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※流血(鼻血)の表現があります。苦手な方はご注意ください。
グレースは、今日も今日とて春の小鳥亭でせわしなく働いていた。
今日のランチはひき肉たっぷりのトマトミートパスタだ。お肉のうまみとトマトのうまみがぎゅっと濃縮されたソースはパスタにぴったりで、付け合わせのパンにつけても美味しい人気メニューだ。
「グレース、三番テーブルのランチ、上がったぞ!」
「はーい!」
カウンターへ行き、両手にプレートを持ってお目当てのテーブルへ。
「お待たせいたしました。本日のランチです! パンはお代わり自由ですので、あちらからお持ちください。ごゆっくりどうぞ」
壁際のパンのコーナーを手で示して、そう声をかけて次は客が引いたテーブルの上を片付ける。
カランカランと入り口のベルが鳴る。三番テーブルは入り口に近くて、すぐ後ろでベルが鳴るのを聞く。
会計を担当した給仕の「ありがとうございました」という声に合わせて、グレースたちも声を上げる。
「いらっしゃいませ!」
続けられたお迎えの言葉にグレースたちも声を上げ、振り返る。
「二名だ。ランチを二つ頼む」
低くて落ち着いた美声だ。どんな人だろう、と顔を上げてグレースは息を吞む。
だが、息を吞んだのはグレースだけではなかった。お客さんにプレートを出していた給仕も、カウンターに料理を置いたコックも、お客様たちでさえ、出入り口のほうを見て固まっていた。グレースの目の前のお客様のフォークからせっかく巻き付けたパスタが、ぺちゃんと落ちた。
「あの……二名」
一番近くにいたグレースにそのお客様の深い蒼の瞳が向けられる。グレースははっと我に返って、なんとか口を動かす。
「は、はい! ええと、えと、こ、こちらです!」
彼は――王家直属ヴィグール騎士団、第三師団師団長のジルベールだった。
グレースがひそかに恋心を寄せる、その人だった。
さらさらの黒い髪に鋭い切れ長の青い瞳。高い鼻筋に薄めの唇。騎士らしくがっしりしていて、背も高い。グレースは彼の肘くらいまでしなかった。
彼の後ろにはもうひとり騎士がいた。
彼は梟系の獣人族で師団長補佐官のノエル。ジルベールが有名人なので、常日頃一緒にいる分、自然と彼の名前も聞こえてくるのだ。
ノエルは優しい顔立ちの美男子で、ベージュの髪に絵の具を指で伸ばしたような黒い髪が混じっている。ミミズクという種類の梟だったと、彼のファンである同僚のチェルシーが言っていた。
この二人、顔が良いのでとにかくモテるのだ。町の娘たちのあこがれといってもいい。グレースも彼に胸をときめかせる大勢の一人なのである。
「ジルベール、ランチでいいかい?」
「ああ」
「じゃあ、お嬢さん、ランチを二つ。大盛りで」
「は、はい」
グレースは頷いてカウンターのほうへ行き、注文を告げる。
店内はまたにぎやかさを取り戻していたが、どこかそわそわしていて、皆、彼らを気にしている。
グレースも仕事をしながらもついつい彼らに視線を向けてしまう。
王都は大きく二つの区画にわけられている。貴族や裕福な一般人が住む北区と平民たちが住む南区だ。
第三師団は、平民出身の騎士だけで構成されていて、南区の治安維持をしてくれている。
ジルベールはその第三師団をまとめる団長なのだ。
グレースが初めて彼のことを知ったのは、二年前の春だった。
場所は、商店街。おそらく見回りをしていたのだろう彼の目の前で子どもが転び、彼が手を差し伸べた瞬間に居合わせたのだ。
怜悧な美貌が、少しだけほころんで優しく声をかける彼に、子どもはすぐに泣き止んで、すりむいた膝を手当てしてもらうと元気よく去って行った。
そのほんのわずかな瞬間の優しい顔にグレースは、呆気なく恋してしまったのだ。
とはいってもグレースに恋にこがれている暇はない。ごくまれに見回り中の彼の姿を見かけては、素敵な人、と胸を甘くときめかせ、一方的に元気をもらっていただけだ。
まさかその憧れの人と店員と客のありふれたやり取りとはいえ、言葉を交わせるなんて今日はなんて良い日だろうとグレースの猫の尻尾がご機嫌にぴーんと立った。
「やっぱり近くで見ても格好いいね」
ノエル派のチェルシーが隙をみてこそこそと話しかけてくる。
チェルシーは赤い髪に緑の目が可愛い人族の少女だ。グレースより二つ年下だが、グレースと同じく家が少々貧乏で同じくここで日々懸命に働いている。気が合うのと境遇が似ているのもあって、グレースとチェルシーは親友だった。
「うん。すっごく素敵」
グレースもひそひそと返す。
「おーい、グレース、チェルシー、できたぞー!」
コックの声にカウンターに駆け寄る。普段なら一人で二つ持って行くのが当たり前だが、今日ばかりはそれぞれ運ぼうと頷き合って、彼らの下へ行こうとした時だった。
グレースたちの前でプレートが奪われる。
「ちっ、猫臭くなるわ。あんたみたいなのが騎士様に近づくなんて失礼極まりないわ」
リゼルがいつのまにか二階から降りてきていた。
リゼルはグレースたちを睨みつけると、ランチプレートを両手に持って、彼らの下へ行ってしまった。
「いらっしゃいませ、ジルベール様、ノエル様」
「ああ」
「当店自慢のランチ、ごゆっくりお召し上がりくださいね。何かありましたら、わたくしにどうぞ。パンもお取りいたします、あら、お水のお代わり、お持ちいたしますね」
リゼルが猫なで声でそう告げて、彼らに水のお代わりをだそうとしていた給仕からピッチャーを奪い取って、彼らのグラスに水を注ぎ始めた。
「クソばばぁ」
ノエルファンのチェルシーがぼそぼそと文句を言う。グレースも内心であっかんべーと舌を出しつつも二人はしょんぼりしながら仕事へと戻る。
リゼルは、ジルベールとノエルが食べている間中、横で世話を焼いていた。二人は困ったような迷惑そうな顔をしているのに、リゼルは全く気付かない様子で、おべっかを言い連ねながら、あふれそうなほどにグラスに水を注いでいた。
それでも途中、何か言われたのか壁際に下がった。その際、ノエルが取り出した書類のようなものにジルベールがサインをし、それはすぐにカバンにしまわれた。
ジルベールたちが食べ終わり席を立つ。
リゼルが会計をし、二人が出口へと向かう。
「あ」
片づけに入ったグレースは、二人が座っていた席、プレートの横に綺麗な万年筆が転がっているのに気づいた。サインをしていたジルベールのものだろう。
振り返れば、二人はもう店の外へ出ていた。リゼルがそれを追いかけて行く。
なんとなくリゼルのおかげで、もうここに彼らは来ないような気がして、グレースは万年筆を手に彼らを追いかけ外へ出る。
「あ、あの!」
「師団長様! お待ちになってくださいませ!」
思ったよりまだ店の入り口近くにいたジルベールに勢い余ったグレースが近づいたのと、リゼルが呼び留めたのが同時だったのが、多分、いけなかったのだ。
「女将さん、我々はもう仕事に……!?」
ごんっと物凄く鈍い音がした。
少し苛立たしげに振り返ったジルベールの肘が、見事、グレースの顔のど真ん中をとらえて鈍い音がした。
小柄なグレースがその勢いに勝てるわけもなく、その場に転がる。あまりの痛みに片手で鼻を押さえて、涙が出そうになるのをこらえる。
「す、すす、すまないっ!」
「大丈夫ですか、お嬢さん!」
ジルベールとノエルの焦った声が近くで聞こえて、思わず目を開けると二人がグレースの傍に膝をついていた。
「血、血の匂いが……!」
先に気が付いたのはノエルだった。
グレースも手のひらの下に生暖かいそれが広がっているのは感じている。鼻の中をそれが通っていく感触も。多分、鼻血が出ているのだ。
「す、すみません、騎士さま。お忘れものれす……」
グレースは、鼻を押さえたまま万年筆を差し出した。ジルベールが胸のあたりを押さえて、ジャケットの中を見て「あ」と漏らした。やはり彼のものだったようだ。
「すまない、俺が忘れ物をしたばっかりに……!」
彼の大きな手が万年筆を受け取る。
「いえ、だいじょぶです」
なんとか立ち上がろうとするが、頭がくらくらしてうまくいかない。鼻って本当に急所なのね、と冷静な感想が浮かぶ。
その内、手で受け止めきれなかった血がぽたぽたと垂れ始めた。
「ノエル、医者だ、医者!」
なぜかグレースの手がジルベールの大きな手によって退かされる。そして、彼の首元を飾っていた白いスカーフが充てられた。スカーフと彼の手袋が汚れてしまう、とグレースは身をよじるががっしりと後頭部をもう片方の手で固定されて動けない。
「んまあ! まあまあまあ!」
リゼルの甲高い声が響く。
「これだから猫は! 騎士様に迷惑をかけるなんてどういうことなの!?」
金切り声にグレースの耳がぺたんと後ろに倒れる。聴覚に優れるグレースにしてみれば、間近でキンキン騒がれると耳が痛くなってしまうのだ。
「申し訳ありません、騎士様! これは躾のなってない猫でして、騎士様のお手を汚すなんて! ほら、立ちなさい!」
太ももを蹴られて、痛みに肩が跳ねる。
「ご夫人! 何を……!」
「だ、だいじょうぶ、だ、じょうふ、れす!」
グレースは眉を吊り上げたジルベールに慌てて口を開く。口の中にまで血の味がして、間抜けな言葉遣いになってしまうが、ここでリゼルの機嫌をますます損ねるわけにはいかない。それにひそかに憧れていたジルベールにこんなみっともない姿を見せ続けるのも、グレースのちっぽけな矜持であっても限界だった。
グレースは、よろめきながらなんとか立ち上がる。スカーフを返そうとしたが、ジルベールは無言で首を横に振った。すみません、と頭を下げてそのまま鼻を押さえる。
「はやく店に戻りなさい! 見苦しいったらありゃしない!」
「はい、おかみさん」
リゼルは頷いて、よろよろと店へと戻る。中へ入ると一部始終を見ていた同僚たちが慌てて駆け寄ってきて、横から支えてくれた。
「血だらけじゃない!」
チェルシーが顔を青くして叫ぶ。
「大変、ねえ、誰かタオル!」
「大丈夫か、グレースちゃん」
「早く冷やさないと」
常連さんまで心配そうに声をかけてくれるのが申し訳なくて、グレースはぺこぺこと頭を下げる。
同僚たちに支えられて、休憩室に引っ込み、厨房のコックが慌てて持ってきてくれた濡らした布で鼻を冷やす。
「上を向いちゃだめよ。血が胃に入って気持ち悪くなっちゃうから」
チェルシーが心配そうに言う。
「だいじょうぶ、だから、もどって、皆までおかみさんにおこられちゃう。それにおきゃくさまが、待ってるわ」
グレースが微笑むと同僚たちは顔を見合わせ「何かあったら呼んでね」と声をかけて、店へと戻っていく。
ここに残ってグレースを心配すればするだけ、リゼルが彼らではなく、グレースを怒るのを分かっているのだ。
「……最高に運のいい日で、最低に運のない日だわ」
憧れの人と言葉を交わせて、なのに、こんな醜態をさらしてしまうなんて、本当に運の乱降下が激しすぎる日だ。
「……またお給料、減らされちゃうかしら……」
膝の上の、ジルベールのスカーフは真っ赤だ。
嘆くように呟いて、早く血が止まらないかな、と眉を下げるのだった。