第十二話 最後の夜に
それからというものの、ツァーレンは時間を見つけては絹に刺繍を施すようになりました。
滑らかな絹はともすればすぐひっかいてしまいがちになるので、丁寧に、丁寧に糸を一針一針と進めていきます。
朝も、昼も、夕も、夜も、寝る間も惜しんで。
ツァーレンがあまりに針を持ち続けるものですから、指に針の跡がくっきりと残るほどになり、侍女が止めに入ったほどです。
一心に針を運んでいると、それ以外何も考えることはなく、ツァーレンの想いが心の底から這い上がってきてツァーレンを悩ますこともなくなり、終わるころにはくたくたになって眠りにつくことができました。
寝る間を惜しんだ甲斐があってか、予想以上に早く、刺繍も羽根の縫いつけも進んでいきました。
最後の数週間はツァーレンの部屋にお妃さまが来られて、婚礼道具の選別や、足りないものを追加したり、出来上がってくるドレスのデザインを付け加えたりして、時間がいくらあっても足りない状態になりましたが、それでもツァーレンは針を持つことをやめません。
お妃さまは部屋に訪れるたびに仕上がっていく刺繍を片眉を上げて面白そうに眺めてはいましたが、何かを口にだすことはありませんでした。
出立の一週間前。
とうとう天鵝絨のマントは出来上がりました。
黒く光る天鵝絨の肩の部分にはツァーレンの鴉の羽根が縫いこまれ、そして裏側は葡萄色の絹の布一面に大きく翼を広げた漆黒の鴉の刺繍が刺してありました。
「……ひめさま。素晴らしい仕上がりですわ。これは先方様もお喜びになられますでしょう」
男物に仕上げたためにツァーレンが羽織ると足元で布が何重にも重なってはいましたが、それでも手を上げた時に内側に見える鴉が相手を威嚇して飛びかかりそうに見えるほどに迫力があるものに仕上がりました。
これでレステアに持っていくことができる。
ツァーレンは嬉しくて嬉しくてどうしようもなくなり、両手でマントの端を持ち、くるくるとその場を回って侍女を驚かせました。
そしてとうとう出立前の最後の夜。
侍女はいつもとかわらずツァーレンに仕えて、いつもと同じように部屋を下がりました。
それはまるでツァーレンに、明日もまたいつもと変わらない一日が待っているのだと思わせました。
明日を最後にツァーレンの侍女ではなくなる彼女の、それが愛情であることがやっとわかったツァーレンでした。
―――――明日こそ。物心ついたころからずっと仕えてくれた彼女に礼を言って、ここを去ろう。
ツァーレンは、寝室のサイドテーブルに置いてある天鵝絨のマントを手にとって、夜の庭に足を運びました。
あの夜から庭に入ることが無かったツァーレンは、葉音がざわめく樹々を愛おしそうにひとつひとつ撫でながら東屋へと向かいます。
最後の日にと鴉と約束したけれど、鴉は人の言葉を解しません。ツァーレンとの約束など鴉に分かるはずはないのです。
それでもツァーレンは東屋のベンチに腰掛けて、ざわざわとざわめく樹々に耳を傾けながら、鴉が来るのを待っていました。
すると、どうでしょう。
ばさりと翼のはばたく音がツァーレンの耳に届きました。
そして一点の闇が動き、ツァーレンの頭のはるか上でゆっくりと旋回をしながら舞い降りてきました。
「ああ、美しい鴉。来てくださってありがとうございます」
ツァーレンは黒く光る鳥に深々と頭を下げ、鴉の目線と同じ高さになるように足を折りました。
そして天鵝絨のマントを広げると、鴉に言いました。
「わたくしは明日、嫁つ国に旅立たなければなりません。このマントにはあなたの大切な羽根と思い出を縫いつけました。このマントを持って、わたくしは嫁ぎ、そして二度とこの庭に戻ることはありません。最後にあなたに会える喜びを分かってください。そしてわたくしにお礼をさせていただけませんか」
そういうや否や、ツァーレンは鴉の狭く小さな額に最後の口づけをしました。
それはいつもよりも長く、いつもよりも想いを込めたものでした。
そしてそっと鴉から離れると、鴉が飛び立つ最後の姿をこの目に焼き付けようと一歩下がり、その瞬間を待ちました。
けれども鴉はなかなかその場から動こうとはしません。それどころかツァーレンの足元にやってきて、何か言いたげにくぅと喉の奥で鳴くではありませんか。
ツァーレンはもう一度、鴉の目線の高さまで足を折りました。
すると、鴉はいきなりツァーレンが持つマントをくちばしに咥え、ぐいと引っ張ったのです。
一瞬、ツァーレンはなにが起こったかわかりませんでした。
ただ、このまま引っ張り返せば、天鵝絨や絹に攣れができると思い、少しくらいなら鴉のしたいようにさせようと、なすがままにすることにしました。それが過ちだと気付く前に。
ばさり
鴉がはばたき始めます―――――くちばしにマントを咥えたまま。
そしてあっという間に飛び立って、ツァーレンの大切なマントを盗んでいったのです。
それは本当に一瞬の出来事で、ツァーレンは鴉を止める手立ても何もありませんでした。
「……っ!鴉、鴉、どこに行くの。わたくしのマントを返してちょうだい」
ツァーレンはできうる限りの声で鴉に懇願しましたが、鴉はとうに闇に消えてしまっていました。
「鴉、鴉。わたくしの鴉。なぜ、このようなことをするのです」
大切な思い出を縫い付けた、大切な天鵝絨のマント。
それを思い出の鴉がまさか盗っていってしまうとは。
ツァーレンはむせび泣きながら、最後の夜を過ごしました。