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「ああ、やだやだ猫臭いったらありゃしない!」
聞こえてきた甲高い声にモップ掛けをしていたグレースの肩が跳ねる。
おそるおそる顔を向ければ、厨房のほうから年かさの細身の女性がこちらにやって来る。
意地悪に細められた赤茶色の眼差しがグレースに向けられる。
「あら、ごめんなさい。いたのね、野良猫でも潜り込んでいるかと思ったのよ」
「いえ、おはようございます、リゼルさん」
「ちゃんと掃除をしておきなさいよ? その小汚い毛の一本でも落ちていたらお店が開けないんだから」
冷たく吐き捨てるように言って、リゼルは厨房へと戻っていった。
グレースを拾ってくれた春の小鳥亭と呼ばれる大衆食堂は、三か月前に女将が代わった。
先代のドーナが高齢で体が思うように動かなくなってしまい、代わりにドーナの妹の娘だというリゼルがやってきたのだ。ちなみにドーナには息子しかおらず、その息子は別の仕事をしている。
リゼルは四十代の人族の女性なのだが、過去になにがあったのか『猫嫌い』だった。とにもかくにも猫が嫌いで、道行く野良猫も猫をかたどった小物も、猫系獣人も、猫と名の付く物すべてを毛嫌いしているほどの『筋金入りの猫嫌い』だ。
そのため猫の獣人族であるグレースは彼女に会ったその日から嫌われる羽目になってしまったのだ。
まだ嫌われているだけならよかった。人には合う合わないがあるし、グレースにだって苦手な人ぐらいいる。
だがグレースに対して、リゼルは雇用主という立場を利用した嫌がらせを仕掛けてくるのだ。
一番、困っているのが給料の減給だった。ドーナの時は、月給が七万ペルだった。
だが、やれ猫臭いだことの、やれ笑顔が不細工だことの、やれ服装がダサいだことの、些細な難癖をつけられて、その度に減給されてしまうのだ。
グレースは、家族を守らなければならない立場で、言い返したことだってなく只管に謝っているのに、リゼルは減給を繰り返し、先月の給料はわずか五万ペルだった。数日後に控える今月も減給減給の嵐で、四万ペルももらえるかどうかだった。
その上、リゼルはグレースがあまりの食材や料理を持ち帰ることを禁止した。これ見よがしに他の従業員には配るのに、グレースにだけは与えてくれないのだ。
前に哀れに思った同僚が内緒でわけてくれたことがあったのだが、翌朝、グレースは「泥棒猫、一万ペル、減給よ」と言われてしまった。おそらくリゼルが連れてきたローという厨房の下働きの男性が彼女に告げ口をしたのだと思う。
これ以上減給されては生活できない、とグレースは同僚たちに優しさを気持ちだけ受け取ることにした。
グレースはもう二十歳になった。見た目はまだ十一歳くらいだが、成人の十六歳はとうに超えている。だから紹介状をくれれば辞めると申し出たこともあるのだが、リゼルには却下されてしまった。
どうしてかリゼルは、グレースを目の敵にするのに辞めるのは許してくれないのだ。
「……大丈夫、大丈夫よグレース」
自分に言い聞かせて、せっせと店内にモップをかける。
春の小鳥亭でのグレースの仕事は接客から始まり、お店の掃除や調理場の補助とありとあらゆる雑用をこなしている。
「グレース、そろそろ看板を出してくれ」
「はーい」
厨房の声に答えて、モップとバケツを片付けて、グレースは店の入り口に置かれていた看板を手に外へ出る。
「おや、グレースちゃん、今日のランチはなんだい?」
「こんにちは、トマスおじいちゃん。今日はハンバーググラタンです!」
「それはいい。あとで妻と一緒に来るよ」
常連の老紳士はグレースの返事に嬉しそうに目じりを下げると去って行く。
グレースは店の周りにゴミが落ちてないかを確認して、中へと戻る。
カランカランとドアベルが鳴る。
ぞくぞくとお客さんがやって来る。春の小鳥亭は安くて美味しいと下町では評判なのだ。
同じく接客を担当する女性二人も調理場から出てきて、一気に店内はにぎやかになる。
基本的にリゼルは、二階の住居部分から店が営業している間は降りてこないので、営業時間の間はグレースも以前と変わらず平和に過ごせていた。
注文をとって厨房に伝え、出来上がった料理を提供し、お会計をして、合間合間で空いたテーブルを片付ける。
目まぐるしい忙しさは、何も考えなくて済む分、ありがたかった。
そして、本日の営業も恙なく終了する。
珍しくリゼルが降りてこなかったので(時々はあるのだ。多分、夜に出かけることが多いので、昼寝をしている)、グレースは日が沈む頃、店を後にしたのだった。
商店街に寄ってその日一番安い野菜を買い、パン屋さんでも一番安い黒パンを買って、家に向かう。
家に着くころには日が沈み、貧しい地域に街灯などあるわけもなく辺りは暗い。治安がそれほどいい地域ではないので、自然と足早になる。
小さな借家がひしめき合う地区の片隅にグレースたちが暮らす家はある。
リビングと寝室が一つとキッチンがあるだけの小さな家だ。魔石を利用した水道などはこの辺には通っていないので、何軒かが共同で井戸を使い、トイレも共同だ。
家についてコン、コココン、と家族で決めたノックをすれば、鍵が開けられてドアが開く。中へ入れば「ねぇね」と末の妹が抱き着いてくる。
「ただいま、ミシェル」
「おかえりー」
ニコニコ笑う可愛い妹の灰色の髪を撫でる。
「お姉ちゃん、おかえり」
「うん、ロビンもただいま」
後ろでドアを閉め、鍵をかけてくれた弟のロビンも抱き着いてくるので抱きしめ返して、二人に順番に頬にキスをする。十二歳の姿のグレースは、十歳の弟と拳一つ分くらいしか背が変わらない。
五歳の妹のミシェルは灰色猫の獣人で真っすぐな灰色の髪に父譲りの若草色の瞳だ。
十歳の弟のロビンは、黒猫の獣人で癖のある黒髪と同じく父譲りの若草色の瞳だ。
母が白猫で亡き父が黒猫の、猫系獣人族一家なのだ。
「お母さんは?」
「起きてるよ。リビングにいる」
リビングに入れば母が一つしかないソファに腰かけていた。調子がいいのか繕い物をしている。
「ただいま、お母さん」
「おかえり、グレース」
伸ばされた手に頭を差し出せば、よしよしと撫でられて、ゴロゴロと喉が鳴る。
母のセリーヌは、グレースと同じ白猫の獣人で、グレースは母に生き写しと言われるほどそっくりだ。
「今、ご飯の仕度をするね」
そう声をかけてグレースは、名残惜しいが玄関横のキッチンへ行き、買ってきた野菜とパンを小さな作業机の上に出す。
一口しかないコンロに鍋を置き、汲み置きの水を壺から汲んで鍋に入れる。
小さな干し肉を一本入れて、沸騰するのを待つ間に買ってきた野菜を切る。
今日は人参が安かったので、ニンジンのスープだ。
切った野菜を鍋に入れて、塩で味付けし、煮込んでいる間にカップを四つ取り出して並べておく。買ってきた黒パンもカゴに入れて、丁度、やってきたロビンに渡してリビングに持って行ってもらう。
煮込まれて柔らかくなった干し肉を取り出して、三つに切り分けてスープ用のカップに入れる。そして、残りのスープを均等にカップに注ぐ。干し肉も貴重なので、育ち盛りの弟妹と体の弱い母に優先的に食べてもらいたいのだ。
トレーにカップとスプーンを乗せてリビングに運ぶ。
ソファに腰かける母、その隣にミシェル。ロビンとグレースは、女将さんのドーナが譲ってくれた古い木製のスツールにそれぞれ腰かける。
「女神様、今ある糧に感謝します」
母が食前の祈りを捧げ、グレースたちもそれを真似る。
スープを一口飲んで、ほっと息を吐く。質素なスープだが、家族と共に囲む食卓は、グレースが心から安心できる時間だった。
固い黒パンをちぎってスープに浸して食べる。ミシェルがやけどをしないように、母が世話を焼く。ロビンはもう自分で上手に食べて居る。ここへ来たばかりの頃は今のミシェルくらいだったのに、となんだか少し感慨深い。
「ロビン、学校はどう?」
「別に、普通だよ。今度、算術の試験があるから勉強しないと」
「そうなの、頑張ってね」
エフォール王国では、公費で賄われている公立の学校は全てが無料だ。六歳から十二歳までの子どもが通えて、授業料もそこで使う教材や備品に関しても国が支援してくれている。そのため、貧しい家庭の子どもでも学校に通い、読み書きを習うことができるのだ。
国には六歳から十二歳までの子どもが通う初等学校と十三歳から十五歳の子どもが通う中等学校、十五歳から二十二歳までの人が通う高等学校がある。中等学校までは公立であれば無料だが、高等学校は専門的な分野を学ぶ場所のため、お金がかかる。
グレースがロビンの年の頃は、まだ父が生きていたので裕福な家庭の娘たちが通う初等から中等まで由緒ある女学院に通わせてもらっていた。そういった私費で賄われている学校はもちろん有料である。
「グレース、お仕事は大丈夫?」
セリーヌが心配そうに眉を下げた。
「ええ、もちろん。大丈夫よ、皆、優しくしてくれるもの」
グレースは笑顔を返す。嘘ではない。リゼル以外の皆は、変わらずグレースに優しくしてくれる。
給料が減給されたこと、あまりものをもらえなくなったことは、包み隠さず伝えてある。
ただ「経営が少し苦しくて、あまり物も不公平にならないようにって規則が変わったの」と嘘も交えてだが。
「お母さんも今日は調子がいいみたいね」
「ええ。少しずつ暖かくなってきたからかしら」
母がおっとりと微笑んだ。
エフォール王国は長い冬が終わり、ようやく春がやってきたところだ。だんだんと日中は暖かさを感じるようになった。
「でも油断はしないでね」
「ええ、ありがとう。グレースもね」
セリーヌが少しだけ眉を下げた。優しい母はグレースが働きづめなのを、いつも案じてくれているのだ。グレースは「うん」と頷いて笑みを返す。
ささやかな夕食を終えて後片付けをする。次に朝ごはんの仕込みをしておく。
入浴なんて贅沢はできないので、キッチンで髪を洗い、体をふく。以前は髪は三日に一度洗うだけで、それ以外は拭く程度だったのだが、リゼルに猫臭いと言われるので最近は毎日洗っている。
お湯を沸かすのがもったいないので、グレースはいつも水ですべてを済ます。
体を綺麗にしたら、リビングへ行く。
母と弟妹は寝室で寝ている。二段ベッドを知り合いから譲り受けたので、母と妹が下段を、上段をロビンが使っている。そこはロビンの部屋のようなもので、勤勉な弟はまだ勉強をしているだろう。
グレースは、リビングのソファがベッド代わりだ。こういう時は、特異成長が来ず、小柄でよかったと思う。
狭いリビングの片隅に積まれている紙袋を運んできてテーブルに置く。紙袋に入っている依頼書と衣類を取り出す。洗濯屋から斡旋してもらっている繕い物の内職だ。洗濯屋を利用するのは主に独身男性だ。依頼もほとんど男性のものだと思われる。洗濯屋が選択した服のほつれた袖や裾、とれたボタンを付け直すのだ。
猫系獣人族でよかったと思うのは、少しの灯りがあれば夜であってもよく見えることだ。
「もっと夜も働ければいいのに……」
繕い物の内職はそれほどお金にならない。
夜の酒場なんかで働ければもっといいお金になるのだが、十二歳の子どもにしか見えないグレースは、二十歳であっても雇ってもらえない。
いや、雇ってもらおうと思えば雇ってもらえる。グレースは生娘だが、もう二十歳だ。
子どもの姿のグレースを好む変わった趣味の男性がいることくらいは知っているし、実は何度も勧誘されている。
『君は成人していて法律的には何の問題もない。その姿なら、きっと有名になってたくさん稼げるぞ』と娼館の人間に何度か声を掛けられているのだ。
娼館という場所のことも、仕事内容も知っている。
だが、それは最終手段だ。家族を悲しませてしまうのは間違いない。働けるだけ働いて、それでもどうしようもなくなったら、と決めている。
「……頑張らなきゃ」
今はまだ自分しか稼げる大人がいないのだ。後五年もすれば弟だって働けるようになって、家族はいい方向に向かって行けるはず。
そう自分に言い聞かせながら、グレースはせっせと針を動かすのだった。