第十八話 魔物の棲む森
果てしなく続くかにみえた田園風景が突然終わりを告げたかと思うと、景色は急に薄暗くなり、樹々が世界を覆い尽くすかと思われるほどの深い森に馬車は入って行きました。
この森を抜けた後に広がる高原を越えると、目指す国レステアです。
「ツァーレンさま。この森を抜けきるまでしばらく休憩はとれません」
珍しく厳しい顔をしたリリュシュが外を気に掛けながらツァーレンに言いました。
「どうしたの?急に怖い声をだして」
「この森には魔物が棲んでいるのです。本当は回避したいのですが、大周りするには森は巨大すぎて日数がかかりすぎるのでできません。ですからツァーレンさまには御不自由をおかけいしますが、しばらくご容赦ください」
まるで少しでも大きな声を出すと件の魔物が寄ってくるかのように、ひそひそと声をひそめてリリュシュはツァーレンに告げました。けれどもツァーレンはリリュシュの心配などまるでわからず、きょとんとした顔をリリュシュに向けました。
「そんな話など聞いたことがありません。この森はまだスズーリエの領土でしょう?それがもし本当にそうならば王が討伐に兵をむけるのではありませんか?」
「スズーリエではどのように言われているのかは存じませんが、わが国のではそう語られています。高原を越えると魔物の棲む森があると。森を抜けるには被害はないのですが、少しでも立ち止ると訳も分からず恐怖に怯えて気が気じゃなくなり声を上げながら逃げ出すそうなんです。実際この森に入ってからは『帰れ』という圧力が感じられませんか?」
リリュシュがいうような圧力を全く感じないツァーレンには、まるで狐にでもつままれたようなリリュシュの話に目をぱちくりとさせていました。それに圧力などではなく、どちらかといえば薄暗い森がツァーレンを優しく包んでくれているような、そんな不思議な力を感じていたのです。
「……いいえ。わたくしにはまったく」
「まあ!もしかするとそれはツァーレンさまがこの森のある国の王女だからかもしれませんね。旅に同行している者は皆レステア出身ですから、この森に入るのを恐れます。恥ずかしながら私もですが」
「それではしかたありませんね。わたくしにはわかりませんが、そのような気持ちになる森なら急ぎたくもなるというものでしょうし。」
「申し訳ございません。休憩をはさめないことをお許しください」
リリュシュの言葉を裏付けるように、森の中へ進むにつれ、リリュシュは苦しそうに顔を歪めては頭を押さえ、不安げなため息をついては何かを探すように外をちらちらと見たりしていましたが、ツァーレンは流れゆく森の景色を楽しんでいました。
日の差し込まない薄暗い森の中で、先を急ぐ馬車の音が響き渡ります。
いつの間にうつらうつらと薄い眠りに入っていたツァーレンの揺れる意識の中に、何かがちくちくと差し込んできてツァーレンをまどろみから醒ましました。
閉じていた目をうっすらと開けると、同じようにこくりこくりと首を振りながら眠っているリリュシュと、窓の外には相変わらず流れていく樹々が見えました。
ただその景色の中に、一点の黒い鳥がじぃと馬車を。いえ、正確にはツァーレンを凝視している姿があったのです。
―――――わたくしの、鴉……!
それは見紛うことない、ツァーレンの美しい鴉でした。
―――――わたくしの大切な、濡れ羽色の鳥。なぜここに今、現れるの。
流れる景色の中の一瞬の邂逅に、ツァーレンは動揺を隠せませんでした。
マントと共に去ったはずの鴉が一瞬とはいえツァーレンの目に触れたことで、ツァーレンが忘れるようにと押し込めたはずの思いの蓋が外れ、上へ上へと溢れそうになって、思わず手で口を塞ごうとしました。ですがその手は小刻みに震え、次第にその震えは腕に、そして肩にと広がり、気がつくと身体全体が震え出し、とうとうその動揺にツァーレンは飲み込まれました。
―――――フロレス。
夢の中の漆黒の人がいつしかツァーレンが丹精を込めて縫った天鵝絨のマントを羽織り、両手を広げてツァーレンを待っている、そしてその上を天高くツァーレンの鴉が舞う、そんな儚い夢。
もう見ることは許されない夢を、ツァーレンは一瞬の鴉の上に見たのです。
―――――ああ。あのマントを持ち去った鴉は、フロレスに渡してくれたのかしら。わたくしの思い出と一緒に、フロレスに届いたのかしら。
ごとん。
石を踏んだ車輪が不愉快な音をたてて、馬車を不規則に揺らします。
その小さな衝撃はリリュシュの目を覚まさせました。
そして目覚めたとたんに主が苦しそうに震えている姿を見つけ、手元にあったブランケットをツァーレンの肩に回しました。
「ツァーレンさま。お苦しいのですか?もうすこし御者に速度を上げてもっと早くこの森を抜けるように言いましょうか」
がたがたと震えるツァーレンの肩に優しく手をまわしながらも、リリュシュはこの森を恐れているのになぜ眠ってしまったのかと自分を責めていました。
「ああ、申し訳ございません。私が寝入ってしまったがためにツァーレンさまの御気分が悪ことも見抜けず。何を用意いたしましょう。お水で喉を潤しますか。それとももっと暖かい毛布をお出しいたしましょうか」
ツァーレンはふるふると首を横に振って、リリュシュの肩に頭をことんと預けました。
「ごめんなさい。うつらうつらしていたときの夢見が悪くて気分が悪くなっただけだから心配しないで。……でも窓のカーテンを閉めてもらえるかしら」
擦れた声でツァーレンが願うと、リリュシュはなぜカーテンを閉めるのかと訝りながらも、音を立てずに閉じました。
カーテンを閉じたことで鴉は二度と見えないでしょう。
そしてそっと目を瞑ることで心に蓋をし、二度と儚い夢を見ないようにとツァーレンは願いました。