喧嘩
十月に入り、数日前までの夏の名残が嘘のようにぐっと気温が下がった。
衣替えで学校中が少しだけ色めき立つ。
女子は一般的な濃紺のブレザーで、男子は詰襟だった。
平穏な日々がしばらく続いた。
季節の変わり目は体調を崩しやすい、なんて言うけれど、幸い二年四組で風邪ははやらなかった。
謎の転校生が現れることも怪奇事件に巻き込まれることもなく、いつもと同じ顔ぶれでいつも通りの毎日が過ぎていった。
けれど、その平穏さが問題だった。
いつも通り、とはつまり、文化祭の準備が何も進んでいなかったのだ。
原因は明白だった。
肝心の脚本が、一向に出来上がらなかったのだ。
瀬川は何度か書きかけの脚本を持ってきたけれど、その度に、
「ワイヤーアクションなんて出来ないから」
「巨人化したアリスがトランプ兵を飲み込むってどうやって?」
「月牙天衝!?」
と波戸を狼狽させていた。
どれだけ行き詰まっても、瀬川は周りに助けを求めなかった。
「アイデアはもう出そろってるんだ。後はまとめるだけだから」
瀬川は何度もそう口にした。
一番苛立っているのは瀬川本人だった。
初めはせっついたり、からかったりしていた男子たちも、それを察して何も言わなくなる。
機嫌が悪い相手に下手に近づいて八つ当たりでもされたら堪らない。
けれど、このままにしておくわけにはいかなかった。
時間は限られているのだ。
早く完成させろ、無理なら他の人に任せろ。
誰かがそう言わなければならなかった。
その損な役回りを買ってでたのが、やはりというか、波戸だった。
「そろそろ脚本、完成させてほしいんだけど」
配役を決めてから、ちょうど一週間後の放課後の出来事だった。
荷物をまとめて教室を出ていこうとする瀬川の前に立ちはだかるようにして、波戸がそう切り出したのだ。
その時、私は佳代と唯の二人といつものように閑談していた。
急ぎの用事でもない限り、部活までの短い時間に、五分か十分くらい他愛もない話をするのが習慣になっていた。
みなが帰り支度をする騒がしい教室の中で、波戸の声は不思議とよく響いた。
これまでも、人目につかないところでやんわりと催促している姿は何度か見かけたけれど、ここまでハッキリとせっつくのは初めてだ。
それほど時間が押しているのだろう。
他のクラスはとっくに準備を始めていて、学校全体がすっかり文化祭ムードになっている。
そんな中で二年四組だけが、仲間外れにされた子供のように、楽しそうな喧騒から切り離されていた。
「もうちょっとだから」
瀬川はぶっきら棒に答え、波戸の横をすり抜けようとした。
けれど波戸は体をずらし、それをさせなかった。
「いつ?」
「だから、もうちょいだって」
「具体的な日数を訊いてるんだよ。明日? それとも三日後?」
瀬川は舌打した。
けれど波戸は気分を害さなかったようで、平然と続ける。
「無理そうなら、適当に脚本見つけてくるけど」
「もうすぐだって言ってるだろ!」
瀬川が声を荒げ、教室はしんと静まり返った。
それでも波戸は怯まなかった。
「だから、これ以上もう待てないんだって」
瀬川は苛立たし気に波戸を睨む。
けれど、それだと波戸が動じないと察したのか、ふいに挑発的な笑みを浮かべた。
「ならお前、劇に出てくれよ」
「なんで俺が」
「お前の名前、ハジメって言うんだろ? 波戸一。ハートのエースにぴったりじゃん」
波戸の表情に不快感が滲むのを、私は見逃さなかった。
それでも声は冷静さを保っていた。
「関係ないだろ。それに俺が出たからって、脚本が完成するわけじゃないし」
「大丈夫、俺に考えがあるから」
瀬川は鼻を鳴らした。
「ストーリーをアリスとハートのエースの恋物語にすればいいんだよ」
「なんだよ、それ」
瀬川は大げさな身振りを交えながら、クラス全体に喧伝するように言った。
「不思議の国に迷い込むアリス。味方のいない右も左もわからない世界で、徐々に追い詰められていく。もうだめだと思ったところにハートのエースが颯爽と駆けつけてきて、見事にアリスを救い出す。ラストは舞台の中央で熱い口付けだ」
「だから、なんだよそれ」
「わかんねえの? つまり、お前と藤村の甘い甘いラブストーリーだよ。最後はお前ら二人が舞台の中央で熱い――」
言葉は遮られた。
一瞬、何が起きているのかわからなかった。
波戸が瀬川の胸ぐらを掴んでいる。
瀬川はしばらくぽかんとしていたけれど、すぐに怒りをあらわにさせる。
「何すんだよ!」
波戸に掴みかかり、机が倒れる。
ノートや筆記用具が床に散らばった。
波戸のシャツのボタンが弾けて、教室の隅にまで転がっていく。
周りの男子たちが止めに入ったが、興奮した二人をなかなか引き離せないでいた。
「何してるの!」
誰かが呼んだのだろう、真帆ちゃんが二人の間に割って入った。
大人が介入したことで少しは冷静になったようだ。
二人はお互いの体から手を放し、距離を取った。
「こっちに来なさい」
真帆ちゃんは鋭く言い、二人を連れて教室から出て行った。
瀬川は波戸をじろりと睨みつけていたけれど、波戸はとれたシャツのボタンが気になるみたいで、その視線に気づいていない様子だった。
三人の後ろ姿が見えなくなると、ふっと教室の空気が弛緩した。
緊張からの揺り返しで、みな興奮気味に騒ぎ始める。
唯が躊躇いがちに言った。
「なんで波戸くん、怒ったんだろ」
佳代も不思議そうにしていた。
「そうよね。今までも、有子との仲を茶化されるなんてよくあったのに」
二人の言う通りだ。
私と波戸はよく関係を冷やかされる。
幼馴染の男女、と言うだけで年頃の彼らにしてみれば、おもしろいネタなのだろう。
その度に、私はただの幼馴染だからと否定したし、波戸は曖昧に笑ってやり過ごしていた。
「波戸はたぶん、ハートって呼ばれて怒ったんだよ」
二人が問いかけるような目を向けてくる。
私は彼を擁護するように続けた。
「波戸は昔、『愛ちゃん』ってあだ名で呼ばれてたんだ。波戸だからハート、そこから愛」
「安直なネーミングね」と佳代が言った。
「うん。それで、波戸はそのあだ名が嫌いだったみたい。もしかしたら蔑称だとさえ思ってたのかも」
私がそのことに気づいたのは中学を卒業して、しばらくしてからのことだ。
唯が首を傾げる。
「変なあだ名ってわけでもないけどね。女の子みたいだけど」
「たぶん、それが原因」
私は苦笑した。
「波戸は昔、すごく小柄で顔も中性的だったから、よく女の子扱いされてたんだ。波戸は、それがあだ名のせいだと思ってたらしいの」
それは高校生になってから、それとなく聞き出したことだった。
「私と並んで歩いてると、知らない人に姉妹に間違われることもあったから、本当はあだ名は関係ないんだけど」
むしろ女の子みたいに可愛かったからこそ、そういうあだ名が定着したのだろう。
けれど彼はそう考えなかった。
唯がつぶやくように言う。
「だから、あんなに怒ったんだ」
「どうだろう。それだけじゃないかもしれないけどね」
「え?」
「単純に、私とキスをするのが嫌だったとか」
冗談のつもりだった。
でもそれは、どうしようもなく自嘲的な響き方をした。
波戸が怒ったのは、胸倉を掴むほど怒りを露わにしたのは、私との関係を冷やかされた時だった。
それまでは不快そうだったけれど、手をあげるほど憤っているようには見えなかった。
彼の中で、何か心境の変化があったのかもしれない。
今までのように笑ってやり過ごすことができないほど、私との恋人扱いに不快感を覚えるようになったのかもしれない。
「そろそろ部活の時間じゃない?」
気遣わしげな二人にそう声をかけ、私は意図して会話を終わらせる。
倒れた机は長いこと、そのままになっていた。
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