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不思議の国、幼馴染

 図書室は閑散としていた。

 私の他には三人しかいない。


 しかもそのうちの一人は図書委員らしき人で、カウンターの中で黙々と本を読んでいた。

 私が図書室に入っても顔も上げなかった。


 残りの二人も図書室のほぼ対角の位置に陣取り、一方は勉学に、もう一方は読書に耽っていた。

 どこか犯しがたい雰囲気があって、少し緊張する。

 テスト前の混む時期にしか図書室を利用したことがなかったから、この独特な空気感に慣れていなかった。


 物音を立てないようにしながら、まずは簡単に読める絵本を探したけれど、置いていなかった。

 仕方なく海外文学の棚を探す。

 それほど充実していなかったから、簡単に見つけ出すことができた。

 二百ページもない、薄い文庫本。


  不思議の国のアリス

       ルイス・キャロル


 軽い気持ちでページをめくると、小さな字がびっしりとあって驚いた。

 ページ数は少ないけれど、これだと読むのにかなり時間がかかる。

 童話だし、簡単に読めるだろうと思っていたのに誤算だった。


 しばらく迷ってから窓際の席に腰を下ろす。

 どうせ帰宅部で放課後は暇なのだ。

 たまには学校に居残るのもいいだろう。


 あらすじを読み予備知識を入れてから軽く目を通していく。

 すぐに、退屈していたアリスの前にチョッキ姿の白ウサギが現れる。


「大変、大変、もう間に合わない!」


 この時にはすでに夢の中で、アリスは土手で気持ちよく眠っているのだろう。

 アリスは白ウサギを追いかけ穴に落ち、不思議の国に迷い込んでしまう。

 読み進めていくうちに、佳代の説明は大雑把だったけれど、的確だったんだなと思った。


「体が大きくなったり小さくなったり、首が伸びたり縮んだり、喋ることのできるいろんな動物と触れ合ったり」


 まさにそういう話だった。

 そして、


「斬首に処されそうになったり」


 ハートの女王がかなり感情的で、気に入らないことがあるとすぐに「首を刎ねよ!」と騒ぐのだ。

 ハートの王様が後でこっそりと解放していて、実際に斬首に処された人はいないらしいけれど。

 そのあたりはやはり童話なんだとほっとした。


 そしてそのヒステリーはアリスにも向けられる。

 物語の終盤でアリスはハートの女王に逆らってしまうのだ。

 憤慨したハートの女王が「首を刎ねよ!」と叫び、トランプ兵たちが一斉に飛びかかってきて――そこで、目を覚ます。

 アリスはお姉さんの膝を枕に眠っていたのでした。


 本を閉じて深く息を吐く。

 ポケットから携帯を取り出して時刻を確認すると、読み始めてから二時間近くが経っていた。

 外はもう夕暮れだ。

 なんだか人が恋しくなってくる。

 いつの間にか、図書室には私の他には誰もいなくなっていた。


 私はハートの女王と白ウサギのことを考える。

 二人はまだ部活動にいそしんでいるはずだ。

 ハートの女王はバドミントン部で、白ウサギは美術部に所属している。


 近いし美術室を覗いてみようかと考えたけれど、邪魔にしかならないと思いやめにした。

 二人とは家の方向も違うし、そもそも佳代と唯は電車通学で、私は徒歩通学だった。


 諦めて鞄を手に取る。

 文庫本を棚に戻し、図書室を後にした。

 とぼとぼと廊下を歩いていると、委員長の波戸を見かけた。

 呼び止めようと彼の名前を口にしかけ、慌てて飲み込む。


 周りには誰もいない。

 私は黙って彼に駆け寄った。

 足音に気づいたようで波戸は振り返り、そして少し意外そうな顔をした。


「珍しいね。こんな時間まで残ってるなんて」

「図書室で本を読んでたんだ」

「なんて本?」

「不思議の国のアリス」


 馬鹿正直に答えると、波戸は声をあげて笑った。


「意外とやる気、満々なんだね」


 しまった、恥ずかしい。


「あ、や、違くて、佳代に主役なんだから読んでおいたらって言われたから」


 しどろもどろになる。

 それを誤魔化すために質問を投げかけた。


「そっちこそ、こんなところで何してるの?」


 この辺りは特別教室ばかりだから、理由もなく通りかかることはないはずだ。


「柚木さんに会いに行ってたんだ」

「唯に?」

「うん。書割の下絵を描いてもらえないかなと思って」

「書割って?」

「背景のこと」

「ふうん。描いてもらうのは下絵だけなの? 全部やってもらった方が完成度高くなると思うんだけど」

「それだと柚木さんの負担が大きすぎるよ。それに、できるだけたくさんの人が作業に参加できるようにしたいしね。クラスの出し物なんだから」


 いろいろと考えているんだな、と感心する。

 私は尋ねた。


「これからまだ、何かやることがあるの?」


 波戸は部活に所属していないけれど、いつも何かしらの用事で学校に居残ることが多いのだ。

 色々な人によく頼み事をされるらしい。

 理科の実験の準備をしているところや、部活の雑務を手伝っているところをよく見かける。

 用務員さんと一緒に資材の搬入をしているところを見たこともある。


 人がいいから断れないのだろう。

 クラス委員長だって半ば強引に押し付けられたものだし、文化祭実行委員も兼任させられていた。


「いや、今日はもう帰るよ」

「じゃあ、久しぶりに一緒に帰ろうよ」


 なんだか照れくさくて、波戸の顔が見られなかった。

 昇降口で一度わかれる。

 ロッカーの位置は一年生のクラス割りのままだから、二年で同じクラスになっても場所が離れているのだ。

 私は一年二組で、波戸は七組だった。


 正門を抜けて長い坂を下った。

 学校の敷地に沿って緩やかにカーブしている。

 時間が中途半端だからか、下校中の生徒の姿はほとんどなかった。


「もうすぐ十月だっていうのに、全然涼しくならないね」


 波戸が手で顔を扇ぎながら言った。


「そうだね。風もないし」


 私は隣を歩く背の高い男の子を見上げた。


「暑いならさ、ボタン外したら?」


 大なり小なり制服を着崩すのが当たり前な男子の中で、彼の折り目正しい装いは、かえって目立っていた。


「あー、大丈夫」

「見てるこっちが暑苦しいんだけど。昔はそんなまじめな感じじゃなかったのにね」


 私と波戸は家が近所で、昔は仲がよかった。

 いわゆる幼馴染と言うやつかもしれない。

 お互い一人っ子ということもあって、毎日のように遊んでいた。

 両親たちはあくまで隣人としての距離を保っていたから、家族ぐるみと呼ばれるような付き合いはなかったけれど、私と波戸はそれこそ姉弟のように育ってきた。


 今ではかなり疎遠になってしまっているけれど、それでも時間が重なれば登下校を共にする程度には親しい間柄だ。

 私の記憶が正しければ、高校に入学したころは、まだ普通だったはずだ。


「なんで、そんなにちゃんと制服を着ることにしたの?」


 前から気になっていたけれど、なかなか尋ねる機会がなかったのだ。

 波戸は首を捻った。


「えっと……こだわり?」

「なんで疑問形?」


 波戸は曖昧に笑うだけで、それ以上答えようとはしなかった。

 大学の推薦でも狙っているのだろうか?

 もしかしたら委員長をやっているのも雑務を引き受けるのも、利己的な理由があってのことかもしれない。

 いわゆる点数稼ぎだ。

 もしそうなら、確かに人には言いづらいだろう。


 ――でも、私には正直に打ち明けてくれてもいいのに。


 そう不満に思ってから、自嘲するように小さく笑った。

 一体何様のつもりなのだろう。

 彼にとって、私は特別な存在じゃない。

 隠し事をされたって、文句を言える筋合いなどないのだ。


 長い坂を下りきり丁字路を右に折れる。

 しばらくすると川沿いの道に合流する。


 川はかなり大きなもので、河川敷にはテニスコートが点在していた。

 ちゃんとした造りのものではなく、ただネットが無造作に張られただけの簡素なものだ。

 小学生らしき集団が叫声をあげながらゴムボールを打ち合っていた。

 踵で引いたらしい歪なラインが発端となって、アウトかインかの言い争いになっていた。

 犬の散歩をしているおじいさんとすれ違い、ランニング中の若い女性に追い抜かれる。


 遠くには青々とした山がそびえていた。

 名前はない。

 もしかしたらあるのかもしれないけれど、私は知らない。

 地元では「天狗の山」とか「神隠しの山」なんて通称で呼ばれていた。


 実際、過去に行方不明者が何人も出ているらしい。

 それほど険しいわけでもないのに、どれだけ探しても見つからなかったんだとか。

 他にも何かと曰くの多い山で、怪談話や逸話の類が絶えなかった。


 あの山を目にするたびに、中学の卒業式の日を思い出す。

 私は一度だけ、あの山に登ったことがあるのだ。


 十分ほどして、川沿いの道をそれて住宅地に入る。

 そこから自宅までは五分とかからない。

 家の前で、私たちは別れの挨拶を交わした。


   × × × ×

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