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「まずこの建物は三階建てだ。一階は応接室が二つと第二塔の事務局があるが、事務局内は事務員の管轄なので掃除などは大丈夫だ」
朝、エントランスで自ら説明を買って出てくれたジルベールを前にグレースは、彼の説明をせっせと昨日の帰りに買った手帳にメモをする。
「トイレは男性用は各階にあるが女性用は三階と一階のみだ。掃除をするときは、中に声をかけて人がいないのを確認してから、看板を立ててくれ」
「はい」
「応接室の扉の横に黒板がある」
彼が歩き出し、グレースは慌ててついて行く。
応接室の扉の横には、小さな黒板があった。
「ここに一日の利用予定時間や利用中などの使用状況が書かれているので、ここで確認しつつ掃除などはしてくれ」
「あの、質問をいいですか?」
どうぞ、とジルベールが優しく促してくれる。
「応接室は利用時間は基本的に朝八時以降とあるので、朝八時前に来てお掃除をしてもいいですか? お客様は突然いらっしゃることもあるでしょうし」
「それは構わないが、あまりに朝早いのは大変じゃないか?」
「早起きは慣れていますから」
春の小鳥亭は夜の営業はしていなかった。だがその分、給仕たちが順番で手伝っていた仕込みのために夜明け前には出勤することもあったので、朝早いのは得意だ。それに応接室といっても、二部屋しかない。その掃除なら一時間もかからないだろうから、七時ごろにくればいい。自宅からここまで歩いて三十分以上はかかるのだが、仕込みの時間よりは断然遅いのだ。
「そうか。ならば君のいいようにしてくれ。早めにきて仕事が終われば、その分早く退勤してもいいからな」
「はい。ありがとうございます」
それから事務員たちにも紹介してもらい、次は二階へ移動する。
二階には会議室が三つと小さな給湯室が一つ。大会議室が一つと、小会議室が二つだ。
会議室は応接室と違い、使用時間は早朝から深夜までまちまちだというので、こちらは隙間時間に掃除をすることにした。突発的に会議が入ることもあるので、そういう時は掃除が途中でも退出するようにとのことだった。
「会議室の使用も入り口の黒板で都度確認してくれ。会議中に飲む紅茶は、自分たちで用意することになっているんだ。だから、二階の給湯室は掃除と備品の補充のみを頼む。会議で使ったカップ類は、自分たちで洗う決まりだ。もし放置されていたら、報告してくれ」
はい、と頷いてメモを書き足す。
そして、三階へと移動する。
第二塔は師団長用の建物なので、全体的にこぢんまりとしている。これならグレース一人でもなんとかなりそうだ。
「ここは知っての通り、執務室と仮眠室、給湯室とトイレ、そして、資料室と備品室だ。備品室に掃除用具や替えのシーツなど、主に雑用係の君が使う道具が入っている。資料室は一般人は立ち入り禁止で、施錠もしてある。管理も補佐官であるノエルがする」
「分かりました」
「それでこちらが三階の給湯室だ」
最後に執務室の隣の部屋に案内される。
小さなキッチンがあり、水道まで完備されていた。魔道具の冷蔵庫まである。グレースの家のキッチンよりも立派だ。
キッチンの奥には、小さな部屋があった。小さなテーブルと椅子があって、細長いクローゼットもあった。
「ここは雑用係の休憩室だ。つまり君の部屋だな。休憩は適宜取るように」
「はい」
「あともう一ついいだろうか」
「はい」
それまですらすらと説明していたのに、なんだか言いよどむジルベールに首を傾げる。
「実は昨日のあれで勘づいているかもしれないが、ノエルは不器用なところがあって、整理整頓なんかは得意なんだが、料理だけはからきしで紅茶もまともに淹れられないんだ。前は爺さんが自分のを淹れるついでに淹れてくれていた」
そういえば茶葉が爆発したと言っていたのを思い出す。どうやれば爆発するのだろう。
「君は紅茶は淹れられるか?」
「はい。一応」
「だったら、午後三時。俺たちが執務室にいるときは、紅茶を淹れてほしい。会議や見回りなんかで執務室にいない時は不要だ」
「分かりました。お砂糖やミルクの好みはありますか?」
「俺たちはストレートで良い。君は好きなものを淹れて飲むといい。休憩時の紅茶は騎士も事務員も雑用係も自由に何杯でも飲むようにという規則があるんだ。なので紅茶もミルクも砂糖も備品だ。あとで発注の仕方を教える」
「そうなのですね、ありがとうございます」
春の小鳥亭でも、ドーナの時代は休憩時間に紅茶を自由に飲んでいいことになっていた。リゼルの代になってからは紅茶どころか、グレースは休憩そのものをさせてもらえなかったが。
「とりあえず今日の午前中は、自分の足で歩いて建物内のことを把握してみてくれ。昼の時間になったら食堂と師団内の統括事務局を案内する。ちなみに執務室の掃除は、俺かノエルがいる時ならいつでもいい」
「分かりました。お手数をおかけしますがよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、なぜかジルベールがかすかに息をのんだような気配がした。顔だけ上げて首を傾げると、ばっと視線がそらされた。
「その、では、俺は仕事に戻るが……何か困ったことや、変な奴に絡まれたら、すぐに俺に言うように」
「はい……!」
騎士団内に変な人なんているだろうか、と疑問に思いつつ、気にかけてくれるジルベールの優しさが嬉しかった。
「では、頑張ってくれ」
そう告げてジルベールは足早に給湯室を出て執務室へと入っていった。バタン、とドアの閉まる音が聞こえた。
グレースは、休憩室に入り小さな肩掛けカバンから仕立てたばかりのエプロンを取り出す。生成り色のシンプルなエプロンは、騎士団で使うのだからといつもよりもずっと丁寧に針を刺した。
家族はグレースの騎士団の雑用係への就職を心から喜んでくれた。とくに母は騎士団という職場に安堵していて、グレースが無理をしないかとずっと心配してくれていたようだ。
この御恩は絶対に返さなければ、とグレースは髪を高い位置で結んで三角巾もかぶり、気合を入れる。三角巾はあまり布で作った。ちゃんと耳の部分にスリットを入れたので、むずむずしないグレース専用だ。
「よし、頑張りましょう、グレース」
ぐっと気合を入れて、グレースはジルベールに言われた通り、建物中を把握しようと休憩室を後にしたのだった。
「ここが食堂だ」
昼休憩に入るというジルベールとノエルとともに訪れた食堂は、今日一番、人が多い場所だった。ワイワイガヤガヤ賑やかで、たくさんの騎士や事務官であふれている。
ここへ来る前に食堂の隣の建物にある統括事務局へ寄ってきた。備品の発注依頼書の書き方などを教えてもらい、事務員にも紹介してもらい、挨拶をしてきたのだ。
食堂は正面に大きなカウンターがあり、そこで料理が配られているようだ。とても長いテーブルが三つもあり、丸椅子がたくさん並んでいる。
「とにかく騎士はよく食べるので、メニューは日替わりで基本的に一種類しかないが、カウンターの左端で所属と名前を告げれば給料から天引きしてもらえるし、それが嫌なら現金でも大丈夫だ。カウンターの右端に着くころにはトレーの上にすべてそろっている。よそってくれる係りに量だけ言えばいい」
「なるほど……」
「騎士は一食、五百ペル。事務員は三百ペルで、雑用係は二百ペルだ」
「値段が違うんですね」
「給料の額が違うのもあるが、騎士と事務員では食べる量が違うからな」
確かに横を通り過ぎていく騎士のもつトレーはこれでもかと山盛りで、本日のメニューらしいお肉をトマトで煮込んだものはお皿から今にもこぼれそうになっているし、スープはなみなみと大きなカップにおさまり、サラダとパンも山を作っているどころか、パンの一つ一つが大きい。
「では行こう」
歩き出したジルベールにグレースは慌てて声をかける。
「あ、あの、師団長様」
「ん?」
ジルベールが足を止めて振り返る。
いや、ジルベールだけではない。なんだか周りの騎士や事務官の視線がこちらに向けられている。
グレースは、騎士団に勤めるにあたって、母がお祝いにくれたお金で古着屋で一番マシだと思えるワンピースを買ったのだが、こんなみすぼらしい格好をしていては悪目立ちしてもおかしくない。皆、きっちりと制服をきて、事務員もかっちりした格好をしているのでなおさらだ。
「お昼ご飯は持参しているので、説明もして頂きましたし、お金も今は持っていなくて、私は、休憩室に帰ります」
お昼と言っても小さな黒パン一つだが、今はたったの二百ペルでも惜しい。
「それは……それはおやつに食べればいいんじゃないか?」
「……おやつ?」
思わず首を傾げたグレースにジルベールは至極真面目な顔をしていた。
「ああ。今日は君の初出勤祝いだから、たった二百ペルで悪いが俺が奢ろう」
「そ、そんな申し訳ないです」
「大丈夫ですよ、こう見えて師団長なんですからちゃんと稼いでいます。初日ですし、ぜひ、一緒に食べましょう。お弁当はおやつにするといいですよ」
ノエルにまでそう言われては、グレースは断れず困り顔のまま頷いた。
というかどうしてお弁当をおやつにする発想があるのだろうか。騎士の間では常識なのだろうか。
戸惑うグレースをよそにジルベールはどんどん進んで行ってしまうので、慌ててついて行く。
「二人分、俺と新しく入った俺のところの雑用係のグレースだ。会計は俺につけてくれ」
「あら可愛らしい子が入ったのね」
にこにこと配膳のおばちゃんが迎えてくれて、グレースは「はじめまして」と頭を下げた。
「たくさん食べてね。はい、どーぞ」
トレーを受け取り、ジルベールの隣に立つ。
「大盛りで頼む」
「あいよ」
どっさりとトマトと牛肉の煮込みが盛り付けられる。
「可愛らしいお嬢さん、どうする?」
「あの、す、少な目で……」
「遠慮しなくていいんだぞ?」
遠慮じゃないです、と首を横に振った。
おばちゃんは「騎士じゃないんだから、普通のお嬢さんはこんなに食べないよ」と言いながらグレースのトレーにも煮込みを乗せてくれたが、全然、少しじゃなかった。もしかしたらおばちゃんは、「少し」の感覚が麻痺しているのかもしれない。絶対に二人前はある。
グレースはなんとかサラダを固辞して、スープは本当に少しだけにしてもらった。パンは断るより先に気づいたらトレーの上に二つもいた。本当に大きなパンだ。グレースの手を広げたより大きい。
「グレースさん、そんなに遠慮しなくても」
ノエルまで心配そうに眉を下げるが、グレースは至って平均的な胃袋しか持っていないのである。
だが、すれ違った女性騎士でさえジルベールたちと変わらぬ量を食べているので、どうも二人は納得できないようだった。だが彼らの一食は、グレース一家の一食分より多い。
「本当に大丈夫です、遠慮ではないです……!」
グレースはなんとか必死に説得して、納得してもらい(腑に落ちていない様子だったが)、席に着く。
ジルベールの隣にグレース、ノエルは向かいに座った。
二人はすぐに食べ始めたが、グレースは少しためらいながらも女神様にお祈りをささげる。
「女神様、与えられた糧に感謝します」
祈りを捧げながらも、食べきれないかもしれない不安に眉が下がる。女神様を信仰するグレースにとって、食事を残すというのは女神様の教えに背くことになる。
「トマトの煮込みは嫌いか?」
なかなか食べ始めないグレースにジルベールが問いかけて来る。
「いえ、食べられます。でも、食べきれる自信がなくて……パンは持って帰ってもいいでしょうか?」
「かまわないが……大丈夫か? 具合が悪いのか?」
「医務室に行きますか?」
ジルベールだけでなくノエルまで心配そうに声をかけてくる。気のせいでなければ、近くに座っている他の騎士たちも心配そうな顔をしていた。
違うんです、量が多すぎるんです、とグレースは心の中で優しい騎士たちに叫んだ。
「本当に……量が多いだけで、多分ですが、私と同年代のごく一般的な女性はこんなに食べないと思います」
まさか、という顔を皆でしているが、本当だ。
春の小鳥亭には大盛りと普通があったが、今、グレースの目の前にあるのは小鳥亭の大盛りより少し多い量だ。女性は大半が普通を頼んでいた。
「……では、食べられる量まで減らすといい。俺が引き受けよう」
半信半疑のジルベールがそう申し出てくれたので、グレースは彼の器に煮込みを半分ほど引き取ってもらった。
本当にそれだけでいいのか、と心配されつつグレースはあのやけ食いをした日以来、久しぶりにお腹いっぱい食べた。
煮込みやスープは持って帰れないが、この美味しそうなパンを家族は喜ぶだろう。グレースはにこにこしながら、二つのパンをハンカチで包んだ。
そして、昼食後は会議室の掃除だけさせてもらい、初日ということで早めに帰るように言われて、グレースは大きなパンというお土産を携えて帰路に着いたのだった。




