第三十話 拒否
とん、とん、とん、とん
何処かで雨の跳ね返る音が規則正しく聞こえてきます。
ツァーレンはその心地よい音に、無意識に耳を傾けました。
とん、とん、とん、とん
深い眠りの中からリズムと共に浮上していく意識を、ツァーレンは浅瀬まで持ちあげつつも眠りから二度と醒めないようにと灰色の闇の中に溶けさそうとしていました。
とん、とん、とん、とん
――――どうか、このまま目覚めさせないで――――
つうと一筋の涙が、閉じられた瞼から流れ落ちました。
「ツァーレンさま、お目覚めになられましたか」
カーテンを開けてもまだ暗い部屋で、ツァーレンは目覚めました。
昨日から降り続く雨はだんだんと勢いを増し、寝台に届く雨音は暴力的になっているほどでした。
「……わたくしは、いったい」
妙な違和感を感じて身体を見ると、普段着のまま眠っていることに気がつきました。
もちろん緩めるところはすべて緩められ、少しでも苦しくないようにと配慮はされていましたが。
「ツァーレンさまは、倒れられたのです。覚えてはおいでではないようですが」
「倒れた……?わたくしが?」
「はい。昨夜、上皇さまが外出からお戻りになられて、書類をツァーレンさまにお渡ししたのは覚えておいでですか?」
記憶を手繰りやすくするために、リリュシュはことさらゆっくりとツァーレンに話しだしました。
「その書類は、半月後の神殿の使用許可証でした……ツァーレンさまのお式のです」
「……!」
「それを上皇さまが確認するようにツァーレンさまにおっしゃった直後に、お倒れになられました」
リリュシュが一言何か言うたびに、その情景が脳裏に呼び覚まされます。
雨に濡れてどっしりと重いマント、上皇とリリュシュの微笑ましいやり取り、そして懐から出された一通の書類。
逃げていた現実が、ツァーレンを襲ったのです。
「ああ……そう、そうだわ。半月後と、そう言われたわ」
「はい。喜ばしいことです。ここにきてやっとお式を上げれるのですもの。ツァーレンさま、改めておめでとうございます」
リリュシュはツァーレンを気遣いながらも、嬉しそうな顔を隠せませんでした。
それはそうでしょう。
もともとツァーレンは上皇との婚姻のためにスズーリエからやってきているのです。
それなのにレステアに到着しても式を上げることなく三カ月という月日が経っているのですから、式の日付が決まることは喜ばしいことこの上ないのです。
「……ありがとう、リリュシュ」
礼を言うツァーレンの声は外の雨音に消されてしまうほど弱弱しく、覇気がまったく感じられません。それどころか顔色もいっそう悪く、また倒れそうなほどになっていました。
「ツァーレンさま。お具合が?」
「ねえ、リリュシュ。わたくし……わたくし、上皇さまがとても好きですわ」
「まあ!ツァーレンさまったら、いきなりどうされたのです?」
「本当に、上皇さまが好きなの。あれほどの方はそうそういらっしゃらないと思うのです」
「上皇さまがここにいらっしゃったらお喜びになられそうなお言葉ですが、その言いようはなにか含みがありそうですわね」
ツァーレンは震える手でシーツをぎゅっと握りしめていました。
そして何かを決心したように力を込めた瞳をリリュシュに向けて言いました。
「わたくしは……。わたくしは婚姻を上げることが、できません」
大粒の涙がいくつもいくつも盛り上がり、ツァーレンの美しい頬を伝い落ちていきました。
「ツァーレンさま。それはいったいどうして……」
リリュシュは予想だにしていなかった言葉を受けて、どうしていいのか分からず言葉を濁すほかありません。
「わたくしのようなものに情けを頂いたことには感謝しています。それにリリュシュやアデーレに知り会えたことで、わたくしも自信を持つことができるようになりました。そのことも感謝してもしきれません。この離宮にこれたことは、わたくしにとっては僥倖です。けれども、僥倖を預かるのに必要な、最も大切なことがわたくしにはできないのです」
「ツァーレンさま。それはいったい」
「わたくしには、忘れられない人がいるのです。その人を忘れることができないというのに、どうして婚姻を結べるというのでしょう。もちろんわたくしはこれでもスズーリエの王族ですから、王族の結婚に人の感情など必要ないものは理解しています。理解はしていたのです。それにわたくしは王に見捨てられた王女。国ではわたくしの存在はないものと同等でした。それを上皇さまはどこでお知りになったのか、わたくしの存在を知り、醜いわたくしを貰ってくださると……それだけでもわたくしは、上皇さまに恩があるというのに。恩があるというのに、わたくしは恩をあだで返すようなことを言っているのです」
ツァーレンはそれだけを絞り出すようにリリュシュに訴えると、シーツを手繰り寄せながら口を固く閉ざしました。
長く垂れた髪が悲愴に歪む顔を隠しています。
小刻みに揺れる身体は小さく、消えてなくなりそうなほどでした。
「それは認められん」
雨音に負けないほどの強く太い声が、薄暗い部屋に響き渡りました。




