第十話 闇に溶ける
ツァーレンは自分が恋に落ちたことを自覚しました。
だからといって胸の苦しみは取れはしませんでしたが、自覚したとたん急に顔が火照り出し、耳の奥ではじんじんと煩いほどの音をたて始めました。
それはここにいるはずのないフロレスに抱きしめられている時のような、不思議な感覚でした。
けれど、ツァーレンは気付いたばかりのその想いを閉じ込めようとしました。
夢の中でしか見たことのない、現実の人ではない人に恋をするなんて、なんて滑稽で愚かしいのかしら。どれだけ恋しく想って、どれだけ会いたいと願っても、フロレスは夢の中でしか現れてはくれない、どうしようもない人なのに。いえ、人ですらない。わたくしの夢の中のたんなる妄想の産物でしかないフロレスを恋しく想うことなんてあってはいけないことだわ。
それにわたくしはもうすぐ上皇さまに嫁がなければならない。見たこともない、会ったこともない人だけれど、醜いわたくしをもらってくださるといってくださる優しい人なのだから。喜んで嫁がなければならないというのに。
―――――フロレスのことを想う時間など、ないというのに。
自分を戒めようとすればするほど、ツァーレンはフロレスを想う気持ちを抑えられませんでした。
それでも苦しくて苦しくて泣いているしかない自分を叱咤して、心配そうに様子をうかがっている侍女に無理やり微笑んで、身支度を整える準備の手伝いを頼みました。
侍女は何かを言いたそうにしておりましたが、ツァーレンがそれに気づくことはありませんでした。
いつものような一日を過ごさなければ。
いつものように教師を招き、勉学に勤しみ、刺繍を仕上げなければ。
そうしているうちにきっとこの胸の痛みを忘れていけるはず。
だからこそ、いつもとかわらず過ごし振る舞わなければ。
恋という感情を初めて知ったツァーレンは、その想いを打ち消す方法などわかるわくもなく、ただたまになぜだか無性に寂しくなった時に夜の庭で歌を歌い踊ることでその寂しさから逃げ出せるような、そんな気持ちになるものですから、同じように身体を動かしたり何かに気持ちを向ければこの苦しさから逃れることができるのではないかと思い当りました。
だからこそ、日常に戻って。
「少し休まれてみてはいかがですか」と案じてくれる侍女の言葉を振り切って、いつもと変わらず過ごそうと決めたのです。
それはある程度は成功したように思えました。
教師が部屋から退室するころには、胸の痛みも薄れ、顔も強張らずに自然に微笑むことができるようになっていました。
けれど夕食までの僅かな時間、静かに侍女と刺繍をしていると、どうしても身が入らずため息をついてしまいがちになりました。
図案通りに一針一針刺していってもいつものように無心で刺すことができず、逆に湧き出る感情をもてあましてしまい、手を止めて考え込むように庭に目を向けるようにもなりました。
―――――フロレス。
夕暮れの茜色に染まる庭の影を見ながら、想うのは彼のことばかりでした。
いつのまに暮れていたのでしょう。
気がつけば扉越しの庭は暗く、手元にあったはずの刺繍用のフープが無くなり、道具はすべて綺麗に片づけられていました。そして寒くないようにと肩にはショールが掛けられておりました。
「ひめさま。食事の御用意ができております」
告げられた言葉に振り替えると、すでにテーブルの上には食事が並べられ、ツァーレンを待つばかりとなっていました。
自分はいつも通りだと、侍女にこれ以上心配など掛けていないはずだと思っていたツァーレンは、その思いあがりに赤面し、侍女が椅子を引いてくれたのを機に食事を始めました。
夕食はいつもよりも幾分かあっさりとしたものが揃えられていました。昨日過労で倒れたツァーレンを思いやってあまり重たくないものを侍女が料理長に願ったのでしょう。
それでも胸が痞えてどうしても量を取ることができません。
侍女に申し訳なく思いながらもそのほとんどを残し、ツァーレンはお妃さまからいただいた香油を垂らした湯船の中に沈みました。
ゆらゆらと揺らめく表面の、自分の醜く腫れた顔を見て、ツァーレンはぱしゃんと水面を打ちました。そしてざあっと勢いよく立ち上がると、そのまま身体を強く噴き上げて、夜着に着替えて部屋に戻りました。
テーブルには侍女が冷え過ぎない程度に冷ました紅茶が準備され、侍女の配慮が伺えます。
――――――ほんとうに彼女には心配をかけてばかり。
こくりと紅茶を飲み干すと、控えていた侍女に今日はもう下がるように伝えました。
そうしてショールを肩に掛けるとそのまま夜の庭へと降り立ちます。
夜の庭は葉ずれのざわめく音が支配して、虫音も聞こえることがありません。
その中を迷うことなく東屋に向かうツァーレンには、一つの想いがありました。
東屋につくと鴉が飛び去った方向にまっすぐ顔を上げて、ツァーレンは静かに歌い始めました。
消え入りそうなほど細く高い音からだんだんと深みを帯びて訴えかけるよな歌声は、風に乗って遠くまで流れ、そして濡れ羽色に光る美しい鳥を呼び寄せました。
白いハンカチを足に巻いた、ツァーレンの鴉。
ツァーレンの歌が終わるとともに足元に舞い降りて、美しい歌に報酬を与えるかのように己の翼から一枚の羽根を取り、ツァーレンに差し出します。
その羽根を受け取ると、ツァーレンは鴉をそっと抱きよせて、小さな額に口づけました。
そして、飛び立とうとばさりと羽根を広げた鴉に、切なそうに顔を歪めて言いました。
「美しい鴉。今までわたくしの歌を聞いてくださって本当にありがとうございました。
わたくしは今日を限りにここで歌うことはないでしょう。あなたから羽根を頂くことももうないでしょう。ですが、あと一度だけ、わたくしに会うてはくださいませんか?その日を最後にこの庭にももう来ることはないでしょうから」
ツァーレンの言葉が受け入れがたいと感じたのか、鴉はくぅと小さく何度も喉の奥で鳴きながら、ツァーレンの周りをばさりばさりと羽根を広げて歩き回りました。
けれどツァーレンは動こうとはせず、とうとうしびれを切らしたのか鴉は飛び去ってしまいました。
夜空を駆け抜けるように飛び去る姿をツァーレンはその目に焼き付けようとじぃと見ておりましたが、闇の中に鴉が溶けて見えなくなると、東屋のベンチにぺたりと座りこんで動けなくなりました。
―――――わたくしもあの鴉のように闇に溶けてしまえたら。
片方の手には羽根を、もう片方の手は痛む胸を抑え、ツァーレンはとぼとぼと寝室へと戻って行きました。