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真夜中の保線魔術師 〜鉄道インフラを支える裏方たちの極限ドラマ。最新AI vs 伝説の職人〜  作者: 六井求真


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第5話:テンションの臨界点(架線調整)

深夜二時。

都市を包み込む湿った熱気は、太陽が沈んで数時間が経過してもなお、コンクリートの底によどみ続けていた。記録的な猛暑日。日中の気温は四十度に迫り、夜になってもアスファルトからは陽炎かげろうのような熱の残滓が立ち昇っている。新海航は、JWR本社の空調の効いた指令室で、手元のタブレットに表示される無機質な数値の羅列を凝視していた。

(……この熱量は、熱力学の計算式を嘲笑わらっている)

新海の脳内では、管内の架線(トロリ線)の総延長が、温度上昇に伴う膨張率の関数として再定義されていた。銅合金で作られた架線は、熱を得ることで目に見えない微細なレベルでその身を伸ばす。通常であれば、線路脇に等間隔で設置された自動張力調整装置――テンションバランサが、その伸びを吸収し、常に一定の張力を保つはずだった。

しかし、モニター上には、架線の接触状態を示すデータが「異常」の橙色で点滅し続けていた。パンタグラフとの離線スパークのリスク。それは全線の電力を麻痺させかねない、致命的な予兆だった。

「新海マネージャー、現場から報告が入っています。テンションバランサの重りが、物理的なストロークの限界値に達したようです」

通信士の報告に、新海は冷徹な一瞥をくれた。

「馬鹿げている。最新型のテンションバランサの設計マージンは、過去百年の気象データに基づいて設定されている。この熱気が設計上の遊びを使い切るなど、論理的にありえない。センサーの故障か、あるいは通信ラグによるデータの不備だ」

――機械が間違えるはずがない。間違えているのは、常に現実の側だ。

新海は独白する。彼にとって、デジタルな標準化こそが世界の真理であり、例外的な自然現象など、エラーとして処理されるべきノイズに過ぎない。効率化によるオペックス(OPEX)の圧縮を至上命題とする彼にとって、この「異常」は、現場のメンテナンス不足を隠蔽するための言い訳に聞こえていた。

「現場に行きます。最新の自動装置が、なぜ『停止』という非効率な選択をしたのか。その目で確認する必要がある」

三十分後。新海は山間部の急勾配区間、地上三十メートルの高架橋の下に立っていた。

そこには、闇に潜む鋼鉄の巨獣――高所作業車が、重厚なディーゼルエンジンの咆哮を上げながら、その長い首を天空へと伸ばしていた。排気ガスと、過熱された古いグリースの重苦しい匂いが、まとわりつくような熱気と混ざり合って新海の鼻腔を突く。

「遅かったな、データマネージャー。画面の中の温度は、そんなに快適だったか」

作業車のバケットから顔を出したのは、現場責任者の松田健吾だった。彼の作業着は汗で色が変わり、剥き出しの腕には、深夜の作業灯に照らされてギラつくような油と土がこびりついている。

「松田さん。装置が故障したのなら、部品交換を指示すれば済む話だ。なぜこんな真夏の深夜に、手動調整などという非効率な工程を強行する。システム上の復旧時間は、もう十秒も遅れているんだ」

新海が早口でまくしたてると、松田は短く鼻で笑った。

「故障じゃねえんだよ、新海。あんたが信じてるその綺麗な数字が、現実の熱に負けたんだ。架線が伸びすぎて、バランサの重りが地面に付いちまう。遊びがなくなった紐を、最後は誰が引っ張ると思ってる」

松田は、巨大な滑車とロープを担ぎ、バケットへと新海を促した。

「登れ。数字の裏側にある、本当の重さを教えてやる」

新海は息を呑んだ。地上三十メートル。高所恐怖症という、彼のデータモデルには存在しない生物学的な脆弱性が、足首を掴んで離さない。しかし、松田の射抜くような眼光に、彼は言葉を呑み込み、震える足で鋼鉄の籠へと乗り込んだ。

油圧の唸りとともに、世界が遠ざかっていく。足元のバラストが点に変わり、周囲を包むのは、熱を帯びた架線が発する微かな放電音と、深夜の湿った風の音だけになった。

(……地上三十メートル。ここで全てのロジックは、重力と熱力学という剥き出しの物理法則に書き換えられる)

バケットが停止した瞬間、新海の目の前にあったのは、熱を帯びて鈍く光る銅の線――架線だった。それはまるで、都市の静脈が、高熱に浮かされてのたうち回っているかのように見えた。


バケットが到達した高さ三十メートル。そこは、地上の熱気さえも生ぬるく感じるほどの、異様な熱のマスに支配されていた。

新海は思わず息を止めた。目の前に横たわる架線――トロリ線が、目に見えないほどの微細な振動を伴いながら、赤黒い熱を帯びているように見えた。日中の酷暑を吸い込んだ銅合金は、夜になってもそのエネルギーを放出できず、大気さえも歪ませている。

「熱い……。これが、データの裏側にある現実だというのか」

「ああ。あんたのシステムは、この熱膨張の『限界点』を計算には入れてなかったようだな」

松田の声は、油圧の唸りの中でも驚くほど明瞭に響いた。彼はバケットの縁に立ち、手際よく巨大な滑車を電柱の支持腕に固定していく。

「見てみな、あのバランサの重りだ」

松田が指差す先、電柱に沿って吊り下げられた巨大な重りが、完全に最下点に達して停止していた。自動張力調整装置テンションバランサ。それは重力の力を利用して架線に一定の張力を与える「完璧な物理装置」のはずだった。だが、想定外の超高温が架線を設計上のマージンを超えて伸ばしきり、重りは地面に突き当たって、その機能を放棄していた。

――遊びが、死んでいる。

新海は戦慄した。システムが「正常」だと告げていたのは、装置の回路自体に断線や故障がなかったからだ。しかし、物理的な「ストロークの限界」という、泥臭い三次元の制約を、彼のスマートなアルゴリズムは読み解くことができなかった。

「遊びがなくなれば、架線はただの『死んだ紐』だ。パンタグラフがこいつを叩けば、一瞬で離線スパークが起きる。一万ボルトを超える電圧が空中で爆ぜれば、架線は焼き切れ、全線が沈黙する」

松田はロープを新海の方へ放り投げた。

「おい、ボーッとするな! その滑車をこっちのレバーに掛けろ。今から俺たちが、手動でこの『遊び』を創り出すんだ」

「……っ!」

新海は反射的にロープを掴んだ。しかし、足元のバケットが風に煽られて僅かに揺れた瞬間、奈落のような闇が視界の端を掠めた。心臓が跳ね上がり、喉の奥がカラカラに乾く。

「どうした、マネージャー。高所恐怖症なんてデータ、あんたの履歴書には載ってなかったぜ」

「……っ、そんなものは論理で制御できる!」

新海は奥歯を噛み締め、震える手でロープを手繰り寄せた。最新型の防寒着の下で、嫌な汗が背中を伝う。だが、目の前で一人、数トンの張力がかかった「凶器」と対峙する松田の背中を見て、逃げ出すことは許されなかった。

松田が調整器ターンバックルにレンチを掛けた。

「いいか、新海。俺が合図したら、そのロープを全力で引け。一気にじゃない。鉄の機嫌を伺いながら、少しずつだ。……もし架線が切れれば、こいつはムチのようにしなって俺たちを真っ二つにする。覚悟しろよ」

松田の言葉は脅しではなかった。深夜の静寂の中に、架線を引っ張る滑車の「ギギギ」という、金属が悲鳴を上げるような軋み音が響き始めた。

(……重い。なんだ、この質量は)

新海は両足を踏ん張り、全体重をロープに乗せた。滑車を通じて伝わってくるのは、単なる銅線の重みではない。それは、何百万人もの乗客を運ぶためのエネルギーを支え続けてきた、インフラそのものの執念のような重圧だった。

熱気で皮膚が焼けつく。汗が目に入り、視界が滲む。だが、新海は手を離さなかった。

「松田さん、テンションを確認! 数値が……っ、規定値に戻りつつある!」

「よし、そのまま維持しろ! 最後の十秒だ!」

松田の全身の筋肉が、怒張した血管とともに浮き上がる。彼は熱を帯びた架線を、自らの肉体を介して力ずくで引き寄せていく。それは、重力と熱力学という自然の摂理に対する、人間の剥き出しの挑戦だった。

その時、新海の目には、松田の姿がただの作業員には見えなかった。

パンタグラフが架線から離れる、わずか十秒の空白。その十秒が、全線を麻痺させ、都市の機能を停止させる。その「十秒の破滅」を防ぐために、真夏の熱帯夜に火花を散らす男。

――雷撃の魔術師。

(この男は、標準化という名の幻想の影で、システムが予見できない『野生の熱』を、その腕一本で御している。これはエンジニアリングではない。自然という名のマザー・ネイチャーと対話し、調和を強いるための魔術だ)

新海は、自分が誇りに思っていた「標準」がいかに脆弱な前提の上に成り立っていたかを痛感していた。完璧なシステムなど存在しない。最後の一線で、誰かが「遊び」を作らなければ、世界はあまりにも簡単に壊れてしまう。

「……固定完了! 離せ!」

松田の叫びとともに、新海はロープを解いた。

架線が「ビィン」と低く唸り、再び鋭い緊張感を取り戻した。テンションバランサの重りが、僅かに地面から浮き上がり、再び重力の支配下へと戻った。

バケットがゆっくりと降下を始める。

地上に降り立った新海は、膝の震えが止まらなかった。作業着は泥と汗とオイルの匂いで台無しになり、本社のエリートとしての端正な面影はどこにもなかった。

松田は新海から受け取った工具を工具箱へ放り込むと、夜空を見上げた。

「機械を過信するな、新海。数字は未来を教えてくれるが、今を救うのは現場の筋肉だ」

新海は、熱を帯びた自分の掌を見つめた。そこには、ロープで擦れた真っ赤な跡が、確かな痛みとともに刻まれていた。

「……松田さん。私の設計思想を修正します。自動化の中に、あえて人間が介在する『遊び』という名の変数を組み込む。……それが、この熱に負けないための唯一の道だ」

松田は初めて、新海の顔を見て短く笑った。

「好きにしな、現場の一員メンバー

深夜四時。真夏の夜の重くまとわりつく熱気の中で、新海は初めて、鉄道という巨大な生命体の「拍動」を、自らの肌で感じていた。

(第5話・完)


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