休みます」
「はい。それでは失礼いたします。お休みなさいませ」
「……お休みなさい」
部屋の灯が一つ一つ消され、侍女が部屋から出て行くと、ツァーレンは静かに寝台に横たわりました。
枕元には黒い羽根が一枚、ツァーレンの力となってそこに存在しています。
羽根を何度も撫で上げると、しんと静まった部屋の中でしゃらしゃらと羽根と布の擦れる音が響きました。定期的なその音は心地よく響き、ツァーレンは思考の海に引き込まれていきました。その海の中で色々な思いが泡となっては浮上して、ツァーレンに纏わりついて離れようとしません。
結婚相手だという隣国の上皇の泡、美しく優しい鴉の泡、フロレスの泡、そして何よりお妃さまの泡がツァーレンに纏わりつきます。
わたくしのために侍女にお茶の淹れ方を指導した……?
あのお妃さまが、お茶の葉を下さるだけではなく、そのようなことまでなさるなんて、いったいどういうおつもりなのでしょう。
けれど言葉や態度はかわらずわたくしを非難めかしていたというのに。
なぜ、なぜ、なぜ?
考えても考えても答えなどでるわけもなく、ツァーレンはいつしか眠りに落ちたのでした。
翌朝、ツァーレンは朝の日差しが差し込む前に寝台を後にしました。
指先には一枚の濡れ羽色の羽根がツァーレンの不安を映してくるくると回っておりました。
―――――どうして。
カーテンを開けてガラス越しに庭を見ても、そこに待ち人がいるはずもなく。
寝台に戻って眠ったとしても、彼の人はきっと現れず。
―――――どうして、フロレス。どうして夢に現れてはくれないの。
鴉の羽根はフロレスの夢を運んではくれませんでした。
それどころか夢の中でツァーレンは真の闇の中でじぃっと佇んでいるだけだったのです。
声を出しても、歌ってみても、フロレスは現れることなく、闇の中でツァーレンただひとりきりで。
フロレスの声が聞きたかった。フロレスの温もりを感じたかった。
そしてなによりも鴉に渡した思いを、フロレスにも渡したかった。
ツァーレンはしらじらと明ける朝の、夜露に光る美しい庭を見ながら、訳も分からず涙しました。