第十九話 馬車の窓から
魔物の森の中を、ツァーレンを乗せた馬車は留まることなく駆け抜けます。
唐突に視界が広がると、そこはスズーリエとリステアの国境であるアバ高原。なだらかな岩肌と一面に広がるススキの群生を前に、森の中で感じていた言いようのない恐怖から逃れられた安堵から皆ほうと息をつきました。
森の出口では黒い鳥が去りゆく一行を眺めていたことも知らずに。
それからは順調に旅は続きました。
レステア国内に入ると、スズーリエとは違った景色が広がります。
農業国だったスズーリエと産業が発達したレステアでは、馬車の小さな窓から覗くだけでもこんなにも風景が違うものなのかと、ツァーレンは関心しきりです。
時々に泊まる宿の調度も随分と様変わりしていき、まっすぐで無骨なものから曲線の美しい繊細なものになっていきました。
リリュシュの魔法はその間にもきちんと効力を発揮して、ぼろぼろだった肌がだんだんと剥けて本来のものを取り戻していきます。
「随分とよくなられましたね」
リリュシュはにっこりとほほ笑みながらツァーレンの肌にグリスを塗りこんでいました。
今では全身に使われるグリスは、リリュシュが必要だと思っていた以上に使うため、そろそろ底が付きそうなほどになりました。
「そうね。リリュシュには本当に感謝してもしきれないほどね」
「もったいないお言葉です」
リリュシュの魔法はそれだけにとどまりません。
言葉遣いは主従として堅くなるのは当然のことですが、けれども同世代の同性と語らうことのなかったツァーレンに、この年齢では誰でも持っている気安さというものがあることを教えてくれたのです。
侍女はツァーレンに尽くしてはくれていましたが、やはり年齢差と身分からくる壁がどうしてもあったため、安心感は得られましたが、それだけでした。
同じ侍女だというのに肌の手入れをしてもらっているためか、リリュシュとは急速に親密に打ち解けては笑い声をあげることもありました。
ツァーレンは自分がこんな風に誰かと語らって笑うことができる日がくるなんて、思ってもみませんでした。
そして楽しい時間は早く経ち、あっという間にレステア国首都ニコライに着いたのです。
「今更なのだけれど、上皇さまはどちらにお住まいなのでしょう」
リリュシュとの旅を楽しく過ごしていたツァーレンは、ニコライに入ったとたんに自分がいまからどこに向かうのか気になり始めました。
もちろん上皇は王位を退いているのですから、レステアの城であるはずはありません。
今までのツァーレンならば、婚姻したとしても部屋から出ることはなく一生をそこで過ごすのだと思っていたのですが、リリュシュによって少しずつ肌を取り戻し、明るさを得ると、希望が見えてきたのです。それはほんの些細な希望ですが、ツァーレンにとってはとても重要な一歩であるものでした。
「上皇さまは、城から北に向かったところにある離宮にお住まいです。とても静かで美しいところですわ。きっとツァーレンさまのお気に召されると思います」
「まあ。リリュシュがそう言うのならばそうなのでしょう。それはとても楽しみだわ」
「ええ、きっとお気に召されますこと間違いなしですわ。ツァーレンさまはお庭の散策がお好きだと聞いております。離宮には庭の中に小さな池もございますし、森もございます。庭を拝見したことがございますが、季節によって庭の色彩が違い、それはそれはとても見事なものでしたわ」
リリュシュはその時のことを事細かにツァーレンに離すものですから、ツァーレンはまだ見ぬ庭をすでに何十回も歩き回ったかのような錯覚に陥りそうになりました。
「本当に美しい庭なのね。実際にこの目で観るともっと素晴らしいのでしょうね」
「ええ。間違いなく。それとは別の楽しみもございます。離宮までの道のりにニコライの中心部の街を横切ります。我が国の首都ですからそれはもう活気にあふれていて賑やかです。窓からもきっとその賑やかな通りをご覧になられますわ。……帽子は御入用でしょうか」
「そうね。まだ被らないという選択はわたくしにはないわ……特に人が多い場所ならなおのこと」
いくらツァーレンの状態が良くなったと言ってもそれは以前と比べてというもので、見慣れぬ人にとればそれは醜いとしか言いようのないものでもありました。
馬車の中では事情を知っているリリュシュがいるからこそ帽子を被らずに過ごせますが、一歩馬車から出れば、それがどんなに短い距離でも必ず帽子を被りました。
馬車の近くに人が通ることを考えたら、今しているようにカーテンを閉めるか、カーテンを開けておくならば顔を隠すための帽子が必要になるのです。
賑やかと言われる街を、ツァーレンはどうしても見たかったのです。
それは一度も見ることもなかった夜の舞踏会の、絶え間なく流れる音楽と笑い声と似たものを見れるかもしれないと考えたからになりません。
リリュシュから帽子を受け取り、手慣れた様子で被ると、目の前がいつものように布で覆われました。
これさえ被れば、カーテンを開けてることができるのです。
さっそく馬車の窓近くに座りなおし、カーテンを開けて街並みに目をやりました。
目に飛び込む異文化の美しさに、ツァーレンは乗り出すほどの勢いで窓に近づきます。
郊外ではみなかった石畳で整備された路に夜を照らす街路灯、煉瓦を積んだ強固な家、大人から子供まで忙しなく歩く様、馬車の通る音に負けないように大声で張り上げて話をする人々。
舞踏会とは全く違う賑やかしさはツァーレンの期待を良い意味で裏切って、ツァーレンの心を浮き上がらせました。
「本当に、人というのはなんて素晴らしいんでしょう。活気に満ちあふれる姿こそ、本来の人の姿なのですね」
ツァーレンの感嘆は、リリュシュの心をも喜ばせました。
ちいさな窓越しに街を堪能していたツァーレンは、ふと、手に違和感を覚えて無意識にさすっていることに気がつきました。
まじまじと手を見ていると、なにやら皮膚にふつふつと、見たこともない出来物がありました。
「ツァーレンさま。いかがなさいました?」
さっきまで楽しそうに微笑みながら外を覗いていたツァーレンが、いきなり静かになったかと思うと、今度はじぃと手を見つめて動きません。そして何やら考えて込んでいるのか、リリュシュの声かけにも反応しないのです。
「ツァーレンさま。その手を見せていただけますか?」
リリュシュはツァーレンの手をそおっととると、触った指先になにかざらつくものを感じました。
昨夜グリスを塗りこむときには感じなかったざらつきを目で確かめてみると、そこには見たこともない不思議な出来物が数か所に及んで肌に現れていたのです。
「……これは」
リリュシュは絶句しました。




