第三話 香油
お妃さまが帰った後、部屋に色々なものが運ばれました。
ツァーレンに仕えてから初めて見るひめさまへの品物の行列に目をぱちくりとさせて驚いた侍女でしたが、箱のラベルに書かれていた商品名はさきほどのお妃さまの言葉を裏付けるものばかりで、これは本当にひめさまがご結婚なさるのだと感じて嬉しくなっていきました。
ツァーレンはツァーレンで、侍女が部屋の入り口でお妃さまの侍女から次々と手渡されるそれらを首を傾げて見ていました。
お妃さまはいったいどういうおつもりなんだろう。
いただいてもどうやって使っていいものか全くわからないものばかり。
先ほど言われていた『磨く』ということに使うものなのかしら。
その疑問は侍女が解決してくれました。
受け取った箱をテーブルに置くたびに、瞳をキラキラとさせ、嬉々としてツァーレンに説明してくれるからでした。
「ひめさま。さっそく今夜からお使いになられては?いえ、お妃さまのおっしゃるとおり、磨きに磨きをかけないといけませんわね。お風呂に垂らす香湯はどれをお使いになられますか?ローズ、ジャスミン、ラベンダー、カモミール……色々ございますが。それに全身に塗るローションもございます。香油と同じ香りのものを選ばないといけませんわね。ああ、ひめさま。どれになさいます?」
これはそういうものなのか。
けれどそれがなぜわたくしに必要なものになるというの。ローションというものを塗りたくるとなにがどういいというのかわからないわ。
説明を受けてどういう風に使われるか理解したツァーレンでしたが、今まで使ったことのないものに興味などあるわけもなく、ただ侍女が喜ぶ様が嬉しくて相槌をうっておりました。
結局ひとつひとつ匂いを嗅いでその中で一番気にいったローズの香油を使うことに決め、湯船に数滴垂らすととたんにふわりとエレガントな香りが部屋に充満しました。その香りに包まれて湯船につかると、いつもとは全く違って気持ちが柔らかく落ち着いくような気がして、ツァーレンは湯船の中でほうと一息つきました。
たしかにこれは、気持ちがよいものだわ。
ツァーレンは初めて贅沢という言葉を理解しました。
ころ合いを見て、侍女はいつも以上に丁寧にツァーレンの身体を洗いあげると、火照った身体にまんべんなくローションを塗りこんで、最後に手がすべすべになるようにと手袋をはめさせました。
ツァーレンはそれをまるで他人事のように受け入れて、張り切る侍女のされるがままになっておりましたが、香油の効果か、それとも昼間の精神的な疲れのせいか、とうとう疲れてしまってぱったりとベッドの上に倒れこんでしまいました。
侍女はそんなツァーレンにふわりとほほ笑むと、寝やすいように身体の位置を変えて上掛けを掛け、部屋の明かりを落としてそっと寝室から出て行きました。
夜の帳が下りて、下弦の月が世界を照らす頃。
冷たい風が居間の重いカーテンを揺らしました。
ツァーレンはここちよい風に頬をさわられ、目覚めました。
カーテンがおいでおいでとツァーレンを庭へと誘います。
誘われるように外に出て庭に降り立つと、いつものように樹の迷路を迷わず歩き、迷路の中心にある小さな東屋の小さなベンチに腰をかけると、昼間のお妃さまの言った言葉を反芻しました。
このままこの場所で朽ちるだけを待つはずだったツァーレンに違う未来を提示したお妃さま。
―――――結婚。
ツァーレンにとってその言葉は今まで自分とはかかわりのない、単なる言葉としての認識でしかありませんでした。
それが前触れも何もなく、いきなり自分の前に突きつけられたのです。
あの黒い肖像画の人が、もうすぐツァーレンの伴侶となるのでしょう。
そのためにお妃さまは醜いツァーレンを少しでも見栄え良くしようとしての行動を起こしたのですから。
わたくしは、いったい……。
ツァーレンは自分が置かれている立場が理解できませんでした。
いないものとされた今まで。
それなのにいきなり表舞台に立たされようとしているこれから。
ツァーレンは心の中を吐露するようにゆっくりと歌い始めました。
儚く悲しい旋律を、闇夜だけが聞いているこの庭で誰に聞かせるわけでもなく。
さわさわと樹々が揺らした風が、悲しい歌を連れ去りました。
そうして歌は、ツァーレンの部屋のあの肖像画まで届けられました。
ざわり
肖像画の黒い男が蠢きました。
そして歌が届くたびにざわりざわりと蠢いて、とうとう一羽の鴉となってキャンバスから抜け出しました。
鴉はばさばさと黒に濡れた羽根を動かしたかと思うと、歌が生まれる場所を探しに飛び立ちました。
ツァーレンを目指して。