3-4
ジルベールは、廊下にいた。
「師団長様」
「ああ、診察は終わったようだな。ジャンはもう帰ったが、何か用があったか?」
ふるふると首を横に振った。
「丁寧に診察をして頂いて、お薬まで……」
「そうか。君のカバンはリビングのソファに置いておいた」
「は、はい。ありがとうございます」
「薬で、思い出したんだが」
ジルベールがそう切り出す。
「恥ずかしいことを思い出させてしまって悪いが、俺の肘が君の顔にぶつかってしまっただろう? あの時、俺は数日、君に会うためにお店を訪ねたんだ」
「そうなのですか? すみません、あの日に、お店を辞めてしまったものですから……」
知らなかったとはいえ、申し訳ない気持ちになる。真面目で優しいジルベールのことだから、本当にグレースを――あの時はまだロビンのような幼い子供の姿だったのも手伝いより一層――心配してくれていたのだろう。
「いや、君を責めているわけじゃない。ただ、あの時、あまりにも会えないものだから、当たり所が悪くてかなりまずいことになっているんじゃないかと心配していたんだ。それで女将さんに君の家の場所を聞いたんだ。そうしたら、一人暮らしをしているから若い男には教えられないと突っぱねられた」
ジルベールはばつが悪そうに頭を掻いた。
「だが、こうしてお邪魔して分かった。女子供で暮らしている家に、俺みたいな独身男が顔を出しては怖がられるな」
「まさか! 師団長様は、町の誰もが知っている方ですもの。ドアを開けていきなり師団長様がいたら驚きはしたかもしれませんが、怖いことはありません」
グレースはきっぱりと言い切った。
これが見知らぬ男性だったら、グレースは怖いと感じただろう。むしろ見知らぬ男性だったらグレースが傷つくことを喜ぶリゼルは、嬉々としてグレースの家を教えたに違いなかった。
だが、ジルベールは庶民の間では知らぬ者はいない立派な騎士だ。悪いことをしていない限りは、彼が家に来ても怯えることは早々ないだろう。
「そうか。だが、きっと女将さんは君たちの暮らしを慮ってくれたんだろうな」
「まさか!」
言ってからはっと我に返る。ジルベールがきょとんとした後、ああそういえば、と困ったような顔になった。
「君と女将さんは上手くいってなかったんだったな」
「はい」
「でも君は働き者だし、気立てもいい。あの人は、何がそんなに気に入らなかったんだ?」
ジルベールは心底不思議そうに首を傾げた。
随分と褒められて、頬が熱くなるのを感じながら、グレースはぺたんと耳を伏せる。
「私の働きぶりも、性格もあの人にはどうだってよかったと思います。……ただ、女将さんは、猫が、お好きじゃないみたいで」
「……そういえば、あの日も『この猫が!』みたいなことを言っていたな。名前を呼ばないから不思議ではあったんだ」
「どうも猫と何かがあったみたいで、それが動物の猫なのか、私のような猫の獣人なのかは分かりません。でも、とにかく猫がお嫌いなんです。私のような猫獣人だけじゃなくて、虎とか獅子とか豹とか猫系の獣人族の方々にも渋い顔をしていて、野良猫や猫関連の小物さえお嫌いなようでした」
「それは筋金入りだな。俺や君より年上なのに、やっていることはまるで子どものようだ」
呆れたようにジルベールが眉を下げた。
グレースは彼の言葉に確かにとも思ってしまう。嫌いなものは嫌いで構わないけれど、幼い子どもではないのだから、それを顔に出さない、態度に出さないことも大人には必要な時がある。
だが、リゼルはまるでピーマンを嫌う小さな子どものように自分の嫌いなものを嫌いだと大人げなく騒ぎ立てていた。
「この分だと、俺の代わりに菓子と一緒に見舞いを頼んだんだが……」
グレースは、申し訳ない気持ちになりながら首を横に振った。ジルベールは、やっぱりな、と苦笑を零した。
間違いなくリゼルは、ジルベールからの心遣いをなかったことにしている。
「……あまり長居をしても邪魔になってしまう。では、俺はこれで。三日間ほど看病休暇を取るといい。代わりに申請しておく。それでもまだよくならないようなら、連絡をくれ」
「分かりました。何から何までありがとうございます」
グレースは深々と頭を下げる。
するとぽんぽんと頭を撫でられて、驚きに顔を上げる。
「君はいつも頑張ってくれている。お礼を言うのは俺の方だ。母君が一日も早くお元気になられることを祈っている」
そう告げるとジルベールは目礼し、玄関から外へと出て行った。バタンとドアがしまり、少しして馬が歩き出し、車輪が揺れる音がした。
じわじわと頬が熱を持つ。
大きな手だった。グレースの頭がすっぽりと納まってしまうような、大きくて力強い手だった。あの日、グレースの口元にスカーフを当ててくれた優しい手を思い出す。
それだけではなく、ジルベールはグレースの頑張りを認めてくれた。
嬉しくて、嬉しいはずなのになんだか泣きそうになって唇を噛んだ。悲しいわけじゃない、ただ、本当にただただ嬉しくて、少しだけ自分が誇らしかった。
「……お姉ちゃん、あの人、師団長様?」
廊下に立ち尽くしていたグレースは弟の声に我に返る。軽く頬を叩いて気持ちを入れ替え振り返る。
「ええ。ジルベール師団長様よ。お姉ちゃんを雇ってくれた恩人さんでもあるの」
「……ふーん」
なんだか弟は腑に落ちないような顔をしていて、グレースは首を傾げる。
だが、グレースはそこで自分がまだ制服のままだったことに気づく。いつもは騎士団の休憩室に置いておき、洗濯もあちらで行っている。
「ロビン、お遣いを頼んでもいい?」
「うん、もちろん」
「なら、いつもの黒パンと今日一番安いお野菜。それと、お母さんのために柔らかいパンとリンゴを一つ、買ってきてくれる?」
「わかった」
頷いてくれた弟の頭を撫でて、グレースはリビングに行き、ソファに置かれていたカバンから財布を取り出して、必要な分のお金を弟に渡す。
「お願いね。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
キッチンから買い物用のカゴを持ってきたロビンが出かけて行くのを見送り、グレースは寝室へ行き服を着替える。汚れてはいけないからと母のクローゼットに制服をかけさせてもらい、リビングから椅子を持ってきてベッドの傍に置き、母の看病をするのだった。
グレースは始めたばかりの繕い物をしていた手を止める。
家の前で馬車が停まった音がしたのだ。
一瞬、ジルベールが戻ってきたのかと思ったのだが、嫌な予感がして立ち上がる。
母は熱さましの薬を飲んで深く眠っていて、そこにくっつくミシェルもすーすーと穏やかな寝息を立てていた。
繕い物を椅子の上に置き、廊下へと出るとノックの音がした。
この趣味の悪い香水の臭いには、覚えがあった。
グレースは「はい」と答えてドアを開ける。
そこに立っていたのは、やはりリゼルだった。
「……あら、今日は仕事じゃなかったの?」
リゼルがにっこりと笑った。彼女の後ろには、今日も怯えたような顔のローがいる。
グレースは外に出て後ろ手にドアを閉めた。
「……なんの御用ですか? まだ二十日ではありませんが」
自分で意識するよりもずっと固い声が出た。
しかしリゼルは気にした様子もなく、値踏みするかのようにグレースの全身に視線を走らせた。騎士団の制服から着替えていてよかった、と思った。あんなに仕立ての良い服を着ていたら借金を増やされていたかもしれない。
「実は徴収日の都合が悪くなってしまったのよ。少し早いけど今月分をもらいに来たの」
絶対に嘘だ。
給料日前に来て、困るグレースを見たかったか、それを理由に自分の酒場に勧誘するつもりに違いない、と鼻が曲がりそうになる香水の臭いに顔をしかめる。
「…………分かりました。家には入らないでください」
そう告げてグレースは家の中に体を滑り込ませる。
弟がいない時でよかった、とグレースは胸を撫でおろしながらキッチンへ行く。
ロビンは賢い子だ。リゼルに無理矢理背負わされた借金について嘘を吐くのは難しい。
本当はグレースが通っていたように裕福な家庭の子女が通う学院へ通わせてあげたかった。そうすれば彼は医者にでも弁護士にでもなんにでもなれるだろう。
今の経済状況ではどうやっても無理な話だが。
弟たちでは手の届かない棚の上の小さな壺を手に取る。蓋を開ければ、一枚一万ペルの小金貨が十二枚と数枚の銅貨や錫貨が入っている。
これはこの五年、母とともに必死に貯めたいざという時のお金だ。
間違いのないように枚数を三回ほど数えて、壺をもとに戻してリゼルの下へ行く。
「確認してください」
その言葉にリゼルが手を出したので、その手のひらに一枚一枚数を数えながら、小金貨を乗せた。
「……確かに十万ペルもらったわ。また来月、お願いね」
リゼルはあからさまに面白くなさそうな顔で言った。やはりグレースたちを困らせるためだけに三日も早く来たのだと奥歯を噛みしめる。
「そういえば……」
馬車に乗るため背を向けたリゼルが振り返る。
「就職先は見つかったの? 紹介状もないのにまともなところでは働けないわよねぇ。あたしの酒場ならいつでもあなたを迎え入れる準備はできているのよ?」
「あなたを頼るような真似だけは絶対にしないのでご安心くださいませ」
リゼルはつまらなさそうに目を細めると、ふんと鼻を鳴らし「来月からはローにお願いね」と告げて馬車に乗り込んだ。ローがおどおどしながら御者席に座り、馬車が走り出す。
今頃になって震えだした体を抱きしめるようにして俯く。
今日でよかった。たまたまグレースが家にいて、弟は遣いに出ていて、母と妹は眠っている今でよかった。
「……お姉ちゃん?」
ロビンの声に顔を上げる。重そうなカゴを腕にぶらさげて弟がこちらにやって来る。
思わず辺りを見回すが、どこにも馬車は見当たらなかった。
「どうしたの? 顔、真っ青だよ」
「……なんでもないわ。それよりお買い物はできた?」
グレースは無理矢理に微笑んで、弟の持つカゴを受け取る。中をのぞくとグレースが頼んだもの以外にもあれこれ入っていた。
「チーズや牛乳まで……どうしたの?」
「お母さんが寝込んでいるって言ったら、いつも来てくれるからってチーズは八百屋のおばちゃんが、牛乳はパン屋のおじさんがくれたんだ。他にもいろいろとくれたんだよ」
「そうなの。また今度、私からもお礼を言わないとね」
「うん」
グレースは優しい人に囲まれている。家族はもちろん、商店街の人々だってグレースたちを気にかけてくれる。前の職場の同僚たちだってそうだった。
それに今はジルベールやノエルといった騎士の人たちもいる。
グレースの頭を撫でた大きな手を思い出しながら、グレースは弟を促し家の中へと入るのだった。




