第五話 誰にも呼ばれない名
あれほど長かった一日が、夜目の利く鴉が現れるようになってからとても短く感じられるようになりました。
いえ、本当は。
昼は以前よりもとてつもなく長く感じ、またそわそわと気持ちが落ち着かず、勉学の教師たちからはいったいどうしたのかと聞かれることもしばしば。ところが夕闇があたりを支配しだすと、はやる気持ちを抑えることができず、侍女を急かし風呂に入り、あとは眠るだけとなったツァーレンをおいて下がらせると、いてもたってもいられず夜の庭へと足を運びます。夜になるのが待ち遠しい分、一日が短く感じられるようになったのです。
そうして得た自分だけの時間。
ツァーレンは東屋でいつものように歌を歌います。
鴉が来る前は悲しい歌を歌いがちだったツァーレンですが、毎日のように訪れる鴉と毎日のように夢で会える漆黒の人の存在が、ツァーレンの歌を変えさせていきました。
透明で伸びのある美しい歌声が、闇夜に溶けていきます。
その闇の中から、ばさりと羽撃く音と共に夜目の利く鴉が一羽、ツァーレンの足元にやってきました。
いつもならばそのまま歌い続けるツァーレンでしたが、足元の鴉が己が翼の中から羽根を取っている間に鴉の前に膝まづくと、普段とは逆にツァーレンが鴉にあるものを差し出しました。
それは刺繍を得意とするツァーレンが手ずから縫いあげた、黒い鴉の刺繍を施した美しい一枚のハンカチでした。
「鴉さん。いつもわたくしの歌を聴いてくださって、ありがとうございます。そして素晴らしい贈り物も。これはそのお礼です。どうぞ受け取ってください」
ツァーレンははばたく鴉の邪魔にならないようにと、足にハンカチをくくりつけました。
鴉はしばらくその足元を美しい金色の瞳ででじっと見ていましたが、喉の奥でくっと鳴くと大きく翼を広げて背を逸らし、くるりくるりと優雅に舞って、そのまま夜空に飛び去って行きました。
ああ、なんて美しい生き物なのでしょう。
翼を広げた姿は優美で威厳があって。
できることなら、わたくしの歌に合わせて舞ってもらいたい。
ツァーレンは鴉が見えなくなるまでその姿を追っていましたが、とうとう闇にまぎれて分からなくなると、一つ大きくため息をついて寝室へと戻りました。
足の汚れを落とし、寝台に横になるときになって、ツァーレンは気付きます。刺繍のハンカチを渡すことに夢中で、鴉の羽根を受け取れなかったということに。
不思議な羽根がないのですから、今宵はきっと漆黒の人と夢の中で出会うことは叶わないとは思いましたが、それでもツァーレンは鴉の舞う姿を思い起こし、その舞いに自分の歌を載せて、幸せに微笑んだまま寝付くことができました。
『……ツァー』
なんということでしょう。
不思議の羽根を枕元に置かなかったというのに、漆黒のあの人はツァーレンの目の前に立っているではありませんか。
『ツァー』
初めて聞く彼の人の声は低く、ツァーレンの身体に染みわたりました。
『ツァー。私のツァー』
漆黒の人は両手を広げてツァーレンを中に閉じ込めます。そしてツァーレンはそのことが嬉しくて仕方がありませんでした。そして自分の名を忘れそうなほど誰にも呼ばれないその名の呼んでもらえたことに歓喜して、ツァーレンは失念していました。どうして漆黒の人がツァーレンの名を知っているのかということを。
「わたしはなんとお呼びすればよいのでしょう」
喜びのあまりくぐもる声を出し、漆黒の人の胸の中でツァーレンは顔を朱に染めました。
腕に力が込め、ツァーレンをさらに己が胸に閉じ込めて、その人は答えます。
『フロレス、と』
「……フロレス。優しい響きの名ですね」
やっと知り得た名を、ゆっくりと味わうようにツァーレンは何度も何度も口に載せました。
満ち足りた時を過ごすツァーレンは、ふと、心の底に押し込めている事実を思い起こしました。
それはあと数カ月もしたら伴侶となる、あの黒い肖像画の人。
―――――わたくしはあの人の名を知ろうとはしなかった。
フロレスの名を知りたくて知りたくて、けれど夢の中ではなぜか声をかけることができなかったため、やっと知り得た名を愛おしく感じたツァーレンでしたが、あの肖像画の人の名を知りたいと思ったことは一度もなかったのです。
―――――どうしてフロレスのことは知りたいと強く思うのだろう。
フロレスの何が自分をつき動かすのか、ツァーレンにはわかりません。
腕の中で身じろぎすると、フロレスは力を弱めてツァーレンを覗きこみました。
間近に感じる吐息と頬にかかる艶やかな黒髪が、ツァーレンの鼓動を早めます。
『ツァー。もう一度名を呼んでくれぬか』
耳元でささやかれる言葉に、ぞくりと身体の中の何かがざわめきました。それは決して嫌なものではないものの、ツァーレンにとって初めての感覚でした。
「フロレス」
なぜだかとても恥ずかしくて俯いたツァーレンの目に飛び込んできたのは、フロレスの足元に巻かれていた白い布でした。
怪我をしているのかと思ってはみたものの、巻き方が軽く怪我を抑えるものではないと思い、ほっとしたその瞬間、ツァーレンは驚きのあまり声を上げました。
「なぜ。どうして、これがあなたの足に」
フロレスの足に巻かれていた布は、夜の東屋で美しい鴉の足にくくりつけた、あのハンカチだったのです。