夜の依頼
むしろ深夜にメールチェックをするのが僕の仕事というものである。生暖かい曇天の日だった。枕もとの明かりに、もたもた組んだ胡坐のうえ、ノートパソコンと向き合った。
「プレゼント制作の依頼
サイズ二百×五百、藍と緑を合わせた辞書式のものを依頼します。あるいは日本画のように黒と白の外に色彩のない女の肖像画でも満足です。予算は二万以内で、九日までにお願いします。」
クライアントの目がある訳でもないのに、頷きながら読む癖があった。
自分のベッドから、人が一人通れるくらいの通路を挟み、向かい側にはもう一つベッドがある。そこには仕切りとして白いカーテンが掛けてあり、そのカーテンには影が、二人でキスをし合っていた。
タバコ屋と消火栓に挟まれたような立地にあるこの家は古めかしい木造建築で、いつも夜になると屋根や壁が軋むのが良く分かった。それもこれだけ静かな日であれば尚更で、網戸で風を通しているが、外からは虫の声すら入ってこないほどだった。
「Re:プレゼント制作の依頼
承りました。予算の方は完成し次第改めてお伝えしますが、おそらく一万六千を超えない見込みです。また第二候補に挙げられていた日本画風の女性の肖像画になった場合、サイズは変わらず二百×五百でよろしいでしょうか。」
送信ボタンを押したのち、PCの電源を落とし、ライトも消した。
こんな時間にメールをチェックするというのはこれからのことが理由で、僕は何かを制作するときには必ず夢に頼る必要があった。どういう形にするか、どの順番で組み立てるかなど、僕はどうしても夢の中でしか決めることができない。ブルーライトを浴びると睡眠の質が落ちるのも、狙ってはいなかったものの、実践してみると都合がよかった。
しかし今夜は眠れそうになかった。というのも隣のベッドがうるさくて、カーテンの影は一体となって蠢いている。音だけならば、もはや四つくらいになっているのじゃないかと思われるほどだった。冷たい金属板をビンタしたり、蛙が畳の上に着地したり、いろんな音がベッドから聞こえた。
「なあ、四つも五つもいるなら一つこっちに分けてくれよ。」
僕は一日が終わる疲れからそんなことを言い放った。カーテンの影の動きが変わった。
「……ねえ。なんか言ってるよ。」
「え、うん……、あいつ頭おかしいから放っといていいよ。」
「聞こえてるぞ。」
「ねえ覗いてみていーい?」
「そっとな。」
「だから聞こえてるって。」
カーテンがわずかに捲れると、その奥から女の顔が出てきた。恐る恐る見ているというような表情がワザとらしく、そこには日頃からそうやって振る舞う人なのだろうと思わせる、常習性が見て取れた。逆に、女の後ろにいる男には僕を覗こうとする様子がない。当たり前といえば当たり前で、男と僕とは同居人なのだ。
「ねえこっち見てるよ。」
「ええ? うん。」
二人はいつまでも、秘密裏であるかのように話している。隠す気のない秘密を目の当たりにされるのは、遊びでのけ者にされるのに酷くそっくりだった。
「コソコソするならさ、せめて僕から見えないようにしてくれよ。これから寝るのに気になっちゃうだろ。」
「覗くなって言われちゃった。私ちょっとあっち行くね。」
女は掴んでいた手でカーテンを開こうとした。
「んー……ちょっと、服くらい着ろよ。」
そう同居人は言うと、ほとんど姿の出かかっていた女を再度ベッドへ引き戻し、女の代わりにカーテンも閉めた。中の見えなくなったベッドからは、もぞもぞ動いている音がし、割とすぐにカーテンが開くと、出てきた女は白地のTシャツをブカブカに着ているだけだった。同居人が言う、「服を着ろ」というのはあの程度で満足らしかった。
同居人が以前、自分は女性関係を一人に落ち着かせることができないと話していた。実際今夜のようにうるさくされるのは初めてではない。あのときのあれは悩みを打ち明けていたのか、それとも他愛もないお喋りだったのか、イマイチ僕は理解できなかったが、その連れ込んだ女は今やベッドを抜け出し、近寄る足取りのまま、僕のベッドの上に軽々腰をかけている。この僕の隣にやって来た女もまた、前に会ったのやその前に見たのとよく似ていた。たぶん次の人とも似ているのだろう。これは同居人の一貫した好みというよりも、単に類は友を呼ぶというだけのことだった。
「面白いくらい狭いよねー、この家。」
「狭いよ。でも安いからね。安いのを分け合うともっと安くなるんだ。」
「へえ。じゃあ、三人で住んだらもっともっと安くなるね。」
「いいね。君だったらこれ以上部屋が狭くなる心配もないだろうし。」
女は否定も肯定もなくヒラヒラ笑った。同居人にも聞こえるように言ったはずが、彼のいるベッドからは気持ちよさそうな寝息だけがしていた。
「よく寝てるねー。ところでこのパソコンでしょ? さっきカタカタ何してたの?」
そう言って充電ケーブルに差してあるパソコンを開けると、暗い画面のままキーボードを触りだした。エンターキーばかり押している。
「仕事。メール見てただけだけどね。」
「仕事かー。偉いなー。」
同居人の選ぶ女はたいてい、生きているというより、火が燃えているとか果物が生っているとかいうのに近い人が多かった。誰からも邪魔をされることもすることもなく、自由には責任が付いて回ることを知らなくて、もし彼女らに障害があったときというのは、ふつうの人間みたいに失敗に終わって、その後も生き延びるようなことには決してならない。彼女らの刹那的な生き方が、人としての存在を、短いスパンで起こる現象じみたものと錯覚させている。男の同居人である僕にはそう思えたのだった。
夜も妙なほど頭の回る時間へと差し掛かっていた。女は仕事と聞いて、将来の夢を連想したらしかった。いじっていたパソコンから手を離すと、
「私小学生のころサッカー選手になりたかったんだよねー。サッカーチーム入ってさ、校庭で練習して、たまにハム工場の横のコートでもやるんだけど、と殺場のピストルの音でみんなで笑ってさー。今思ったらめっちゃ酷くない?」
笑いながら同意を求められたので、僕が「今も笑ってるじゃん」と半笑いで指摘すると、口元を覆ってヒラヒラ笑うのだった。
予定通り、今夜は夢を見た。いつものことだが、目を疲れさせてムリに作った夢の中は、正直まともに作業などできたものではない。水中にいるみたいに体が重くなるし、そのくせ周囲にある物や人はスピーディーだからじれったくなってくる。
こんな夢に頼らなければいけない自分を呪いながら、五番の部品に藍のペンキを塗りたくった。夢で作り終えても、今度は起きてから作り直さなくちゃならないから手順を確かめるようにして三番にはめ込む。
今回の依頼は辞書式だから、順番には慎重になる必要があるのに、どうして僕はサッカー少年たちと一緒のベンチに座っているのだろう。僕の右にいる子も左にいる子も試合の応援に夢中で、僕が手先に集中しようと思ったとたん肘にぶつかってきた。
それに炎天下である。僕だけタオルもポカリもなし。汗が顔中をくすぐるように流れだし、振り払えば手元へ垂直落下する。コートからボールがラインを越えて脛に衝突する。スローインの砂ぼこりが視界を覆い、とうとうやっていられず両手から全てを放り捨てるとここはと殺場だった。捨てられていたのは僕の方だった。眉間に開いた穴がヒラヒラ笑っていた。
そこで夢は覚めたが、いい朝のはずがなかった。跳ね起きてからしばらく茫然と網戸を眺めていると、なんだか自分の指が濡れていることに気が行きだした。二本指の間で糸を引いて、おまけにあまりいい匂いはしない。僕は謎の液体の正体を突き止めるべく、自力でまた元の寝相まで巻き戻ってみると、そこには女のよだれで大きなシミができていたのだった。僕はブカブカのシャツの裾で指を拭いてやった。
いつもよりクローズドな話を書きたくなりました。
今回参考にしたもの:
坂口安吾「私は海を抱きしめていたい」、芥川龍之介「歯車」、アーロパークス「My Soft Machine」、マイケルホイ「ミスターココナッツ」