第二十二話 初めての夜
ツァーレンが与えられた部屋の窓からは、離宮の四方を囲む庭のうちの『参室』と呼ばれる、秋に彩る草木を集めた庭が伺えます。
離宮の庭は『弌室』が春、『弐室』が夏、『参室』が秋、『肆室』が冬の、四季を織りなすように作られたもので、ツァーレンの庭とは随分と趣が違いました。
樹よりも草花が多い庭には、少し窓を開けただけで虫の鳴き声が心地よく響きます。
―――――外にでてもいい、わよね。
専属医師のアデーレは、外にでることをしばらく見合わせるようにと言ってはいましたが、夜の庭ならツァーレンにとってはなじみ深いものです。少しくらいなら大丈夫と、庭に続く扉に手をかけようとした時、こんこんと寝室の扉をノックする音が聞こえました。
「ツァーレンさま。お風呂の用意が整いました。お入りになられますか」
―――――リリュシュったら、まるでタイミングを計ったみたい。
ツァーレンが浴室に出向くと、リリュシュはツァーレンがスズーリエのお妃さまからいただいた香油の茶色の小瓶をバスタブの横の棚に並べつつ、どの香りがいいか吟味していました。
「ツァーレンさまの荷物の中にありました香油をお持ちいたしました。どれも最高級だと謳われる産地のものばかり。素晴らしいですわ」
「まあ、そうなの?それは頂き物なのだけれど」
「ではよほどツァーレンさまのことをお考えになられているのですね。なかなかここまで取りそろえることなどできませんのに」
リリュシュの言葉がツァーレンに疑問を投げかけました。
―――――お妃さまが、わたくしのことをお考えに?……いいえ。そんなはずなどありはしない。嫁ぐにはみすぼらしすぎるわたくしを嘲笑いながらも、少しでも貧相さを無くすためだけに、けれども王妃という立場だからこそ最高級の物を贈ってくださっただけ。わたくしのことを考えられてなど、けっしてありはしない。
「ツァーレンさま?どうかなさいましたか」
急に押し黙ったツァーレンに、小瓶を選ぶ手を休めてリリュシュが尋ねました。
なんでもないと、ふるふる頭を振りながら、ツァーレンはリリュシュの手にある小瓶を手に取ると、そこには美しい飾り文字で『カモミール』と書かれいていました。
―――――これは……たしか心を落ち着ける作用があったはず。
ツァーレンは心の奥底で澱んでいた不安がじわりとせり上がってきたのを感じました。
その不安は、だんだんと膨れ上がり表面まで出ようとしていました。
ツァーレンが隠そうとした、その不安。
離宮。
ここにいるその理由。
上皇と婚姻を結ぶために、ツァーレンはスズーリエから月日をかけてやってきたのです。
忘れていたわけではないけれど、離宮に入ったことによって突きつけられた事実が今、波となって押し寄せました。
――――――でも、まだ。
いくら世間を知らないといっても、結婚するということがどういうことを意味するのかは教えられています。これが王城であったなら、沢山の人に囲まれ、沢山の部屋があり、夫婦となるべく二人が式の前に夜を過ごすということはないのでしょうが、離宮は小さく、人は少なく、心許ないものでした。
ツァーレンは旅の間になさねばならなかった覚悟が、まだできてはいなかったのです。
―――――でも。まだ式を上げてはいない。それに上皇さまを見る限り、事前にお渡りなどはなさらないはず。
ツァーレンはこれから起こりうる初夜を前に、頭がくらくらとしてきました。
知識としては十分に知っていても、自分には縁のないものだと思っていたもの。
王族だとはいえ、ないものと思っていた婚姻に、付随する夜のお勤め。
―――――ああ、どうしましょう。
「ああ、そういえば。ツァーレンさま。上皇さまが、旅の疲れもあるだろうから今宵はゆるりと休まれよと申しておりました。アデーレさまとの話のでは、手の腫れが引くまでは安静にしておくようにとのことでしたし。……まあ、ツァーレンさま。どうされました。お顔が赤うございます」
リリュシュがツァーレンのドレスを脱がしながら顔を上げると、そこには顔を極限まで赤く染め、大きく目を見開いたツァーレンが慌てふためく姿がありました。
「ツァーレンさま?」
「ああっ。ええっと。……いいえ。何でも、何でもないのよ。本当に」
「何でもないようには見えませんが」
「大丈夫。……ほら、この小瓶の香湯を使いましょう。緊張がとれるというし。ね、そうしましょう」
珍しく慌てるツァーレンを訝しげに見ながらも、リリュシュはツァーレンから小瓶を受け取って湯船に数滴たらしました。
たちまち立ち上がるカモミールの、林檎に似た香りが辺りに立ち込めます。
「ありがとうリリュシュ。ここはもういいわ。よかったらリリュシュもこの香油を使って?」
「そんな。もったいないです、ツァーレンさま」
「いいの。いつもグリスを頂いているし。さあ、小瓶を渡すわ。下がってちょうだい」
追い立てるようにリリュシュを浴室から下がらせると、ツァーレンは長く息を吐き出しました。
そして真っ赤な顔を隠すように手で覆うと、ずるずると座り込んでしまいました。
―――――わたくしったら。わたくしったら……本当に愚かだわ。勝手に想像をして勝手にどぎまぎとして。
ツァーレンはどくどくと鳴る心臓が落ち着くまで、床の上に座り込んだままでいました。




