記憶喪失の彼女が寝取られた
「みんなに悲しいお知らせがあります。三橋佳世さんが記憶喪失になりました。ですので、彼女には優しく接してあげてください」
担任の男教師である中島先生のそんな言葉に、僕は衝撃を受けた。
中島先生の隣には、とても不安そうに瞳を揺らしている佳世が立っている。ミディアムのふんわりとした黒髪に丸びを帯びた小顔の赤ちゃん顔。クラスの愛されキャラとして、女子からは可愛がられ、男子には隠れファンが大勢いるという子だった。
しかし、今やその面影はどこにもなかった。
クラスメイトの視線に晒され、知らない親戚の家に連れてこられた小さな子供のように、スカートを両手でつかんで俯いてしまっている。
僕はポケットに入っているスマホを固く握りしめた。
既読スルーされたと落ち込んでいた昨日の自分を殴ってやりたい。
佳世が大変な目にあっている中、不貞腐れて呑気にゲームをやっていた痴れ者。
「ということだから、碓井君。君は大村君と席変わってくれ」
中島先生が僕を名指しして席替えを要求。
大村は佳世の幼馴染だからということなんだろうけど、佳世の横に一番相応しいのは僕をおいてほかにはいないのに。
「なんで席替えしなきゃいけないんですか?」
納得がいかずに反論した。
「碓井君。あまりわがままを言わないでくれ。三橋さんと仲が深い大村君が傍にいたほうが彼女も安心できるだろう」
佳世と関係が近いのは大村ではなくて僕だ。
僕と佳世は恋人同士なんだから。
「おい、さっさと俺の席に移れ」
机ごと移動してきた大村が僕を急かす。
まるで、席替えすることを知っていたみたいに行動が迅速だった。
「いや、まだ了承したわけじゃ……」
「は?もしかしてお前佳世のこと好きなのか?だから隣の席を譲りたくないんだろ」
クラス中に聞こえる大きな声で僕を糾弾する。
反論しようと口を開ける前に立て続けにまくしたてられる。
「まじで怒るぜ……。佳世が大変な時にお前の汚れた性欲を俺の彼女にぶつけてんじゃねえよ」
語尾を強める大村に僕の思考は真っ白になった。
彼を恐れてではない、佳世のことを彼女だと呼んだ事実に。
「そういうことだから、碓井君。まぁみんなの前で失恋するのはつらいと思うが、幼馴染であり恋人である大村君が近くにいたほうが三橋さんも安心だろう。な?」
僕は最後の望みにかけて佳世を見たが、中島先生の投げかけに小さく「はい」と頷いた瞬間、全身が脱力して怒りも悲しみも湧いてこなかった。
ただ、唐突にパラレルワールドに放り込まれたように呆然とするよりなかった。
席替えをした僕に嘲笑と嫌悪の雨が降り注ぐ。
佳世が席に座る間際に僕のほうを見るも、幼馴染の大村に肩を抱かれて視線がはずれる。
僕の現実が砂上の楼閣のように一瞬で崩れ去る音が聞こえた。
それからは先生の話はただ耳を通り過ぎるだけで、悪い夢を見ているみたいにぐにゃりと視界がゆがんだ。
クラスメイトは大村と三橋が付き合っていると知って「おめでとう」だの「佳世のこと幸せにしてあげてね」だの好き勝手にはやし立てる。
なんでだよ、佳世と付き合っているのは僕なのに。
もしかして、僕は二股をかけられていたということなのか……?
佳世と仲良くなったのは偶然だった。
高校に入学して友達もできなかった僕は、休み時間に美少女もののライトノベルを読んでいた。
表紙にはしっかりとカバーをかけていたので安心してページをめくっていると、いかがわしい挿絵があるシーンを隣の席の佳世に見られたのだ。
『あっ、それ知っている。私も好きで読んでいるよ』
それからSNSを交換して二人だけの趣味を楽しんだ。休みの日にはお互いの好きなアニメの聖地巡礼なんかもして、僕らはとても気が合った。そして最近、僕から告白して付き合うことができた。
なのに、なのに、なのに。
授業を虚ろな目で過ごしていたら昼休憩を告げるチャイムが鳴り響く。
「ねぇ、ちょっと話があるんだけど」
机にうつ伏せになっていた僕は目だけ動かすと、佳世と友達の安藤奈央が腕を組んで立っていた。
背が高くて、目つきが悪く、髪はボブの女子。
いつもボディーガードのように佳世の傍にいる子だ。
「何の話?」
「ここじゃ言えないから、ついてきて」
あまり乗り気ではなかった。だけど、大村がクラスメイトに佳世との仲を自慢する様子に耐えられなかったので、逃げるように教室を出た。
安藤はひたすら無言で前を歩くのでとても気まずい。
何も知らない人からすると僕がストーカーしていると勘違いされても文句は言えない状況。屋上へ向かう階段を上っている最中は特にだ。
目の前でゆらゆらと揺れる丈の短いスカートに視線が釘付けになってしまう。
彼女がいるのに他の女子に現を抜かすなんてだめだ。
いや、今はもう彼女なんていないんだっけ。
二人して屋上に出ると、落下防止の柵に貯水タンクがあるだけの閑散とした場所で安藤が振り向いた。
「碓井君。あなた、佳世と付き合っているんじゃないの?」
安藤の真剣な眼差しにドキッと胸が高鳴る。
僕が佳世と付き合っていることを知っている人がいた……。
堰き止められていた蓋が外れたように、涙がこぼれた。
「やっぱりね、佳世はいつもあなたのことを話していたから、前に鎌を掛けてみたら分かりやすいぐらい動揺してね。ホント可愛かったわ」
「でも……僕はふられてしまったみたい。いや、元からお遊びだったのかも。裏で大村とも付き合っているなんて……」
パシッ!
突然に安藤から頬を叩かれた。
「痛っ!何するんだよ!」
「うちの親友を貶めることは許さない!佳世がそんな不誠実なことするわけないでしょ!」
なんだってんだよ。
そんな怒ることないだろ。
事実として二股かけられていたんだし。
「でも実際大村と付き合っていたじゃないか」
「はぁ……、そんなのありえないわ。だって佳世は彼のこと苦手だと話していたのよ?」
寝耳に水だった。
大村と佳世は幼馴染だから、てっきり仲がいいのだと思っていた。
でも、確かに僕も不思議だった。佳世から大村の話は聞いたことがなかったからだ。
それなのに、急に付き合っているなんて……やっぱりおかしい。
何か嫌な予感がする。
「それじゃ、脅されて無理やり付き合っていたのか?」
「記憶喪失になったことをいいことに、自分が彼氏だと刷り込んだ。こっちのほうが現実的じゃないかしら」
「そんな……まさか……」
「土曜日に佳世と遊ぼうと思って連絡をいれたの。そしたら、健一君との約束があるからって断られたのよ」
その時の感情を思い出したのか、不満そうに髪の毛をいじって唇を尖らせた。
「何があったかは知らないけれど、記憶喪失になった時に大村が近くにいて、本気か悪ふざけか、変なこと吹き込んでいてもおかしくないでしょ」
これは勝手な憶測だ。
だけど、やっぱり冷静になると佳世が二股するとは思えない。
だから、もしそれが本当だとしたら許せない。
佳世が大変な目にあっているときに、自分の欲を優先させるなんて、許せない。
正々堂々と勝負して負けるのは諦めもつくが、こんな卑劣な手で出し抜くことは、絶対に許せない。
「いい顔になったじゃない。うちは親友のために、あなたは恋人のために。クズ野郎から佳世を守るために共闘するわよ」
そう言って、手を差し出す安藤。
「あぁ……佳世を守るためなら、なんだってしてやる」
僕はその手を取った。
放課後、僕と安藤は佳世の家を訪れていた。
客間に通されて、椅子に座りながらテーブルごしに佳世の母と向かい合っている。
「それで、話したいことってなにかしら」
そう言って、佳世の母はお茶を一口飲んだ。
安藤とは面識があるようですんなりと家の中へ入れてくれたが、僕には今も不審な目を向けられている。
そりゃそうだよな、急に娘のクラスメイトの知らない男子が訪ねて来れば不安にもなるだろう。
「佳世と大村の件です」
「聞きましょう」
隣に座っている安藤は緊張した顔つき。
今から幼馴染の大村が娘の佳世を騙していると伝えるのだから無理はない。
僕が役目を変わろうかと提案したとき、「初対面の碓井君よりも私の口からのほうがいいわ」と譲らなかった。
「まず確認なのですが、二人の関係はご存じですか?」
「健一君から自分が彼氏だと聞かされました。最初は驚いたものの……まぁ若いカップルなら仕方ないかと思いました」
僕たちに言っていいのかどうか悩むように唇が上下する。
何か含みがある言い方。
「仕方ないというのは?」
安藤も同じことを思ったのか、すかさずつっこみをいれる。
その眼差しは探偵のように鋭かった。
ゲームなら目元部分がアップになったカットインでも流れそうな雰囲気。
「その……」
明らかに僕を気にするように視線を向けてくる。
やはり、娘のことを知らない男子の前で話すのは気が引けるのだろう。
「碓井君のことなら気にしないで大丈夫ですよ。私と同じで彼も佳世とは仲良くさせてもらってますから」
ね?っと、まるで僕らが旧知の仲のように安藤が微笑みかけてきた。
いや、まともに話したのは今日が初めてなんだけど……。
というか、いつも目つきが悪い安藤もこんな明るい笑顔を見せるんだな。
「僕も佳世さんとは仲良くさせてもらっていました。今は忘れてしまっているようですけど……」
自分で言ってて悲しくなる。
現実を口に出すと、こんなにもつらい気持ちになるんだな。
高校に入学して三か月。
短いようで、多くの思い出を佳世と作ってきた。
それが、一瞬で消えてしまったんだから。
「少し安心しました。佳世をこんなにも思ってくれる友達が二人もいるなんて。だから、記憶喪失になっても学校に行きたいなんて言い出すわけですね」
「ありがとうございます」
双子でもないのに安藤と言葉がはもる。
意外と僕らは気が合うのかもしれない。
「あなたたちに免じて、何があったのか話しましょう。といっても私も佳世と健一君から聞いた話だけどね」
コップに入ったお茶を一口飲んでから滔々と語りだした。
「あの日、私が家に帰ると、二人が佳世の部屋のベッドで眠っていました」
……は?今なんて言った……?
「っ……、それって……」
安藤も、はっと息をのんでいる。
もう、その先は聞きたくない。
今すぐ耳をふさぎたいのに、地獄耳のように一言一句聞き逃さない僕がいた。
「ええ、想像通りです。健一君の服が佳世の服に覆いかぶさるようにちらばっていました」
「許せない……」
「奈央ちゃん。怒ってくれてありがとう。私も顔面蒼白になったわ。けれど、健一君は幼馴染ですもの。そういう関係になっていてもおかしくないと自分を納得させました」
「それは、佳世から聞いたんですか?」
「いえ、あの後、佳世が起きると記憶の一部が思い出せなくなっていたの。医者によるとエピソード記憶の一部が何かしらの原因で消えているとのことでした」
ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
それが僕のものか安藤のものか、もしくは両方かもしれない。
「家族のことは覚えているのだけど、友人知人といった比較的関係の浅い人との記憶が思い出せないそうです。その時、一緒に来ていた健一君が自分が佳世の彼氏であると言って、涙を流しながら必死に訴えかけてきました。これが私が知っているすべてです」
語り終えると、またコップに入ったお茶を一口飲む。
安藤も僕も言葉を見失い、沈黙の中、佳世の母がお茶を飲む音だけがやけに大きく聞こえてくる。
つまりこういうことだ。
大村が佳世を襲って、そのショックで佳世は記憶を失った。
その後、記憶喪失になったことを知った大村は、ここぞとばかりに自分が彼氏であるという嘘を信じて込まることに成功して今に至る。
ふざけるな。
記憶喪失になるぐらい佳世を傷つけるだけにとどまらず、あまつさえその自分が恋人であったなどと嘯ぶくだと?
「碓井君、スマホ出して」
僕は言われるがままに、テーブルの上に置きSNSを開いた。
そこには、僕と佳世の最初の初々しいやりとりから、付き合いだしてラブラブな様子まで鮮明に記録されている。
佳世の母は何も言わずに、ただ静かに僕のスマホをスライドさせていく。
表情は柔らかいまま、だけど、目が笑っていない。
ピーンポン。
来訪を知らせるチャイムが鳴った。
「失礼するわね」
佳世の母はインターホンに近づき客人を確認するために席を立ちあがる。
「あら、佳世じゃない。おかえり」
『ただいま』
『こんちわーす。健一っす。今日もお世話になりまーっす』
くそっ、ヘラヘラしやがって、イラつく。
最初から真実を知っていたら、席替えの時にぶん殴ってやったのに。
「落ち着きなさいよ」
安藤の冷たい手が僕の固く握りしめていた拳を溶かしていった。
「ここで私たちが出ていっても仕方ないわ」
「……分かってる」
今にも飛び出したい気持ちを深呼吸をして落ち着かせた。
「佳世は早く家に入りなさい」
『うん』
「あっ、健一君はダメよ」
『え?どうしてですか?』
「あなたは二度とうちの佳世に近づかないでね。それじゃ」
『ちょ、おばさん!』
ピッという音と共に大村の焦る声がそこで途切れた。
僕と安藤は顔を見合わせる。
その行動が僕たちのことを信用してくれたことを示していた。
ドアが開き、佳世が部屋に入ってくる。
「え?なんで二人がいるの……?」
「いいから、佳世もこっちきて座りなさい」
「……うん」
僕と向かい合う形で佳世は椅子に座ると、僕の顔をみるやすぐに俯いてしまう。
もしかして、嫌われてるのかな。
だとしたらつらいな。
「何であなたまでしょんぼりしてんのよ。彼氏なんでしょ?もっとシャキッとしなさいよ」
安藤が僕の背中を叩く。
「そうだね。うん。一番つらいのは佳世なんだから僕が落ち込んでいる暇はない。ありがとう、目が覚めたよ」
そうなのだ。
今一番不安な思いをしているのは目の前の小さな女の子。
男の僕がうじうじなんてしていられない。
「佳世。友達から聞いたわよ、健一君は彼氏でもなんでもなくて、本当の恋人は碓井君みたいじゃない」
「え?……そうなんだ。ううん。なんとなくそんな気はしてたんだ」
そういって、スマホを開いてSNSでのやりとりを見せる。
そこにはやはり僕のと同じ会話が繰り広げられていた。
「でも、健一君が付き合っていたっていうし、幼馴染でもあるみたいだからって納得しようとしたけど……私、彼にはときめかなくて……」
ぽとりと机の上に佳世の涙が零れた。
「それでね……SNSに残っている碓井君との思い出を見ていたら、なんか心が温かくなったの……本当は碓井君が私の彼氏なんじゃないのかって……」
佳世は顔を上げる。
その瞳からは大粒の涙が滝のように流れて出した。
くしゃくしゃの顔で悔しそうに顔を歪めながら、
「でも……でもっ……!私はもう汚れた体だから……っ」
……馬鹿だな。ホントに馬鹿だ。
そんなことで嫌いになるわけないだろ。
一緒にアニメ見たり、ラノベについて楽しく語り合ったり。
同じ趣味を共有し合えたから、好きになったんだよ。
「僕は佳世のことが好きだ。今だって一ミリも変わってはいない。もし、佳世が望めば僕が何度だって上書きしてやる」
「……碓井君」
涙で洗い流された綺麗な瞳には僕が映っていた。
「親の前で告白なんて結構やるじゃない。草食男子だと思っていたけど見直したわ」
はっ!しまった。
僕は慌てて佳世の母を見ると……。
「ふふっ、父さんがこの場にいたら碓井君ぶっ飛ばされてたわね」
楽しそうに笑う佳世の母に、僕はほっと胸をなでおろしたのだった。
★★★
朝のホームルーム。
ざわついていた教室は中島先生の入室でおとなしくなった。
僕の席からは佳世ができるだけ隣の席の大村と距離を開けているのが見える。
「それじゃ、ホームルーム始めるぞ」
中島先生は教壇に立ち、教室を見まわした。
「先生、その前に昨日の席替えを元に戻してください」
ちょうど、静まり返っていた教室に佳世の声がよく響いた。
一斉に佳世へと視線が集まる。
「大村君となにかあったのか?」
田島先生はきょとんとした顔で聞き返した。
「ちょ、急にどうしたんだよ。先生、俺ら別になんもないっすよ~」
大村は明らかに焦った様子で声が裏返っている。
佳世の母に近づくなと言われ、昨日の今日。内心、気が気でないだろう。
「私、記憶の一部を思い出しました。そして、彼氏が健一君ではないことも」
嘘だ。記憶は思い出していない。
だけど、そういうことにしてみんなの前で真実を明かすことを僕らは計画していた。
佳世の発言を聞き、クラスメイト達が再びざわつきだした。
そりゃそうだろ、昨日は散々、大村は自分が佳世の彼氏だと自慢して回っていたんだから。
そして、一番動揺しているのは隣の大村。
「は?な、何言ってんだよ。ほら、俺ら幼馴染だろ?それで、昔から仲良くてさ……」
「先生。お願いします」
大村の言葉に耳を貸さずに、佳世は中島先生に嘆願する。
中島先生はその雰囲気に悪ふざけではないと察したのか険しい表情で大村を見た。
「大村君。君が三橋さんの彼氏ではないってのは本当なのか?」
じれったいな。
なぜ、いちいち大村に話を振るんだ。
「俺が佳世の彼氏だ!どうしちまったんだ?もしかして、病気で記憶が変な風に復元されたんじゃねえのか?」
「っ……!」
こいつ……あろうことか、記憶喪失で苦しんでいる佳世によくそんなことが言えたな。
もう我慢の限界だ。
「先生、僕です。佳世と付き合っていたのは僕なんです」
そう言って席から立ち上がるも、中島先生は疑いの目を向けてきた。
「碓井君。今は冗談を言っていい状況じゃない。もう大人なんだから分かるだろ」
そりゃ、信じられるわけないよな。
クラス内で友達が少ない地味な僕が、人気者の佳世と付き合っているなんて。
クラスメイトも呆れた顔で僕を見ている。
「お前のような陰キャが佳世の彼氏なわけないだろ!ふざけるな」
大村が立ち上がり、鬼の形相で僕に向かって走ってきて胸倉を掴む。
狂気じみた目を僕は真っ直ぐに睨み返す。
そうだよな、お前は嘘がばれると大変なことになるから必死にならざるを得ないよな。
「この茶番はお前の仕業か!佳世に何を吹き込んだんだ!」
「碓井君、私としても信じられないな。それならなぜ、昨日そう言わなかった」
大村に同調して大島先生は腕を組む。
「あの時は僕もショックで言葉が出てきませんでした。だけど、僕と佳世は恋人同士です」
僕は胸倉をつかまれたまま冷静に言うと、中島先生は佳世に視線を向けた。
「三橋さん、碓井君が君の彼氏というのは本当なのか?」
「……はい。私の彼氏は碓井君です」
「おい!佳世!何言ってんだよ!てめぇ、碓井……この野郎、記憶喪失をいいことに洗脳でもしたのか!」
大村が僕の顔をぶん殴る。
視界がぶれたが足の力を使ってなんとか踏ん張った。
痛ってぇ。口の中が切れて血の味がする。
でも、佳世の心の痛みに比べたら蚊に刺されたようなものだ。
「碓井君!」
佳世が僕の傍まで近寄って、心配そうに頬を撫でてくれた。
ちょっとだけ痛いからやめてほしいが、佳世の顔を見ていたらそんなカッコ悪いこと口が裂けても言えなかった。
「ちょ、碓井君大丈夫?」
安藤も椅子から立ち上がり、傍に来て心配そうにしている。
いつもの目つきの悪い顔はどこいったんだよ。
「碓井!俺の佳世から離れろ!」
大村は僕の腕につかまっている佳世に向かって手を伸ばそうとするが、
「大村君。離れるのは君だ」
いつの間にか近くに来ていた大島先生が大村の肩を片手で掴んだ。
いつもにこやかな先生の怒った顔初めて見た。
結構おっかねえなこの先生。
「先生。佳世の彼氏が碓井君というのは本当よ。親友である私が保証するわ」
「そうか……安藤さんまでそういうなら本当なんだろうね」
「私、記憶喪失になった時、健一君から自分が彼氏だから世話をするって言われて……それで勘違いしていたんです。でも、急に記憶がよみがえってきて」
真実を佳世が語り始めると、大村の形勢が徐々に悪くなっていった。
クラスメイトの女子は同情して涙を流している子がいて、男子は大村に眉をひそめている。大島先生も険しい表情をしていた。
「嘘だ……嘘だっ!おい!佳世!でたらめいってんじゃねえ」
大村は大島先生の腕を振り切って、佳世に詰め寄り大声で怒鳴る。
「ひっ」
僕を殴るのは好きにしたらいい。
だけど、佳世に手を出すのは許さない。
僕は腕を振り上げて、佳世の肩を揺さぶっている大村をぶん殴った。
「がはっ」
そのまま馬乗りになる。
「お前……自分が何をしたのか分かっているのか!」
拳を振り下ろす。
「佳世を襲って記憶が無くなるほどのショックを与えて!」
拳を振り下ろす。
「何喰わぬ顔で佳世を傷つけた張本人が……彼氏だと騙してっ!」
拳を振り下ろす。
「……それが人のやることかよ」
拳を振り下ろせなかった。
振り上げた腕を強い力で掴まれたからだ。
「そこまでだ碓井君。それ以上の暴力は先生として黙認できない」
くそっ、こんなんじゃ足りねえ。
足りねえよ。
ちくしょう。
「大村。席替えだ。碓井と安藤は三橋の傍にいてやってくれ」
「当然だ」
「当然です」
そのあとは大村はクラスから孤立した。
嫌悪と憎悪の雨が物理的に彼に降り注いだ。
その日は僕と安藤で佳世を家まで送ることになった。
帰り道の河川敷で僕を真ん中に横になって歩いていた。
「碓井君……正直にいうと、まだ彼氏だって実感がわかないの。……嫌ってわけじゃないの。ただ、その……」
佳世の小さな唇が迷うように上下するが、言葉は出てこなかった。
記憶が変われば感情もまた変わる。
当たり前のことだ。
大村の件が片付いたからって、前と同じような恋人関係に戻れるなんて思っていない。
「僕ら、また一からやり直そう」
だから、佳世の目を見てそう言った。
「え?」
不安そうに顔を上げる佳世に微笑む。
「そして、もし佳世が僕を好きになってくれたら、その時は佳世から告白してほしい。僕は……いつまでも待ってるから」
「……ありがとう」
夕日に照らさた佳世の美しい顔を見て少し後悔した。
こんなに素敵な人に出会える機会はもうないかもしれないから。
「あ~あ、嫉妬しちゃうなぁ」
「安藤?」
「佳世。もたもたしてると碓井君……いいえ、和馬君を他の女子に取られちゃうよ?」
安藤は僕の前に歩き出て、後ろで手を組みながら前かがみになる。
佳世の前で何を言ってくれてるんだ。
僕が佳世以外の女子に惚れるわけないだろ。
「おい、何言って」
目つきの悪い安藤は妖艶に笑って、僕の唇を奪った。
「んっ」
目を閉じた整った顔が目の前にいっぱいに広がった。
荒い鼻息が交差する。
そして、ゆっくりと離れていく唇。
「ははは!それじゃあね。二人はごゆっくり~」
な、なっ……あいつ……急に何を……。
それだけ言って安藤は走り去っていった。
「……浮気」
佳世が胡乱な目つきで僕を見上げて、ぼそっと呟いた。
「いや、今のはあいつが……」
「……浮気は許さないから」
佳世は僕に顔を近づけ、柔らかい感触が僕の唇に伝わってきた。
そよ風のような優しいキス。
……まったく、安藤には感謝しないといけないな。
キスは不意打ちだったけど、おかげで佳世との距離を縮めることができたのだから。
『嫉妬しちゃうなぁ』
「……奈央ちゃんのこと考えてる」
佳世の低い声に僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「いや、違うって!僕は佳世一筋だから!」
「……ふ~ん。まぁでも、奈央ちゃんとならシェアしてもいいかも」
「……え?」
一難去ってまた一難。
僕に新たな悩みの種が舞い降りたのであった。




