第2話:コンクリートの泣き声(トンネル点検)
深夜二時。
竣工から半世紀を経て、冷たい静寂を纏ったトンネルの内部は、まるで巨大な墓標のようであった。闇の奥から聞こえるのは、不気味なほど一定のリズムで繰り返される地下水の滴り。湿ったカビの匂いと、古いコンクリートが吐き出す埃っぽい空気が、新海航の鼻腔を不快に刺激した 。
新海は、最新の三次元可視化モデルを投影したタブレットを片手に、足元のバラストを慎重に踏みしめていた 。その背後では、レーザー計測器と高精細カメラを搭載した自動点検車が、無機質な駆動音を立てながら追従している。
――これがアイトレル(iTOREL)の真価だ。
新海は、自身の設計したロジックが弾き出す数値に、深い陶酔を覚えていた。画像解析AIが、数ミリ単位のクラックや表面の変状を瞬時に検出し、健全度を五段階で判定していく 。
「真壁さん、この区間のスキャンは完了しました。AIの判定はオールグリーン。健全度は一、補修の必要なしと出ています」
新海は、前方を歩く小柄な男に向かって早口で告げた。点検員・真壁巌。手垢で黒ずんだ打音ハンマーを一本だけ持ち、ひたすら壁を見つめるその姿は、新海には時代遅れの精神論を体現しているようにしか見えなかった 。
「これまでの打音検査は人員を無駄に割きすぎる。このシステムなら人員を四割削減し、オペックス(OPEX)の大幅な圧縮が可能だ 。真壁さん、あんたがハンマーを振るう十秒の間に、このAIは数百枚の画像を精査している。人間の主観が入る余地などない、完璧なデータですよ」
真壁は答えない。ただ、トンネルのコンクリート壁に視線を固定したまま、時折、規則正しいリズムでハンマーを振るう。「キーン」という、高らかに反響する金属音が、新海の喋る電子的な説明を無慈悲に遮った 。
――非効率な遺物だ。
新海は心の中で毒づく。最新のレーザー計測が壁面の幾何学形状を完璧に捉えているというのに、なぜこの老人は、前時代の道具に固執するのか。
「真壁さん、聞こえていますか。この区間はもう終わったんです。次は千二百メートル先の漏水箇所へ――」
その言葉が終わる前に、真壁が突然足を止めた。
自動点検車のセンサーが捉えた数値には、何の異常もなかった。覆工コンクリートの表面は滑らかで、剥離の兆候も、クラックの進展も見当たらない。AIの論理回路は、ここを絶対的な安全圏として定義していた 。
しかし、真壁は動かない。彼は打音ハンマーを握り直すと、壁の一点に狙いを定めた。
「新海さん。あんたの機械は、壁の向こうの声を聴いたことがあるか」
真壁の声は、地下水の滴りよりも静かだった。
「……何を言っている。向こう側には地山があるだけだ。データの不備はない」
新海が反論しようとしたその時、真壁が力強くハンマーを振り下ろした。
一回、二回、三回。
「キーン」という、鼓膜を劈くような澄んだ音。しかし、四回目に叩かれた場所で、その響きが突如として変質した。
「ボコッ」
暗闇に溶け出したのは、耳を疑うような濁った重低音だった 。
新海は息を呑んだ。タブレットの画面上では、依然としてその地点は健全を示す青色に輝いている。だが、現実の空間に放たれた音は、明らかに内部が空洞であることを告げていた。
「空隙だ」
真壁が低く呟いた 。
コンクリートの表面は完璧な白。だが、その背後で、目に見えない死の空間が、巨人の心臓のように拍動していたのである。
「ありえない。表面の不陸はない。センサーは正常だ」
新海は焦燥に駆られ、タブレットを操作した。アイトレル(iTOREL)が算出したデータに、異常を示すパラメータは一つとして存在しない。レーザーが捉えた覆工コンクリートの幾何学形状は、設計図面との誤差数ミリ以内。論理的には、そこは絶対的な安全が担保された「白」の領域だった。
「真壁さん、データに不備はない。通信の遅延も、解析のバグも考えられない。あんたの耳の錯覚だ。……時間の無駄だ、先を急ごう」
新海の早口な拒絶を、真壁は無視した。彼は無言で壁に耳を寄せ、節くれ立った指でコンクリートの冷たい肌をなぞる。その所作は、あたかも巨大な生命体の微かな心音を探る医師のようでもあり、あるいは、深淵に潜む魔物を誘い出す儀式のようでもあった。
「コンクリートが泣いてるんだよ」
真壁の声が、湿ったカビの匂いと古い鉄の香りが充満するトンネル内に低く響いた。彼は打音ハンマーを握り直し、先ほど濁った音がした場所を、今度は重く、正確に叩き据えた。
「ボコッ」
再び放たれたその音は、周囲の「キーン」という澄んだ反響とは明らかに異質の、内部に潜む「死」を告げる響きだった。
「新海さん。あんたの機械は『表面の顔』を見てるだけだ。だが、この奥には地山との間に巨大な隙間ができている。裏ごめ材が抜けて、コンクリートが宙に浮いているんだよ」
新海は言葉を失った。アイトレルの画像解析は、確かに可視光とレーザーが届く範囲において「完璧な正解」を導き出していた。しかし、その厚みの向こう側、暗黒の空隙という名の病巣は、デジタルな視覚では決して捉えられない領域に潜んでいたのである。
真壁が次の打点を選ぶ。振り上げられたハンマーが空を切る。
その瞬間、新海の感覚の中で、時間の流れが急激に減速した。
滴り落ちる地下水の音。軌陸車から漏れ出すオイルの重厚な匂い。そして、真壁が音を聴くために全神経を一点に集中させる、わずか十秒間の静寂。
――魔術だ。
(五感の全てを、この暗闇の中の一点に同期させている。これはエンジニアリングではない。過去のデータでも、確率統計でもない。仲間の死を糧に、この静寂の中で『今』を診るための、呪いにも似た魔術だ)
真壁はかつて、隣で壁を叩いていた同僚を突然の崩落事故で亡くしていた。その喪失が、彼に「壁の泣き声」を聴き分ける、この神業とも言える聴覚を授けたのだ。
「AIは過去を診る。だが、俺たちは今を診なきゃならねえ」
十秒が過ぎ、時間が再び本来の速度を取り戻した。真壁はハンマーを腰のベルトに戻し、冷徹に告げた。
「ここを直さなきゃ、明日の一番列車は通せねえぞ」
エリートとしての傲慢を砕かれた新海は、自身のタブレットに表示された「健全」の文字を見つめた。それは今や、現場の真実を覆い隠すための、無機質な嘘にしか見えなかった。
「……分かりました。この地点はB判定として処理し、直ちに裏ごめ注入の工程を組み込みます」
新海は震える指で、自ら構築した論理を書き換えた。だが、彼の瞳には、敗北感とは異なる、新たな光が宿り始めていた。
「だが、真壁さん。あんたの耳が届かない全区間を、二十四時間休まずに監視し続けられるのはアイトレルだけだ。あんたの魔術を、俺のデータの中に刻ませてくれ。それが、次の犠牲者を出さないための共生だ」
真壁は初めて新海を正面から見据え、短く鼻を鳴らした。
「好きにしな」
暗闇の奥から、再び地下水の滴る音が聞こえてきた。カビと古いコンクリートの匂いが漂う中、新海は自動点検車という鋼鉄の巨獣を従え、真壁の背中を追って闇の深淵へと進んでいった。
(第2話・完)




