第十七話 リリュシュという魔法
レステア国に嫁ぐ旅は、ツァーレンに思わぬ喜びを与えました。
侍女のリリュシュの知識は豊富で、ツァーレンをまったく退屈させません。
レステアのことを知ってもらおうと時間を惜しんではツァーレンにいろいろなことを話てくれるので、いつのまにかツァーレンはレストアがいかに工芸に強く素晴らしい織物を産出しているかということから必要が無いのではと思われる貴族の裏話まで多岐にわたり知ることになったのです。
もちろんその間、肌の手入れを怠ることはありません。
今まで使っていた石鹸から刺激物の少ない石鹸に変えて身体を洗うことから始め、リリュシュ特製香油のグリスを塗りこんでは綿の手袋をして成分を皮膚に浸透させるようにしていました。それは劇的な効果はないものの、ゆっくりと、だけれど確実にツァーレンの堅く醜い手を変化させていったのです。
「どうしてリリュシュはこんなに肌のことに詳しいの?」
その日停泊した宿の寝室で、お風呂から上がったばかりのツァーレンの肌にグリスを丁寧に塗りこんでいたリリュシュに、ツァーレンは尋ねました。
人に触れられるのが得意ではないツァーレンでしたが、リリュシュの、なにか使命を帯びたような、それでいて慈愛に満ちた瞳を見てからは、リリュシュがツァーレンの身体に触れても不愉快な気持ちを持つことはありませんでした。リリュシュも必ずツァーレンに不快感を与えないように確認をとってから手を取ったりグリスを塗ったりしていたので、だんだんとリリュシュに対して安心感を得るようにもなっていました。
「詳しくならざるを得なかったからです。私も程度こそ違え、ツァーレンさまと同じ症状に苦しんでいた時期もございましたから」
ツァーレンは思わずまじまじとリリュシュを見ました。
リリュシュの肌はとても滑らかで、ツァーレンと同じ症状を患っていたなどと言われてもにわかには信じることができないほどだったからです。
「驚かれるのも無理はございませんね。あの当時はなぜこのような肌になってしまうのかと随分悩みました。医者に診せても首をかしげるばかりでこのまま一生過ごすのかと思っていたものです。ところがあるとき本を読んでおりましたら、香油を合わせることで美しい肌が手に入るという文字が目に飛び込んできたのです。まさかとは思いましたがあのころは藁をもすがる思いでしたので、どうせ駄目でも試すだけ試そうとしてみたところ、信じられないことに肌のこわばりが気にならなくなっていったのです。これはもう、……はまりましたね」
その時のリリュシュの顔ったらありません。
何か悪ふざけを思いついたような、それでいて心から楽しんでいるような、淑女として教育されている身分の女性であればはしたないと言われても仕方がない、そんな笑顔をツァーレンに見せたのです。
ツァーレンは目を白黒させて、けれどリリュシュの心から楽しそうな笑い声を聞きつけて、自分もなんだか楽しくなってきました。
「まあ、それで熱心に調べるように?」
「ええ、そうです。もともと香油は、ツァーレンさまもお持ちでいらっしゃるので御存じだと思いますが、湯船に垂らしたり、ハンカチに染み込ませ持ちあるいたりと香りを楽しむものですが、それ以外にも今しているようにグリスに混ぜて身体に塗りこませて肌の保湿を良くしたり、発疹を押さえたり、ああ、それに虫よけにもなるそうです。一度調べ始めたら面白くなってしまって、いろいろな香油を手にするようになってしまいしたわ」
「何かを追求するって、とても楽しそうね」
「楽しいです。それに実益も伴っていますでしょう?おかげさまで以前とは比べ物にならないほど状態の落ち着いた肌を手に入れることができました。ツァーレンさまにお仕えできたのもその追求心の賜物のせいですわ……さあ、できました」
肌に刺激が掛からないように柔らかいガーゼでできた夜着を着せられて、ツァーレンは寝台に倒れこみました。
慣れない馬車での旅は、座っているだけとはいえ外に出たことのないツァーレンにとってはかなり過酷なものでした。疲れがないようにとリリュシュが色々心を砕いても、興味深い話に耳を傾け流れる時間を忘れ去っていても、こればかりは慣れていないとどうしようもないもので、日に日にツァーレンの疲労は溜まっていったのです。
―――――疲れた。旅というのはこんなに疲れるものだったのね。
夜風を通すように少しだけ開いた窓とばたばたと靡くカーテンは、今は遠くなってしまった自分のあの部屋と夜の庭を思い起こさせました。
―――――歌。ああ、あの庭に降り立って、歌を歌えばどんなに気持ちが安らぐか。……でも今はそんな体力は残ってはいないけれど。
カーテンの隙間から見える月をぼうと見つめながら、ツァーレンはいつしか眠りに落ちていきました。
窓に一羽、闇に溶ける鳥がいることも気付かずに。