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真夜中の保線魔術師 〜鉄道インフラを支える裏方たちの極限ドラマ。最新AI vs 伝説の職人〜  作者: 六井求真


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第3話:透明な鎧(NAV工法)

深夜三時。高架橋の上に吹き抜ける風は、地上のそれよりも数段鋭く、そして冷徹だった。眼下を流れる川の湿り気と、打ち放しコンクリートが発する独特の乾いた匂いが混ざり合い、夜の帳を冷たく濡らしている。

新海航は、最新型の防寒作業着の襟を立て、タブレットの画面に表示された構造解析データを見つめていた。液晶の青白い光が、彼の険しい表情を闇の中に浮かび上がらせる。

――資産価値の崩壊だ。

彼の脳内では、目の前の巨大な構造物が、数千億円という資本的支出(CAPEX)を基点とした減価償却のグラフへと変換されていた。竣工から五十年。コンクリートの桁には、まるで毛細血管のように無数のひび割れが走り、その一部からは錆を含んだ地下水が茶褐色の涙のように漏れ出している。

新海は、数時間前に本社で行われた予算策定会議の光景を思い出していた。経理部長・財前の、感情を排した声が今も耳底にこびりついている。

「全面更新の予算は出ない。新海マネージャー、君の出すシミュレーションは立派だが、経営は理想だけでは回らないんだ」

「しかし財前部長、この橋梁の劣化速度は加速度的に増しています。今このタイミングで抜本的な投資(CAPEX)を行い、コンクリートを打ち直さなければ、将来的なリスクコストは指数関数的に増大する。これは資産の再構築なんです」

「鉄道はボランティアではない。単年度の修繕費(OPEX)の枠内で、最低限の現状維持に留めろ。一番列車を安全に通す。それができれば十分だ」

財前は、新海が心血を注いで作成したライフサイクルコストの最適化レポートを、一度も目を通すことなく机の端に追いやった。その冷徹な論理の壁に、新海のデジタルな正義感は粉々に打ち砕かれた。

今、新海の目の前にあるのは、その妥協の産物としての「現場」だった。

闇の中で鈍く光る高所作業車。鋼鉄の巨獣は、その長い首をコンクリートの桁へと伸ばし、不気味な油圧の唸りを上げている。漏れ出した古いオイルの重厚な匂いが、深夜の冷気と混ざり合って鼻腔を突いた。

(……結局、現場はいつも絆創膏で済ませようとする)

新海は、現場で行われている作業を冷笑的な眼差しで見つめた。作業員たちが手にしているのは、一見するとただの透明なプラスチックのシートだ。NAV工法――可視化剥落防止工。コンクリートの表面に、透明なFRPシートをエポキシ樹脂で貼り付けていく処置である。

「新海さん、そう不機嫌そうな顔をするな。この冷気の中でタブレットばかり睨んでると、脳みそまで凍りつくぜ」

作業車のバケットから降りてきた男が、タオルで汗を拭いながら声をかけてきた。担当技術者の久米田だ。ヘルメットの奥で光る彼の瞳には、新海が信じる「完璧なデータ」とは異なる、重層的な静寂が宿っていた。

「久米田さん。私は不機嫌なのではなく、この非効率な現状に異議を唱えているんです。私の解析によれば、この程度のシートを貼ったところで、コンクリートの剪断補強には寄与しません。単なる剥落防止なら、もっと安価なポリウレア樹脂の吹き付けで十分だ。なぜこんな手間のかかる透明シートに固執するんですか」

新海は早口で、自らの正論を久米田に突きつけた。

「吹き付けちまったら、中が見えなくなるだろうが」

久米田は短く、吐き捨てるように言った。

「見えなくなって何が困るんですか。補修が終われば、システム上の健全度は一にリセットされる。それがデータのルールです。見守る必要などない、直して終わりにするのがエンジニアリングでしょう」

久米田は答えなかった。彼は腰に下げた、手垢で汚れ、レンズに微かな傷のついた双眼鏡を手に取り、コンクリートの暗がりを見上げた。

作業員が、粘り気のあるエポキシ樹脂を壁面に塗り広げる。深夜の空気の中に、鼻を突くツンとした薬品の匂いが充満した。透明なシートがコンクリートの肌に密着していく。だが、そのシートの下には、相変わらず生々しいひび割れが、隠されることなく曝け出されていた。

「新海さん。あんたは、この橋が明日にも崩れると思っているのか」

「数値上は限界値に近い。だからこそ抜本的な打ち直しが必要だと言っているんです。こんな透明な膜で覆ったところで、ひび割れは中から進行し続ける。それは延命ですらない、ただの誤魔化しだ」

「誤魔化し、か」

久米田は再び双眼鏡を構えた。その背中には、新海のようなスマートな論理ではなく、構造物という巨大な生命体と対峙し続けてきた者の、逃げ場のない孤独が漂っていた。

「俺たちはな、この橋を救おうなんて大それたことは考えてねえんだよ」

久米田の言葉に、新海は言葉を失った。

「救えないなら、なぜこんな作業を……」

「完全に直せねえなら、死ぬまで付き添う。それが俺たちの仕事だ。新海さん、あんたのデータには、『付き添う』という変数は入っているのか?」


久米田は使い古した双眼鏡を首から下げ、コンクリートのけたの真下へと新海を促した。

強力な投光器の光が、剥き出しの構造物を白々と照らし出している。そこには、透明な樹脂によって封印された無数のひび割れがあった。通常、ひび割れ補修といえばコンクリートと同色の材で塗り潰し、傷を覆い隠すのが一般的だ。だが、このNAV工法が描き出しているのは、それとは真逆の光景だった。

「見てみな。透明なシートを貼った後の姿を」

新海は渋々、久米田が指差す場所を仰ぎ見た。

透明度の高いエポキシ樹脂によって固められたFRPシート。それはまるで、橋の肌を保護する新しい皮膚のようだった。だが、その皮膚は透明であるがゆえに、内側の深刻な損傷を何一つ隠そうとはしていない。むしろ、投光器の光を受けて、ひび割れの深淵を露悪的なまでに曝け出している。

「……見ての通りだ。傷を曝け出したまま、ただ固めているだけだ。補強としての剛性アップは微々たるもの。これが一体、何の意味を持つというんですか」

「監視だよ、新海さん」

久米田の声は、高架上を吹き抜ける風の音に負けないほど力強かった。

「この透明な鎧はな、ひび割れがどう生きて、どう動くかを俺たちに教えてくれる。シート越しに、傷の進展をミリ単位で観察し続けるんだ。俺たちは、この橋という巨大な生き物が死に至らないよう、毎日双眼鏡を手に付き添う。隠しちまったら、いつ心臓が止まるか分からねえだろ」

新海は息を呑んだ。

――監視。

その言葉が、彼の構築したデジタルな論理回路を激しく揺さぶる。新海が求めていたのは、一過性の修理という名の効率だった。悪い箇所を切り取り、新品に置き換える。それが資産管理の正解だと信じて疑わなかった。だが、現場の久米田が対峙していたのは、持続的なケアという名の、果てしない対話だった。

「作業員、紫外線照射準備」

久米田の指示で、現場に緊張が走った。作業員たちが巨大な紫外線照射機を、貼り終えたばかりのシートへと近づける。

その瞬間、夜の闇に不気味な青白い光が走り、新海の頬に見えない熱が触れた。紫外線硬化型FRPシート――タフシート。それが樹脂と反応し、分子レベルで結合していく際の発熱だ。目に見えない化学的な火花が、コンクリートの表面で激しく散っている。

久米田は再び双眼鏡を構え、一点を見つめたまま、彫像のように動かなくなった。

その時、新海の感覚の中で、突如として時間の流れが歪んだ。

周囲の作業員の足音も、重機の唸りも遠のき、世界から一切の色彩が消え失せる。久米田が双眼鏡のレンズ越しに、コンクリートの深層に潜む進行性の傷の拍動を読み取る、わずか十秒間のクロノスタシス(時間が止まる感覚)。

――魔術だ。

(この男は今、情報の羅列ではなく、構造物の寿命そのものを透視している。完全に直せないという絶望を、見守るという覚悟に書き換えているんだ。これは、未来の崩壊を未然に封じ込めるための、予言の魔術だ)

滴り落ちる汗が、新海の頬を伝う。それは、彼がこれまで一度も感じたことのない種類の重圧だった。数百万人の命を乗せて走る橋の、微かな悲鳴。それを透明な鎧越しに聴き続け、共に歩む。その「付き添う」という非効率な営みが、実は鉄道という巨大なシステムを支える最後の結界となっていることを、新海は悟らざるを得なかった。

十秒が過ぎ、時間が再び本来の速度を取り戻した。久米田は双眼鏡を下ろし、満足げに鼻を鳴らした。

「硬化確認、ヨシ。……新海さん。あんたの言う効率とは程遠い仕事だが、これが俺たちの医術なんだよ」

新海は、自身のタブレットに表示された、無機質な修繕完了の文字を静かに消去した。

「……久米田さん。その傷の進展、私のシステムでも追わせてください。透明なシート越しにAIでミリ単位の変位を二十四時間監視し、あんたの視界をサポートする。……ケアを効率化する。それが、私の新しい設計思想です」

久米田は驚いたように目を見開き、やがて太い腕で新海の肩を叩いた。

「ハッ、好きにしな。データマネージャー様」

深夜四時。高架上の鋭い風が、新海の汚れた作業着を激しく叩く。透明な鎧を纏った橋は、その傷を誇り高く曝け出したまま、明日の一番列車を待っていた。

新海はもう、そのシートを頼りない絆創膏だとは思わなかった。それは、人間の知恵と執念が、物理的な劣化という運命に抗うために作り出した、最新の魔法だった。


(第3話・完)



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