5-2
「本当に、ありがとうございました」
父親が深々と頭を下げて、子どもたちの手をしっかりと握りしめ、門を出て行く。
『お姉ちゃん、ありがとう!』
『またねー!』
小さな手をぶんぶんと振る笑顔の二人にグレースも手を振り返す。
『もう迷子になっちゃだめですよー』
『『はーい!』』
二人そろった元気な返事にグレースはくすくすと笑った。
父親がもう一度振り返り頭を下げると子どもたちは父親とともに去って行った。
「グレースさん、本当にありがとうございます。助かりました」
「ああ。言葉が通じないと子どもたちも不安だったろうし、親探しも難航しただろう。本当にありがとう」
見送りに来ていたノエルの言葉に続いてジルベールが言った。
「お役に立てて良かったです」
女学院に通っていたころに学んだことがまさかこんなところで役に立つとは思わなかったが、あの子たちの不安を取り除き、彼らの役に立てたのならよかったと思う。
父親が貿易商であったため、他国からの来客が多かった。それに各国の言葉を知るのは面白くグレースは、とくに言語というものに力を入れて学んでいたのだ。
「では、私は仕事に戻りますね」
せっかく外に出たので、このまま洗濯物を取り込みに行こうとしたところで、不意にめまいに襲われて倒れそうになる。
ぐいっと強い力に腕を引かれて地面に激突することはなく、何かに寄りかかる。
「大丈夫か?」
少し焦ったような声がそばで聞こえて目を開ければ、そこにジルベールの顔があった。どうやらジルベールが受け止めてくれたようだ。
食事を朝しかとっていないので、めまいがしたのだろうと自分では分かっているが、それを彼らに言うわけにもいかない。きっと優しい彼らはグレースを心配してしまう。
「医務室へ行きますか?」
ノエルが心配そうに言った。
「いえ、大丈夫です」
少しめまいがしただけです、と告げてジルベールから離れようとするが、その腕の力が緩まない。
離してほしいと伝えようと顔を上げて、青い目がじっとグレースを見つめていることに気づいて口をつぐむ。
「……ここ数日、顔色がずっと悪い」
「内職に夢中になってしまって、寝不足なだけですから、どうぞ心配なさらないでくださいませ」
もう一度、グレースは彼から離れようと試みるがやはりジルベールの腕の力は緩まない。
「今日はもう早退だ。ライリー、悪いが馬車を一台頼む」
「はい!」
ライリーが駆け出していく。
「ノエル、彼女のカバンを持ってきてくれ」
「はい」
ノエルが頷き翼を広げて飛び立ってしまう。
ノエルが飛び立ってすぐに馬車が一台やってきて、あの日と同じようにグレースは馬車に載せられた。
「師団長様、あの、本当に大丈夫です。馬車なんてそんな……」
オロオロしながらジルベールに声をかける。
「大丈夫と言って、そうですか、と言えるような顔色じゃない」
そう告げる彼は少し怒っているようにも見えて、グレースはどうしていいか分からず俯いた。ジルベールがグレースの向かいの席に座った。
もどってきたノエルが隣にカバンを置いてくれる。
「グレースさん、よくよく休んでくださいね」
そう声をかけられてグレースは頷いて返した。ノエルは心配そうな顔をしながら「閉めますよ」と告げて馬車のドアを閉めた。
ジルベールが、こんこんと背後の壁を叩くと馬車がゆっくりと動き出す。
気まずい沈黙が馬車の中にどっかりと居座る。
グレースは居たたまれなくなって、隣に置かれたカバンをひざの上に乗せた。ガタガタと音を立てながら馬車は進んで行く。
徒歩三十分の道のりも馬車ならあっという間だ。もうそろそろ家に着く、と窓の外の景色にグレースがわずかに気を緩めた時だった。
「……きちんと食事はとっているのか」
静かな口調でジルベールが問いかけて来る。
「はい。騎士様に比べると量は少ないかもしれませんが……」
青い瞳はグレースの嘘を暴くためのきっかけを探しているかのように鋭かった。
「俺の母が借金を返すために生活を切り詰めて飯を抜いていたころの様子にそっくりだ」
カバンに触れていた手に自然と力がこもる。
「……十五万ペルあれば、一家四人、普通に暮らせるはずだ。そもそも君はそれ以前は七万ペルで家族を養っていたのだろう? それに加えて内職まで増やしているような口ぶりだ。……借金、でもしているのか?」
躊躇いがちにしかし、鋭く切り込んできた問いかけにグレースは、静かに微笑んだ。
「家庭内のことについては、話したくありません」
ジルベールの眉がわずかにぴくりと動いた。
「もしも借金があったとしたら、私は騎士団には置いて頂けませんか?」
「…………そういった決まりはない」
「でしたら、これまで通り誠意を込めて勤めさせて頂きます」
グレースは深々と頭を下げた。そして、顔を上げると同時に馬車が停まる。御者を務めてくれていたらしい見習い騎士がドアを開けてくれた。彼の手を借り、グレースはカバンを手に馬車を降りた。
「師団長様、ありがとうございました」
そう告げてグレースは頭を下げた。ジルベールは何も言わず、小さく会釈をした。
見習い騎士がおろおろしながらも、行ってください、とグレースが微笑むとドアを閉めて、御者席に戻った。そしてグレースに小さく頭を上げると馬たちの手綱を操り、馬車は動き出した。
グレースは馬車が見えなくなるまで見送って、家の中には入らず商店街の方へと歩き出す。歩きながら吐き出した溜息は、小さくも重かった。
「どこかで時間を潰さなきゃ……」
今帰ったら母に心配をかけてしまう。
ジルベールに八つ当たりしてしまったな、と今頃後悔する。彼はただグレースを心配してくれただけなのに。
前方から馬車が来て、グレースは道の端へと身を寄せる。だがその馬車は、グレースの隣でゆっくりと止まった。
何事かと身構えると馬車の窓のカーテンが開き、リゼルが顔を見せた。
「……こんにちは、グレース」
小窓を開け、リゼルが笑みを浮かべる。
「丁度良かったわ。貴女に会いに行くところだったのよ。今日はお仕事はお休み?」
リゼルが値踏みをするようにグレースの格好を見る。今日は早退してきたため、騎士団の制服のままだった。
「返済日はまだ先のはずですが」
グレースは固い声で返す。リゼルは「分かってるわ」と大げさなほど優しく頷いた。
「今日は借金のことじゃないのよ。別の良い話があってね」
リゼルがそう告げると、御者席から降りてきたローがドアを開けた。
中にはリゼルだけではなく、彼の向かいの席にもうひとり男性が居るのに気づいた。年は三十半ばを超えるくらいだろうか。やせ形で神経質そうな顔をしていた。大きな目がぎょろぎょろと動いている。少し不気味で勝手に体が後ずさる。
「彼は、私の知り合いなの。とある高貴な身分の方よ」
確かにリゼルの言う通り、男性はとても質の良さそうな服に身を包んでいた。まるで貴族が着るようなきっちりとした格好をしている。
男のぎょろりとした黒い目がグレースを上から下まで嘗め回すように見つめる。その視線の気持ち悪さに、心の中で不安がむくりと鎌首をもたげた。グレースは胸の前でカバンを抱えて少しでも自分の体を隠す。
「……いいだろう」
男は一言、ねっとりした声でそう告げた。するとリゼルが、にんまりとひどく嬉しそうに笑った。
「良かったわね、グレース」
「な、何がですか」
リゼルはちらりと男を見た。男が頷くと、また視線をグレースに戻る。
「あなたももう二十歳でしょう? なのにあたしったら、一時の感情で家族を懸命に養うあなたを首にしてしまって、後悔していたの」
「よくもぬけぬけとそんな嘘を!」
声を荒げたグレースにリゼルは「あなたの怒りは当然ね」とわざとらしく悲しそうに目を伏せた。グレースはカバンを投げつけないように必死に呼吸を整える。
「でも、もうあなたは働かなくてよくなるのよ。こちらの方があなたを妻に迎えたい、とおっしゃってくれているの」
あの舐め回すような視線に感じた不安が一気に的中する。
「な、にを……」
「あの花瓶、とある方にお譲りする予定だったの。でも、あなたが割ってしまったでしょう? でも先にお金を受け取ってしまっていたから、あなたに課したようにそれを月々十万円で返してくれればいいとおっしゃられていたのだけれど、別の契約上どうしても一括でかえしてほしいって急に言われたの」
リゼルは困ったように溜息を零した。
「一介の食堂の女将であるあたしができることにも限りがあるわ。あなたの弟と妹はまだ幼いし、母親は病弱で満足に働くこともできない。借金を回収に来る人間なんて、気性の荒い方ばかり……家族に何をされるか分からないわよ?」
グレースはスカートの中で足が震えるのを、なんと抑えようとするが、恐怖に心がじわじわと浸食されていく。
「そこで、あたしがこの方になんとかお願いしたところ、あなたとの結婚の話に乗ってくださったの。支度金として、あなたに五百万ペルを渡してくれる上、それとは別で借金も返済してくれるそうよ」
ぎょろりとした目がじっとグレースを見つめている。
「あなたの言う通りになんて絶対にならないわ。結婚も援助もお断りさせて頂きます。あなたの言いなりになるくらいだったら、自分で娼館を選んでお金を作るわ」
グレースは、リゼルを睨みつけるようにして告げた。
「あら、残念。せっかくいい話だと思ったのだが、まあいいわ。ならこのお話は、あなたの妹のミシェルちゃんにもっていきましょうね」
リゼルがなんでもないような様子で吐き出した言葉にグレースは、尻尾の毛がぶわりと逆立つのを感じた。
「あなたは、なにを、言っているの……っ?」
怒りや恐怖がごちゃまぜになった感情にグレースの声は震えた。
「言ったでしょう? 急いでいるんだって」
「ミシェルはまだ五歳よ!? 結婚なんて話をすること自体が間違っているわ!」
「しょうがないじゃない。あなたが嫌だと言うんだから。ミシェルだって十年待てば女になるでしょう? その間に躾ければいいんだから、自分好みに育てるにはそのほうがいいかもしれないですわね」
リゼルの言葉に男はかすかに頷いた。
グレースは、唇をはくはくと震わせた。
「支度金と借金の清算もしてくれるのよ。有難い話でしょう? ……別にあたしはかまわないのよ、先方にあなたのお家や家族の居場所を教えても」
リゼルは笑いながら告げた。
「ただ、日中は病弱なお母さんとミシェルちゃんだけでしょう? 大丈夫かしらね」
最初からリゼルはグレースを逃がす気はなかったのだと、呆然と見上げる。
「……一週間後は丁度、次の支払日。その日、迎えに行くわね。どちらが馬車に乗るかは任せるわ、でもどちらも乗らないというのなら、分かるわね?」
リゼルはにこにことまるで楽しい話をしているかのように笑っていた。その向かいで男は一度も目をそらすことなくグレースを見つめている。
「……分かりました。私がいきます」
自分はこんなにも抑揚のない声が出せるのだとグレースは初めて知った。
「ああ、良かった。やっぱり幼い子を母親から引き離すのが、気が引けるもの。大丈夫、五百万ペルあれば、弟が成人するまで家族三人、十分、暮らしていけるわ」
「……はい」
頷くグレースにリゼルは満足げに目を細めた。
「…………グレース」
独特のねっとりした声が自分の名前を呼んだだけなのに、グレースは恐怖に脚が竦んで動けなくなる。
「君が僕の花嫁になってくれるのを嬉しく思う。……愉しみだ。では、また一週間後に迎えに来る」
ぎょろりとした目が、にんまりと細められた。その気持ち悪さにグレースは倒れそうになるのをなんとか必死に耐えた。
目の前の男には得体のしれない恐ろしさがあった。
「じゃあね。家族と過ごす最後の一週間。楽しみなさいね」
そう告げてリゼルが椅子に座りなおすと、ローが馬車のドアを閉めた。カーテンも閉められ、すぐにローが御者席に戻ると馬車が動き出す。
グレースは、ただ茫然とその馬車を見送り、ゆっくりと空を見上げた。
青く晴れ渡った春の空を小鳥が二羽、戯れるように飛んでいる。
馬車の中でグレースを心配してくれていた青い目を思い出した。グレースを受け止めてくれた力強い手も、腕も、ほんの少し前に感じたはずのぬくもりがひどく昔のことのように思えた。
「…………いつか、春が来るのよ。どんなにつらく厳しい冬にだって、必ず」
ぽつりとつぶやいて、グレースは顔を伏せ、歩き出す。
「夕飯の材料を買って、早く帰ろう。今日は早く仕事が終わったことにして……早く、帰ろう」
そう自分に言い聞かせながら、グレースは商店街へと足を向けた。
もう借金の心配をしなくていいのだから、といつもは買わない柔らかなパンと買い、鶏肉とトマトを買って家路につく。
ただいま、と声をかけて、コン、コココンとノックをすれば母がドアを開けてくれた。
「おかえりって、グレース! 顔色が真っ青よ!」
セリーヌの叫びにロビンとミシェルまでリビングから顔を出した。
「ねぇね、どうしたの?」
「お、お医者さん、呼ぶ?」
「ほら、早く横になって、今日はお母さんのベッドを使いなさい」
矢継ぎ早に投げかけられるグレースを案じる言葉が、心を優しく包み込んでくれる。買い物をしてきた荷物はいつの間にかロビンの手に渡り、母に手を引かれて母のベッドに寝かしつけられる。ミシェルがいつも母に寄り添うようにグレースの横に丸くなった。
「熱はないみたいね」
「……少し具合が悪くて、早退してきてしまったの。ごめんなさい……」
「謝ることじゃないわ。頑張りすぎていたのよ、きっと疲れが出たんだわ」
セリーヌの手が優しくグレースの頬を撫でてくれて、ごろごろと喉が鳴る。ミシェルの小さな手がぎゅっとグレースに抱き着いてくる。
「あのね、どうしてもお母さんの作ってくれる鶏肉のトマト煮が食べたくて、材料を買ってきたの。だから作ってくれる?」
「食欲があるのは良いことだわ。もちろんよ。ミシェル、お姉ちゃんを見ていてね」
「うん!」
セリーヌがグレースとミシェルの頭を順番になでると「作って来るわ」と告げて部屋を出て行った。すると入れ替わりでロビンがやってきた。
「お姉ちゃん、はい、白湯、置いておくね」
枕元のサイドテーブル代わりの木の板の上にロビンがマグカップを置いてくれた。ゆらゆらと湯気が揺れている。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
心配そうにこちらを覗く若草色の瞳にグレースは手を伸ばし、頬を優しく撫でる。
「ちょっと疲れちゃっただけ。お母さんのお手伝い、お願いね」
「うん! 任せて! 何かあったら呼んでね!」
ロビンはいくからほっとしたような顔で頷くと、元気よく母を手伝いに行った。
グレースは母の優しい匂いがするベッドで可愛い妹をそっと抱き寄せる。ミシェルが甘えるように喉を鳴らす。
「ねぇね、げんきでる? ミシェルをぎゅっとするとげんきでるっておかあさんがいってたの」
「ええ、とても元気になれそう」
「じゃあ、いっぱいぎゅってしていいからね」
ぐりぐりと頭を擦り付けて来る小さな、小さな可愛い妹。
この子を守れるなら、優しい母を、可愛い弟を守れるなら、グレースはなんだってするし、なんだってできるのだ。
「ミシェル、大好きよ」
「ミシェルもねぇね、だいすき!」
無邪気に笑う妹をグレースは優しく、優しく、抱きしめる。
あとわずかな時間しか傍にいられないのなら、少しぐらい我が儘を言ってもいいよ、とグレースは自分の心に言い聞かせる。
母が作ってくれるグレースの大好物の味をしっかりと覚えておきたい。ロビンに教えられる限り勉強を教えて、ミシェルをこうしてたくさん抱きしめてあげたい。
そして、出来れば、少しでいいからジルベールのそばにいたい。
「……ねぇね?」
こぼれそうになる涙を唇を噛んで、押し留める。腕の中で不思議そうな声を上げるミシェルをぎゅうっと抱きしめて、グレースは寝ているふりをした。




