5-3
「グレースちゃん、大丈夫? 顔色が真っ青だよ?」
「大丈夫です、少し寝不足で」
朝礼会議室から出るとそんな会話がジルベールの耳に入ってきた。
階段のところで若い騎士がモップを持つグレースに声をかけているようだった。
「……グレースさん、休まなかったんですね」
隣でノエルが驚いたように言った。
グレースが早退したのは昨日のことだ。まさか今日も当たり前に出勤してくるとは思っていなかった。
ジルベールはずかずかと彼女たちの下へと歩み寄る。
グレースがジルベールに気づくとさっと目をそらして顔を伏せた。
「あ、師団長。おはようございます」
騎士が挨拶をしてくるのに「ああ」と頷いて返す。
「君、どうしてきたんだ。そんな顔色で……」
責め立てるような口調になってしまったのを、顔を上げた彼女と目が合って後悔する。
グレースは、昨日と同じように静かに微笑んでいた。
「昨日も大丈夫だと申し上げたはずです」
「だが、そんな顔色で仕事に来られてはこちらだって落ち着かない」
言い返したジルベールに、グレースはふっと再び俯いた。ノエルと騎士が横ではらはらしている。
「…………理由を言えばいいですか?」
「理由?」
「……借金返済のための仕事を休むわけにはいかないとか、仕事だから真面目にこなしたいとか、そう言えば満足ですか?」
俯いたままグレースが告げ、そこで言葉を切って、彼女は一度深く息を吸ってゆっくりと顔を上げた。
「貴方の――ジルベール様の、お傍に少しでも長くいたいから、と言ったらどうしますか?」
少し潤んだ紫色の瞳に吸い込まれそうだった。ジルベールの役立たずな唇も舌も喉も彼女に返す言葉を探すこともせず、ただ茫然とその瞳を見つめていた。
「……困るでしょう?」
「……そ、れは」
言葉に詰まったジルベールにグレースは、一瞬だけ泣きそうな顔をして目を伏せる。
「試すようなことを言ってしまい、申し訳ありません。仕事に戻ります」
すっと頭を下げるとグレースは、そのまま階段を上って行ってしまった。
「……ええと、あのー」
「君も不運でしたね、行っていいですよ」
「はい!」
ノエルの言葉に騎士がほっとしたようにうなずいて一礼し、逃げるように去って行く。
立ち尽くすジルベールを振り返り、ノエルは溜息を一つ零した。
「ジルベール、相手が踏み込んでくることを拒むなら、お前も踏み込まないでいなさい。自分がしようともしないことを、相手に要求することは失礼以外のなにものでもないです」
「だが……っ、あんな顔色で仕事に来るのは心配になるだろう?」
「でも、ジルはグレースさんの父親でも兄でも、ましてや、恋人でも婚約者でもない。赤の他人で職場のただの上司です。行き過ぎた心配は重荷になるだけです」
押し黙ったジルベールにノエルは大仰に溜息をつくと階段に足をかけた。
「行きますよ、ここにいては通行の邪魔です。グレースさんのことは僕も気に掛けておきますから」
そう言われてジルベールも階段を上がる。
あの、俯く間際のほんの一瞬だけ見えたグレースの泣きそうな顔が、頭から離れなかった。
不安と恐怖が日に日にグレースを侵食していく。それを弟や妹を抱きしめることで紛らわせて、母に甘えることでごまかして、無心で掃除をすることで考えないようにしていた。
だが、目を閉じると暗闇にあの男の、ぎょろぎょろとした目が浮かび上がって、気持ち悪いほどじっとグレースを見つめているのだ。
食事も節約のために取らないのではなく、気持ち悪さに食べられなくなって、睡眠さえもままならなくなっていた。
家族が心配して、仕事を休めと言っても「大丈夫」と我が儘を通した。
グレースは騎士団に通い、雑用係として出来ることを精一杯し続けた。
少しでもジルベールの傍にいたい。彼を試すように告げた言葉は、嘘ばかりのグレースにとっては本当のことだった。
だが、あの日以来、ジルベールはグレースに声をかけてくることもなく、グレースも意識して彼の視界に入らないようにしている。午後のお茶の時間もノエルが給湯室に紅茶を取りに来てくれるので、顔を合わせることもないまま、日々が過ぎて行く。
明後日には、グレースはあの男の下に嫁ぐのだ。
リゼルの口ぶりからして、もう二度と家族に会うことはできないかもしれない。そう思うと足下に大きな穴が開いて落ちて行くような茫洋とした不安に襲われそうになる。
「仕事、しないと……」
何もかもを振り払うように首を横に振って、グレースは師団長執務室の前の廊下を箒で掃き清める。
その時、俄かに階下が騒がしくなり、せわしいない足音が階段を駆け上がってきた。
緊迫した顔の騎士が師団長室の前で声をかけ、中へ入っていく。
「師団長! 第二師団からの緊急要請です!」
「こんな真っ昼間にか?」
「はい。第二師団が追っていた例の違法薬物事件で我々の管轄である娼館で大きな動きがあり、至急の出動要請とのことです!」
「分かった。ここで第二に恩を売るぞ! 直ちに隊の準備をし、五分後に出発!」
「はい!」
先に騎士が出てきて、風のように走り去っていく。
建物の外も騒がしくなり、きっと今から事件現場に踏み込むのだとただの雑用係であるグレースにもその緊張感が伝わってきた。
執務室のドアが開き、ノエルとジルベールが出て来る。
ノエルはグレースに気づいたようだが、ジルベールは気づかず出かけて行く。ノエルが「いってきます」と笑って手を振った。グレースは見送りの意味を込めて深々と頭を下げた。
顔を上げるともうノエルの姿もジルベールの姿もなかった。
グレースは、仮眠室に入って窓に駆け寄る。
少ししてジルベールとノエルが出てきて、玄関に用意されていた馬に跨って走り去っていく。
「……女神様、どうか皆さんにお怪我がありませんように、お守りください」
グレースはそっと祈る。
しばらくそうしていたが、仕事をしなければと仮眠室を後にして、普段通りに仕事をこなしていく。
時折、おそってくるめまいや気持ち悪さをなんとかやり過ごして、ようやく午後のお茶の時間になった。
ジルベールたちはまだ戻っていなかった。騎士団内はぴりぴりとしているが、静かで、それがかえって緊張感をより強いものにしていた。
落ち着いてお茶を飲む気持ちにもなれず、洗濯物を取り込みに行こうとグレースは階下へと降り、そのまま外へ出て食堂の裏へと回る。
「さっぱり乾きましたね」
真っ白なシーツを取り込んでその場で畳んで腕に抱える。枕カバーも忘れずに腕に抱き、グレースは元来た道を戻る。
エントランスから中へ入ると「グレースさん」と声をかけられる。
受付の事務員が手招きをしていてグレースは「どうしました?」とそちらに足を向ける。
「先日、早退された時の早退届、サインだけもらっていいですか?」
「あ、すみません。忘れてしまっていました」
「いえいえ」
事務員が差し出したそれを受け取り、その場でサインする。早退するには早退届が必要なのだ。前回の時は翌朝出勤してきた時に手続きをしたが、今回はすっかり忘れてしまっていた。
「はい、確かに」
事務員がそれを受け取りグレースのサインを確認すると後ろのデスクにいるもう一人の事務員に渡した。
「ありがとうございました。失礼し、ま……す」
頭を下げて振り返ろうとしたころで、ぐわんとグレースの視界は歪んだ。
踏みとどまろうにも力が入らず、体が勝手に傾いていく。
「グレースさん!」
事務員の声がして腕を何かに引っ張られる。手からシーツがばさばさと落ちて行く。
「おい、そっち回って支えてくれ!」
「グレースさん、しっかり!」
ガタガタと慌ただしい音が聞こえ、何かに受け止められる。
だが視界はだんだんと真っ白になっていき、彼らの声も遠のいていく。
グレースは、そこであっけなく意識を失ってしまったのだった。
「これで大体だな」
縛り上げられた犯罪者たちが次々に馬車に乗せられていく。
「娼館の主に、その夫。あー、あそこにいるのは某伯爵家の当主だし、こっちのは、おやまあ新進気鋭の商会の……」
ジルベールの隣にいるのは、第二師団師団長のフリードリヒ・バルテル。バルテル伯爵家の次男だ。ジルベールと同い年で、同期でもある。
金の髪に緑の瞳、ぴんとたった三角の耳と毛羽たきのような尻尾の犬系獣人族だ。
「ありがとう。君たちが来てくれたおかげで、すぐに娼館に踏み込めた」
「事前にある程度の情報をくれていたからな」
ジルベールはそう返して肩を竦めた。
花街は庶民街にも貴族街にもある。そのどちらも、第三師団、第二師団それぞれしか捜査ができない。花街というのは、少々特殊な立ち位置にあるのだ。そうは言っても、ここから出て来るのを待っていては証拠はもみ消されるし、無駄に犠牲者が出る。別の師団が調査をする場合、証拠や証言が揃っていれば師団長か副師団長が一緒に踏み込むことで捜査を許されるのだ。
一方で到着した両方の師団の医療班が衰弱している娼婦たちの様子を見ている。
「こちらの読み通り禁断症状が出て薬の接種を我慢できなくなったこいつらは、昼ならば騎士団の目をかいくぐれると判断したようだった。結構な大騒ぎになってしまったがなんとか重要人物が逃走する寸前で捕まえることはできた」
フリードリヒがあたりを見回しながら、苦笑交じりに言った。
娼館という場所柄、夜ばかりに注視するこちら側の意表を突こうとしていたようだ。だが、確かにジルベールたちも真っ昼間に事件が動き出すとは思っていなかったので、今回のことは今後の教訓として生かさなければならない。
ジルベールたちの下に今回の事件の捜査にあたっていた班の代表である班長達が駆け寄って来る。
フリードリヒが報告を聞き、指示を出す。
「聴取は二班に任せる。一班はそのサポートを。三班は現場検証を引き続き頼む。四班は被害者が速やかに保護施設に入れるよう手配を頼む」
「はいっ!」
班長達は騎士の礼を取り、持ち場に散っていく。
今回の被害者たちはほとんどが帰る家を持たない娼婦たちだ。保護施設へ入所してもらうほかない。こうなった以上、この娼館は閉所せざるを得なくなるだろう。
ここは第三師団の持ち場でもある。主導権は第二師団とはいえ、なかなかに忙しくなりそうだ。
「そういえば、君、随分と可愛らしい白猫ちゃんを飼い始めたらしいじゃないか」
フリードリヒがにやにやしながら言った。
ジルベールはあからさまに顔をしかめる。
「お前には何も一切、全く、これっぽっちも関係のない話だ」
「ノエルが君が救いようのない朴念仁だと嘆いていたぞ」
補佐官の裏切りに顔をしかめたジルベールにフリードリヒはけたけたと笑った。
「その可憐で美しいと評判の白猫さんは、甘いものはお好きかな? これから私もこの事件でそちらに行くこともあると思うし」
「ノエル、あとは頼んだ。俺は一旦、戻る」
「はい」
フリードリヒの話は聞かなくていい段階に入ったので、無視してノエルに声を掛け、ジルベールは外へ出る。
フリードリヒは、剣技にも優れ、頭もいい。伯爵家の人間であるにも関わらず、平民であるジルベール達にも気安く接してくれるいいやつなのだが、何分、女性に対して軽すぎるのである。
大分日も暮れて、辺りの娼館に明かりが灯り始めていた。
騎士たちのサポートに尽力している見習い騎士が連れてきてくれた愛馬にお礼を言って跨り、ジルベールは本部へと帰えるために手綱を握りしめた。
町を駆け抜けていく中で、脳裏に浮かぶのはグレースの、今にも泣きだしそうな顔だった。
『貴方の――ジルベール様の、お傍に少しでも長くいたいから、と言ったらどうしますか?』
そう告げた彼女の紫色の瞳は不安に揺れていて、なのに、とても綺麗だと思った。
「……初めて、名前を呼ばれたな」
いつも彼女はジルベールのことを『師団長様』と呼ぶ。一度、それとなく名前で呼んでいいと言ったこともあるのだが、彼女がジルベールを名前で呼ぶことはなかった。
美人で気立てもよくて働き者で、家族思いで本当に素敵な女性だとジルベールだって思う。
あの言葉は、本気だったのだろうか。
本気だったとしたらジルベールはどうするべきなのだろうか。
自分の中に問いかけても、何一つ答えは見つからない。
「今は事件のことだけを考えよう」
いつもグレースは暗くなる前に帰るようにしているので、今日はすでに帰宅しているだろう。だからこそ今は事件のことに集中するべきだと思考を切り替える。
今後の流れを加味しながら頭の中で予定を組んでいく。
騎士団に着くころにはすっかり頭の中は仕事一色になり、門番に馬を預けて師団長室へ向かう。
エントランスへ入ったところで事務員が慌てたように出てきた。
「師団長!」
「どうした?」
「グレースさんが倒れて、今、医務室で治療を……」
最後まで聞かずにジルベールは外へ飛び出していた。




