第三十一話 決意
「……上皇……さま」
「ツァーレン殿。それは認められぬ」
つかつかと強く足音を鳴らして部屋を横切りながら、上皇は重い言葉を吐き出しました。
そして寝台の横に立ち、不安げに見上げるリリュシュに目配せをして場所を開けさせ、疲れたようにどさりと椅子に腰をかけました。
「ツァーレン殿。これは国と国の条約に等しいものだということを分かってそのような戯言を申しておるのか?そなた、今し方なんと言うた。王族の結婚に感情は必要ない、そう申したな。それが分かっていながらどうしてそのような不用意なことを申すのか」
いつもは柔らかな上皇の瞳は、この時ばかりは強くツァーレンを非難します。
寝台の上ではツァーレンが小さな体をさらに小さく折りたたむようにしていました。
「上皇さま。ツァーレンさまは本気でそのようなことを言っているわけでは」
「リリュシュ。そなたは少し黙れ。たとえ本気でなくても言ってよい言葉ではない。かような言葉をそなたに聞かせるだけ、そなたは信頼されてはいるのだろうがな。ツァーレン殿もよく考えられよ。この離宮はどこにある?何のためにここにいる?三か月という月日の間に何を学んで何を間違えたのか」
――――違えるな。
上皇はそう言い残し、部屋を去りました。
その後を追うようにリリュシュが下がるとツァーレンは寝台から起き上がり、濡れることを厭わず、ざあざあと降りしきる雨の庭に駆けだしました。
ぬかるんだ土と勢いづいて地にあたっても緩むことのない雨の返りが素足に痛むほど当たります。
髪も衣服もなにもかもがずぶ濡れで、見る影もありません。
―――――わたくしは何をしているの……?
スズーリエにいたときは醜さに捨てられた王女としての苦しみはあっても、漠然とした将来のことを悩む必要はありませんでした。
上皇には自分の醜さも、生い立ちも、立場も、すべて知った上での婚姻を願われて、喜ぶべきことだとういうのに、それを享受して離宮で暮らしていたというのに、今さらできないなどと言われれば、それは裏切りにほかならないものでした。
―――――わたくしは、馬鹿ね。
夏の雨が、ツァーレンの愚かさを冷たく流していきます。
離宮に来て、スズーリエとは違いすぎる待遇と環境に驚き、慣れて。そして甘えてしまった。
見てはいけない夢を再び追い続けてしまった。
―――――本当に、馬鹿。
どのくらいそうしていたかはわかりません。
雨空を仰いで全身で雨を受け入れていたツァーレンは、閉じていた目を見開くと、くるりと庭に背を向けて部屋に戻って行きました。
「ツァーレンさま!?まさか雨の中を出て行かれたのですか」
ツァーレンの気持ちが少しでも落ち着くようにと紅茶を淹れて戻ってきたリリュシュは、庭に続く扉の前で雨を滴らせながら立つツァーレンを見つけ驚きました。
すかさず間近にあったブランケットでツァーレンをくるむと椅子に座らせ、紅茶を差し出しました。
「さあ、紅茶をお飲みになってください。いくら夏の雨とはいえ、身体が冷えてお風邪を召されますわ」
「……ありがとう、リリュシュ。大丈夫よ」
「何が大丈夫ですか!全然大丈夫ではありません。湯浴みの準備をしてきますので、気持ち悪いでしょうがこのままでお待ちください。二度と庭にでないでくださいね、いいですね!」
いつもよりも口調も荒くツァーレンを言い含めて部屋を飛び出すリリュシュを見て、ツァーレンはくすりと笑いました。
そしてそんな自分に驚いたのです。
―――――温かいわ、リリュシュ。温かい。
それからは大変でした。
リリュシュにのぼせるほどに湯船に浸からされ、寝巻をぐるぐるに着替えさせられたかと思うと、また温かい紅茶を飲まされました。
そして一息ついたかと思うと、今度はいら立ちまぎれに力いっぱい扉を開いて現れた上皇が、ツァーレンの子供じみた行為に対するお説教が始まったのです。
「馬鹿だ馬鹿だと思おておったら、ほんになんと莫迦なことを……っ!」
部屋を忙しなく行き来し、急に立ち止っては繰り返す心配まじりのお説教。
延々と続くかに思われたその上皇の行為に一歩下がって控えていたリリュシュがわざとらしくせき込むと、上皇ははっとなってばつが悪そうに顔を赤らめてごほごほと喉を鳴らして横を向きました。
「ありがとうございます。上皇さま」
紅茶のカップを行儀悪く両手ではさみこみながら、ツァーレンは上皇に礼を述べました。
すべてを受け入れるにはまだ弱いツァーレンでしたが、取り返しがつかないほどの馬鹿なことを言ったツァーレンだというのに、上皇もリリュシュも心の底から心配をしてくれているそのことに、ツァーレンは心が満たされていくのがわかりました。
それはスズーリエでは味わったことのない種類の温かさでした。
「礼の意味が分からぬが、二度とこのようなことはなさるな。よいな?」
「はい。二度といたしません」
こくりと頷くツァーレンの真意を確認するかのようにじっと見ていた上皇は、ツキモノが落ちたように晴れやかになったその顔に面白げに片眉を上げて答えると、後をリリュシュに任せて部屋を出て行きました。
「リリュシュ。……こちらの式には何が必要なのかしら。わたくしの婚礼道具を確認してもらえる?」
上皇の後ろ姿を目で追いながら、ツァーレンは囁きました。
「ツァーレンさま。よろしいのですか?」
「ええ。進めてちょうだい。あと半月ほどしかないのでしょう?わたくしの不手際や不作法でこれ以上、上皇さまを困らせるのは嫌ですから」
「ツァーレンさま……」
リリュシュを振り返ったツァーレンの瞳には、迷いは微塵も感じられませんでした。
リリュシュも上皇さまもツァーレンに激甘。




