第一話 いちにち
ツァーレンの一日は陽が昇るとともに始まります。
父王がツァーレンに与えた唯一の侍女が、ツァーレンを優しく起こします。
この侍女だけがツァーレンの素顔を見ることが許されていましたが、彼女は醜い姿をみても目をそむけることなくツァーレンが小さなころからずっと一緒にそばにいて世話を焼いてくれていました。
「ひめさま。鳥のさえずりが聞こえてきております。起きてください」
朝日の日差しを部屋の中に入れ込むためにカーテンを引くと、ガラス越しにきらきら輝きながら朝のすがすがしい光が暗い部屋を明るくしました。
寝起きの良いツァーレンは侍女の手を焼かすことはありません。
水を張った桶で顔を洗い身支度を整えますが、ツァーレンの部屋には鏡がないため、身支度はほとんと侍女がつきっきりで整えます。
最後にツァーレン専用で特別に作られた紗の布がついた帽子を被り、支度は終わります。
朝食は侍女がワゴンで運んできてツァーレン部屋でとり、あとは家庭教師が来るのを待ちます。
外に出ることを許されないのにどうして勉強が必要なのかと思うこともありましたが、勉強はことのほかツァーレンに刺激を与え、またツァーレンもスポンジのように教えることすべて吸収するので、家庭教師たちは自分の持ち時間が終わってもまだ部屋でツァーレンと語らおうとし、次の時間の家庭教師から追い出されるというハプニングがたびたび起こりました。
ツァーレンが特に好きな教科は音楽と刺繍の時間でした。
教師が手放しで褒め讃えるほど、ツァーレンの声は透き通り、高音域まで軽々と達し、また抑揚も素晴らしく感情豊かなものでした。
刺繍はといえば初めこそ自分の頭文字を意匠して縫い付けていた程度でしたが、授業が終わっても空いている時間があればすぐ刺繍の道具がいれてある籠に手を伸ばし縫い始めるものですから、今では自分の持ちものすべてに何かしら刺繍を施しているほどになりました。
けれどツァーレンの特技は、外では漏れ知ることができません。
家庭教師たちは雇いいれられる際に一様に口を閉ざすことを義務付けられ、ツァーレンの家庭教師であることすら口外することもありません。
もちろん、ツァーレンがどのような容姿でどのような人なりなのかということも口にすることはありません。
これほどのかん口令はすべてその醜さゆえ、ツァーレンという存在は城の中ではないものとされているゆえでした。
一日の大半を勉強に当てられているツァーレンでしたが、夕刻になるとその時間もなくなり、侍女と2人で過ごします。
たいていは刺繍をしたり読書をして時間を過ごしているのですが、ふと扉の向こうの世界がどんなものか想像することもありました。
物ごころついてからこの狭い世界をでたことのないツァーレンですから、扉の向こうは家庭教師たちや侍女の言う言葉でしか知りません。
本の挿絵を見ても世界がどのようなものかはわからないですし、人づてに話を聞いてもわかりませんでした。
外の世界に対して好奇心はありましたがそれ以上にこの醜い姿を他人に見られ、辱めを受けるのは耐えられないと思いなおして、また籠に手を伸ばして刺繍を始めました。
夕食になっても、もちろんツァーレンは外にでることはできません。
侍女がワゴンを押してきて、ツァーレンの食事の世話を始めます。
いつも一人きりで食べる食事に美味しいという感想はありません。
侍女は優しく見守っていますが、それだけです。
もそもそと食事を食べ終え、侍女がワゴンを下げて部屋を出て行くと、ため息を一つついてツァーレンは誰も来ない自分だけの庭にでていきます。
夕闇の薄暗いけれど美しい色が庭に影を指します。
ツァーレンはいつもこの寂しい美しさに心を打たれ、歌を口ずさむのが常でした。
夜になるとお湯が用意され、お風呂にはいると湯船には鏡のようになった湯がツァーレンを苛みます。
ゆらゆらと揺れる湯にはツァーレンがいかに醜いかということをまざまざと見せつけるのです。
母譲りのはちみつ色の髪も、このときばかりは慰めになりません。
昆虫のように細い四肢はみずぼらしく、小さな手は使い勝手が悪く、皮膚の色も白というよりも血管の青白さが際立つほどの不愉快な透明感を持ち、十を越えたあたりから胸が膨らみ始め、そしてなにより水面に浮かんだ顔のなんて醜いことか。
できるかぎり自分の姿を見ないように湯船につかり、髪を洗い、身体を洗いするけれど、それでもどうしても目に飛び込んでくる自分の醜さをツァーレンはどうしようもなく。
侍女はそんなツァーレンを慰めてはくれますが、子供のころから尽くしてくれる優しい侍女のことですから、それが嘘であることはツァーレンには分かっていました。
せめて汚れが無いように、これ以上醜くならないようにと身体を洗うツァーレンに、侍女は涙を抑えることができませんでした。
こうしてツァーレンの一日は、毎日が規則正しく過ぎ去っていくのが常でした。
お妃さまが部屋に訪れるまでは。