第4話:絶縁の迷宮:0.1Ωの嘘
たたきつけるような雨が、真夜中の駅構内を塗り潰していた。
二〇二六年、二月の深夜。バラストを打つ雨粒は鋭い飛沫となり、濡れそぼった鉄路を不気味に光らせている。視界は数メートル先すら怪しく、闇の奥からはショート寸前のオゾンが放つ、刺すような匂いが漂っていた。古い油の混じった土の匂いが、湿った冷気とともに重く停滞している。
JWR本社の総合指令所に設置された巨大モニターは、その一画が警告の赤に染まり続けていた。
「またゴーストだ」
新海航は、手元のタブレットに奔流のごとく流れ落ちる制御サーバーのログを凝視した。ある駅の構内、三番線の出発信号機が、列車がいないにもかかわらず赤に固定されている。システム上はそこに巨大な質量が存在することになっているが、現実に存在するのは、激しい雨音と静まり返ったホームだけだ。
「軌道回路の異常占有。回路の短絡に間違いない。セクションIC―402のインピーダンスボンド付近で地絡が発生している」
新海の言葉は、空調の効いた指令所内に冷たく響いた。彼の脳内では、この信号トラブルによるダイヤ乱れが、分単位で数千万円の損失――オペックス(OPEX)の損失へと換算されていく。
「現場の門脇さんに伝えろ。サーバーログによれば、絶縁被覆の経年劣化による短絡だ。該当箇所のレールボンドを交換し、回路を再起動しろ。最短で十分の工程だ。無駄な調査に時間を割く必要はない。効率こそがこの混乱を収める唯一の解だ」
――ロジックは嘘をつかない。
新海は独白する。デジタルが捉えるのは、回路が閉じたか開いたかという二値の世界だ。そこに曖昧な中間など存在しない。だが、無線機の向こう側から帰ってきたのは、激しい雨音を背景にした、低く、しかし拒絶の色を帯びた声だった。
「新海さん。画面の中だけで判断するな。こっちは泥と水の中にいるんだ」
現場に急行した電気工、門脇隼人の声だ。
「門脇さん、意地を張っている場合じゃない。ログは明確に短絡を示している。セクションの絶縁抵抗値が閾値を割り込んだんだ。フェイルセーフが働いて信号が赤に固定されている。指示通りに動いてくれ。始発までの線路閉鎖時間は刻一刻と削られているんだ」
「数字はそうだろう。だが、レールの匂いが違う」
門脇はそう言い捨てると、新海の指示したインピーダンスボンドを素通りし、さらに奥の、レールの継ぎ目へと歩みを進めた。
「何をしている! そこは隣接する軌道回路との境界だ。短絡箇所とは関係ない!」
新海は立ち上がり、モニターに向かって叫んだ。しかし、GPSで表示される門脇の光点は、激しい雨に打たれながらレールの継ぎ目の前で止まったまま動かない。
新海は苛立ちを抑えきれず、自ら現場へと向かう車を配車させた。本社のエリートとしてのプライドが、現場の根拠なき直感に踏みにじられるのを許せなかった。
三十分後。新海が現場に到着したとき、そこには闇に潜む鋼鉄の巨獣――軌陸車が、雨に打たれながら重厚な唸りを上げていた。ディーゼルエンジンの排気音と、鉄が焼ける匂いが周囲に充満している。
「門脇さん! なぜ作業を始めない。ボンドの交換ならもう終わっているはずだ」
新海は高級な防寒作業着を雨に濡らしながら、バラストを蹴り上げた。
門脇は答えず、レールの継ぎ目に這いつくばっていた。懐中電灯の細い光が、雨粒を透過して濡れた鉄の表面をなぞる。
「……ここだ。新海さん、あんたのログには泥の温度や、雨水の不純物濃度は記録されているか?」
「何を言っている。そんな変数は必要ない。抵抗値が0.1Ωを下回れば短絡。それだけだ」
「電気はな、水や泥と混ざれば野生に返るんだよ。デジタルが引いた境界線なんて、こいつらは簡単に乗り越えてくる」
門脇の声は、雨音に混じって不気味なほど落ち着いていた。
門脇は、泥水が激しく流れるバラストの上に膝をついた。
激しい雨音が全てを掻き消す中、彼は懐中電灯を口に咥え、レールの継ぎ目――隣り合う軌道回路を物理的に分断しているはずの絶縁材を見つめた。そこには、激しい雨で流された微細な鉄屑と、粘土質の泥が堆積し、黒い塊となって張り付いていた。
「……新海さん。起きていたのは短絡じゃない。橋絡だ」
「橋絡だと……? 隣接回路からの不当な電流流入か?」
新海の指が、泥に濡れたタブレットの上で凍りついた。
「そうだ。溜まった雨水と泥が、絶縁体を跨いで橋を作っちまった。隣の回路の電気が、この泥の橋を通って不当に流れ込んでいる。あんたのシステムは、それを自回路の短絡としか認識できなかったんだ。電気ってのは正直でな、最短距離を行こうとする。だが、時としてその道は、俺たちが引いた図面の上にはない場所にある」
新海は、自身のデータモデルを高速で検索した。温度、電圧、電流。全ての変数は完璧に組み込んでいたはずだった。だが、そこに泥の粘度や雨水の不純物という不確定な野生の変数は存在しなかった。
「そんなはずは……。シャント感度の閾値は0.1Ω。この程度の泥で、その抵抗値を突破できるわけが……。理論上、そんなインピーダンスの低下はありえない」
「電気はな、水や泥と混ざれば野生に返るんだよ。デジタルが引いた境界線なんて、こいつらは簡単に乗り越えてくる。あんたの言う理論は、綺麗な実験室の中だけの話だ」
門脇はテスターを取り出そうともせず、ただ、レールの隙間に顔を近づけた。激しい雨音と、バラストを打つ水の飛沫。濡れた鉄の冷気と、ショート寸前のオゾンの匂いが混ざり合う。
そして、十秒。
世界が止まったかのような錯覚が新海を襲う。滴る汗、空気の震え、機器の微かな作動音。周囲の喧騒が遠のき、風の音さえも死滅する。門脇が、テスターすら使わずに、その鋭敏な嗅覚と触覚だけで、絶縁体の微かな変調を読み取る。
――魔術だ。
(この男は今、不可視の精霊と対話している。絶縁被覆が熱を帯び、僅かに分解される際に出る特有の匂い。0.1Ωという、電気の囁きのような狂いを、肉体というセンサーで特定しているんだ。これは、情報の迷宮を清めるための、結界師の魔術だ)
門脇が泥まみれの指先で、絶縁材の一角を強く擦った。
「見つけた。ここだ。泥の中に隠れた、僅かな炭化の跡。これだけでシステムは死ぬ。0.1Ωの嘘に、あんたのサーバーは踊らされてたんだよ」
門脇は腰のベルトから洗浄液を取り出し、ブラシで激しくレールの隙間を磨き始めた。新海は、呆然とその背中を見つめていた。自分が完璧だと信じていたデジタルな論理が、泥水一滴に敗北した現実。
「……門脇さん」
新海の声から、いつもの傲慢な響きが消えていた。
「私も、そこへ行きます。洗浄を手伝わせてください。……データの不備は、現場でしか直せません」
「本社のマネージャー様が、泥水に浸かるのかよ。その高い作業着が台無しだぜ」
「……構いません。この0.1Ωの重みを、私も知る必要があります」
数十分後。新海は門脇の隣で、バラストの上に這いつくばっていた。高級な作業着は一瞬で泥に汚れ、冷たい雨が首筋から体温を奪っていく。しかし、濡れた鉄と洗浄液の匂いを嗅ぎながら、自らの手でレールの汚れを落とす感触は、データの上では決して得られない、剥き出しの真実を彼に伝えていた。
門脇が最後の一拭きを終え、立ち上がった。
「組成完了。……新海、信号を診てみろ」
新海は震える指で、泥だらけのタブレットを操作した。
画面上の赤色が、一瞬の瞬きを経て、鮮やかな青色へと書き換えられた。
「……信号、進行。セクション占有解除、ヨシ」
新海の喚呼は、激しい雨音に負けないほど力強く響いた。
「0.1Ωの嘘を見抜くのは、データじゃなくて、そこにある気配なんだよ。覚えとけ、デジタル・マネージャー」
門脇はそう言うと、豪雨の中に立つ信号機を眩しそうに見上げた。新海もまた、泥にまみれた手で、その青い光を仰いだ。デジタルという名の鎧の下にある、泥臭い物理現象。その深淵に触れた新海は、初めて自分が、鉄道という巨大な生命体の神経の一部になったような感覚を覚えていた。
(第4話・完)




