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真夜中の保線魔術師 〜鉄道インフラを支える裏方たちの極限ドラマ。最新AI vs 伝説の職人〜  作者: 六井求真


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第1話:その光は『死』を拒絶する

深夜二時。

世界が寝静まり、都市の喧騒が遠い記憶へと退くこの時間。鉄路は、生者が立ち入ることを許されない空白のヴォイド・タイムへと移行する。

東京から遠く離れた山間部。凍てつくような冷気が肺の奥を突き刺し、吐き出す息は瞬時に白く凍りついて闇に消えた。足元のバラスト(砕石)を踏みしめるたびに、乾いた金属的な音が周囲の静寂を切り裂く。古い油の混じった土の匂い、そして長年風雨に晒された鉄の錆びた香りが、深夜の湿った空気と混ざり合い、この場所が巨大な機械仕掛けの迷宮であることを告げていた。

新海航は、最新型の防寒作業着のポケットからタブレット端末を取り出した。液晶のバックライトが、彼の整った、しかし血の通わない冷徹な横顔を青白く浮かび上げる。画面上には、彼が本社のデジタル変革部マネージャーとして心血を注いで開発した、停電手続一元化システムのインターフェースが規則正しい脈動を刻んでいた。

――全てはデータに還元されるべきだ。

新海は独白する。彼の視界には、目の前の錆びた鉄路も、闇に潜む巨大な鋼鉄の巨獣――マルチプルタイタンパーや軌陸車――も、単なるアセット(資産)の集合体にしか映っていない。

「松田さん、定刻だ。線路閉鎖、および停電手続の承認はすでに本社サーバーから降りている」

新海の言葉は、深夜の冷気に冷たいナイフを突き立てるように響いた。

「今、私の端末で停電着手を操作した。これで架線の送電は物理的に遮断され、システム上は完全な安全が担保されたことになる。さあ、一秒でも早く作業を始めてくれ。始発までの残された時間はわずか二百四十分。この十秒を惜しむ積み重ねが、年間数億円の営業費用、つまりオペックスの圧縮に直結するんだ」

早口で論理をまくしたてる新海の背後では、現場の保線員たちが彫像のように動かずにいた。彼らは、新海の言葉よりも、目の前の闇が発する微かな気配を読み取ろうとしている。

現場責任者の松田健吾は、深い皺が刻まれた顔をゆっくりと上げ、新海を射抜くような眼光で見つめた。その指先は、線路脇の電柱の頂部、一基の表示灯を指している。本来であれば、停電が正常に完了したことを視覚的に証明する、緑色パトライトが点灯するはずの場所だ。

しかし、パトライトは沈黙していた。

「新海さん。お前のその板切れが何を言っていようが、あの灯りが点かねえ限り、俺たちは動かねえ」

松田の声は低く、地響きのように重い。

「通信ラグだと言っているだろう。サーバーのロジックに不備はない。現場の旧態依然とした指差し確認が、どれだけ全体の工程を遅延させているか理解しているのか。……この非効率な遺物が、会社の利益を食い潰しているんだ」

新海は苛立ちを露わにし、タブレットの画面を指先で強く叩いた。電子音が場違いなほど軽薄に響く。

「安全とは魔法じゃない。確率と論理で構築されるものだ。私のシステムが白と言えば、それは絶対の白なんだ。松田さん、あんたのその古い勘とやらは、一ミリのコスト削減も生み出さない」

新海がしびれを切らし、自ら作業着手を宣言しようと一歩踏み出した。バラストが激しく跳ねる。

その瞬間、新海の細い腕を、万力のような力強さで何かが掴んだ。

「待てと言っているのが聞こえねえのか」

松田の手のひらから伝わる圧倒的な熱が、防寒着越しに新海の肌を焼いた。

「パトライトが灯らねえ。それは、どこかでまだ電気が生きている証拠だ。システムが白と言っても、現場が赤なら、それは死を意味するんだ」

「馬鹿げたことを。誘導電流の微かな残留に怯えているだけだろう。計算上、致死量には至らない」

新海は冷笑を浮かべようとしたが、松田の眼圧に言葉を呑み込んだ。

「致死量? そんな数字で俺たちの命を計るな。この十秒、この確認の静寂。それが俺たちの命を繋ぐ最後の結界なんだよ」

松田は新海の腕を掴んだまま、静かに、しかし断固として電柱を見上げ続けた。新海の耳には、タブレットが発する無機質な通知音と、深夜の冷気に響く作業員たちの荒い呼吸、そして遠くの森で木々が軋む音だけが聞こえていた。


冷気が肌を刺し、松田の硬い指が新海の腕にくい込んだ。新海はその圧力を振り払おうとしたが、男の腕は岩のように動かない 。

――ロジックにエラーはないはずだ。通信の遅延か、それともベースステーションの不具合か。

新海は苛立ちとともに、心の中でプログラムの行間を読み返していた。彼の構築したシステムにおいて、停電手続の完了は絶対的な事実として処理されている。そこには人間の主観が入り込む余地など、一ミリも残されていないはずだった 。

「離してくれ。この十秒の滞留が、作業全体のクリティカルパスを歪ませる。オペックスの圧縮という本社の至上命題を忘れたのか」

新海が早口でまくしたてた、その時だった。腰の無線機から、ノイズを切り裂くような焦燥した声が響いた。

「電力指令より各局。隣接区間で行っている緊急の絶縁試験により、当該区間に微弱な試験電流が回り込んでいる可能性あり。現場のパトライトを確認し、点灯するまで作業着手を保留せよ」

新海の思考が、一瞬で凍りついた。

システムが告げていた「白」は、本社のサーバー上での論理的な遮断を意味していたに過ぎない。しかし現実の線路には、他部署の試験という予測不能な「不純物」が、目に見えない死の蛇となって這い回っていたのだ 。

松田が静かに新海の腕を離した。その視線は、依然として沈黙を続ける電柱の頂に向けられている。

「システムが白と言っても、現場が赤なら、それは死を意味するんだ。あんたの板切れの中には、この『生きた電気』の気配までは映らねえだろ」

数分後、闇を塗り潰すような深い静寂を破り、カチリと乾いた接点の音が響いた。

次の瞬間、電柱の頂で鈍い緑色の光が爆ぜた。

それは、都会の煌びやかなネオンとは無縁の、ただ生者と死者の境界を画定するためだけに存在する、冷たく、しかし確かな光だった 。

「パトライト点灯。停電確認、ヨシ!」

松田の野太い喚呼が、深夜の冷気に木霊した。それを合図に、彫像のようだった保線員たちが一斉に動き出す。巨大な鋼鉄の巨獣が唸りを上げ、レールを噛む。

「たった十秒、確認を待つだけで、始発の時刻が危うくなるというのに」

毒づく新海に対し、松田は作業用ヘルメットの奥で、安堵の混じった微かな笑みを浮かべた。

「新海さん、その十秒で、俺たちは安全を魔法のように確定させているんだよ」

動き出した現場の喧騒の中で、新海は一人、光り続ける緑色のパトライトを見上げていた。

彼のスマートなデータモデルが切り捨てた十秒の余白。そこには、数値化も標準化も不可能な、プロフェッショナルたちが命を懸けて守る結界が張られていた。

新海は、初めて自分の開発したシステムの不完全さを、バラストから伝わる振動として感じていた。松田の横顔に宿るその確信は、新海の論理を超越した、真夜中の保線魔術師だけが使える魔術の片鱗に見えた 。

深夜二時十五分。

空白の刻の戦いは、まだ始まったばかりだった。

(第1話 完)


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