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夏の葬列

作者: 鈴村もゆり

 夏休みが始まってそろそろ二週間くらいだろうか。じわじわと迫りくる暑さに内心悪態をつきながら、アイスを齧る。夏の醍醐味といったらこれだ。腹の中からじんわりと涼しくなっていく感覚を楽しむ。体の外は変わらず暑いので、あくまでその場しのぎでしかないのだけれど。

 ミンミンとセミが鳴いている。扇風機が髪の毛をかき乱していく。僕は早く冷房をつけようと何度も母さんに打診しているのに、断固として許してくれない。冷房は体に悪いというのが母さんの主張だけれど、本当は電気代のことを気にしているのだということを僕は知っている。寝るときに点けられるだけましなのだろうけど。父さんの暑いという言葉にも首を縦に振らないのだから本当に女の人は強い。

 暑さにかこつけて、僕は昼からずっと床に寝転がっている。二階の自室と違ってこのリビングはまだ涼しい。カーペットのごわっとした感触は少々暑苦しいけれど耐えるしかないだろう。僕の横で飼い猫が腹を見せている。流石、猫は涼しいところを知っている。こいつのいるところにいれば間違いない。

「邪魔ねえ」

 買い物から帰ってきた母さんが僕たちを見下ろして言った。眉間に皺が寄っている。母さんが家を出る前からこの状態だったので呆れているのだろう。半袖から延びる腕が僕の頭をこつんと叩いて、大きな袋と共に台所へ消えて行った。

「今夜はどうする?」

「今夜?」

「夏祭りでしょ、今日。行かないの」

 トントンと料理をする音が台所から聞こえてくる。いつの間にか時計は夕方くらいを示していて、窓から差し込んでくる光も赤みを帯びている。そのくせ暑さは変わらない。食べ終えたアイスの棒を咥えて、時間ってのは理不尽だと不平を漏らした。

 八月も半ばのこの時期、多くの街と同様にこの街でも夏祭りがある。夏祭りという名で呼ばれてはいるけれど実際は盆踊りがメインのようなものだ。二日にわたって人々が踊り回り、太鼓の音と酒の匂いが絶えることはない。屋台以外に中

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学生の気を引くようなものはなく、御輿や様々な食べ物が配られる秋の祭りと違って、正直退屈なイベントなのである。友だちはほとんどが田舎へ帰っている。

今日はやめとくと返事をすると、そう、と少しだけ残念そうな声が返ってきた。

 母さんは僕が心配なんだろうと思う。毎年夏には外で走り回っているのに、今年はほぼ室内で過ごしている。珍しいことに宿題もすでにほとんどが終わった。起きたらラジオ体操に出て、帰ってきたら二度寝して、勉強をしたら床で転がっている。怠惰なのはわかっているけれど、そんなに気にかけるほどではないのに。僕は大丈夫なのに。



 父さんが返ってきたので夕飯になった。野菜のたっぷり乗ったそうめんと塩気の利いた焼き鮭は、暑さに白旗を振った僕の食欲にも訴えかけるものがあって、なんとか腹に収めるに至った。貧弱だなあと父さんは笑うけれど仕方ない。冬生まれの僕は夏のじめっと体にまとわりつく暑さが天敵なのだ。

 風呂でさっぱりと汗を流して、自室へ籠った。少し前に図書館で借りてきた本を手に布団へ転がる。夜だとはいってもまだ暑さの名残は消えなくて、背中が熱くなってくるたびに体制を変えてやり過ごした。涼しいところを求めてあがく僕は醜いだろうなあ。自分で自分を笑って、本を読み進める。

 しばらくすると、扉をひっかく音が聞こえてきた。猫だ。こいつは決まった時間になると僕の部屋を訪ねるのが日課になっている。つまり、眠くなったらだ。こいつに合わせて眠ることにしているので、彼女のノックは僕の読書タイムの終わりを意味している。

 恭しく扉を開いてやれば、我が物顔でベッドに寝転がりやがる。真っ白い身体をのっそりと横たわらせる様子はアザラシでも見ているかのようだ。そこはお前の寝どこじゃないんだぞ。少しばかり憎らしい気持ちになりながらクーラーの電源を点けた。タイマーは三時間。窓もしっかりと閉めて、タオルケットを被れば寝る体制は完璧だ。

「ニラ、おやすみ」

 ぐるると喉を鳴らして彼女が挨拶を返してくれる。ちなみにこのニラという名前は、バニラからきている。白くてふさふさとした毛をもつ彼女には似合いの名前だ。ただ、短縮した名前が定着してしまったおかげで緑色のイメージが抜けないけれど。

 電気を消した室内は静かで、クーラーの起動する音が低く響くだけだ。涼しくはあるけれどどこか寂しげで、僕は無理やりタオルケットを被った。隣で眠るニラが迷惑そうに尻尾を振った。



 翌日、いつも通りラジオ体操に出かけて、粛々と二度寝を楽しんだ。八時過ぎに起きたころにはすでに父さんは仕事に出ていて、朝食を食べつつ母さんから最近なじみの小言を聞かされる。休みなんだから玄関の掃除くらいしなさい。夏休みの目標に「一日一お手伝い」なんてことを書いてしまったせいで、僕はこの二週間ほど母さんにうまく使われている。

 これ以上お手伝いを押し付けられても困るので、することがあったのだとうそぶいて部屋へ入ることにする。することと言ってもせいぜい毎日の一言日記くらいだ。今日はまだ始まったばかりだけれど、どうせたいしたことも起こるまいと適当なことを書く。天気は晴れ。今日も

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暑い。

 宿題は最終日まで埋めることのできないこの日記と、自由研究以外はすべて終わっている。研究は雲のことについて調べることに決めていた。一人ですべてやるとなると大変だ。少し憂鬱になる。昨日まではパソコンや図書館の本からの知識をノートに書き込んでいたけれど、写真の一枚や二枚ないと研究とは言えないだろう。窓からのぞけば、おあつらえ向きの大きな積乱雲がぽかりと浮かんでいる。今日は外に出かけようか。

 帽子と、去年お年玉で買ったデジタルカメラを抱えて階段を駆け下りる。母さんはテレビを見ている。

「出かけるの?」

「うん。自由研究の写真撮ってくるね」

「帽子は……、持ってるわね。日焼け止め塗ってないでしょう」

「いいよそんなの。行ってきまーす」

「行ってらっしゃい、気を付けてね。あ、お昼には帰ってきなさいよ」

 はあいと適当に声を上げて、スニーカーをひっかけた。玄関を開け飛び出せば、突き刺さりそうな太陽の光が僕に攻撃を仕掛けはじめる。じめっとした空気も気持ち悪い。風は結構強いけれど、そんなのはこの暑さの中じゃほんの気休めにしかならない。

 帽子をかぶっていてもあまり意味がない。顎にまで滴る汗を拭って僕は走った。目指すは少し行ったところにある小さな山だ。このあたりは住宅が密集していて空の写真を撮ろうとするとどうしても屋根が映りこんでしまう。あの山からならば綺麗に撮られるはずだ。ついでに知り合いにも顔を見せていこう。久しぶりの高揚感に、体力がないくせに走るスピードがぐんと上がった。

 真っ青な空を見つめて走っていると、ここがどこだか分からなくなってくる。時折耳に入る子どもの笑い声やすれ違うお年寄りでどうにかこの世界に意識が保たれているという感じだ。ぶわりと僕を包み込む風も、そろそろ僕を焼き尽くすつもりなのではと疑いたくなるほど強い日差しも、この世のものではないような。酸素を求めてあえぐ喉を、ごくりと鳴らした。何を考えているんだろう、僕はまだ生きているってのに。

 体から噴き出るような汗に辟易しながら呼吸を整える。もう少ししたら山に入る細い道がある。走ったせいで頭が痛くなってきていたので、坂道に差し掛かる前に小休憩を挟まなければ。

「はあ……」

 木陰に体を押し込む。太陽はそろそろ頂上を目指して邁進しているところのようで、影は小さなものしかできていない。暑い。それに限る。呼吸はどうにかまともになってきたけれど体内に溜まっている熱はどうしようもなくて、特別冷たくもない空気を無意味に肺へ送り込む。

 そうしてどれくらいの時間が経っただろう。じっとしていても暑いだけだということに気が付いて、腰を浮かせたときだった。

「コウくん?」

 聞き覚えのある声だ。もしかしてと顔を声のした方へ向ければ、思った通りの人物が首を傾げてこちらを見ていた。手には大きなビニール袋が二つ。どうやら買い物帰りらしい。

「やっぱりコウくんだ。久しぶりだね」

「うん。久しぶり、サキちゃん」

 にっと笑った女性は、サキちゃんという。ちゃんを付けて呼んではいるが、僕よりずっと年上の人だ。とっくに結婚していて、遠くの大きな街で旦那さんと暮らしているらしい。彼女の実家は今僕の

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目指す山の中にある。というか、この山自体がサキちゃんの家の所有物で、遊ぶくらいなら構わないとこの辺りの子どものために解放されているに過ぎないんだと聞いた。

サキちゃんは毎年、夏になると避暑だといってここへ帰って来る。旦那さんは仕事があるらしいから、一人で。結婚なんてしたことのない僕はそんな旦那さんを少し薄情だなと思う。だけど、彼女の実家にお茶をご馳走になりに行くと、おじいさんとおばあさんと楽しそうにしているので、さみしくはないんだろう。そういうものなのかもしれない。僕にはやっぱりよくわからないけれど。

「コウ君、今日はひとりなの」

「うん」

「毎年よく飽きないよね。あ、ちゃんと日焼け止めは塗ってきたんでしょうね」

「それ母さんにも言われたけど、日焼け止めなんて塗るだけ無駄だよ。どうせ汗で落ちちゃうんだし。ていうか、黒くなりたい」

「後からお風呂入るときに痛い痛いって泣くんだから、今のうちから予防しなくちゃ」

「泣かないよ、失礼だなあ」

 意地悪く笑うのに唇を尖らせて、小道を二人で上っていく。ここの道は狭く、車が一台かろうじて通れるくらいの広さしかない。木が折り重なって生えているおかげで太陽の光が遮断されて幾分か涼しいけれど、あくまで体感であって、実際にはそれほど変わっていないんだろう。いつまでたってもだらだらと体を濡らす汗は引かない。

 何分かサキちゃんと世間話をしながら歩いていると、家が見えてきた。サキちゃんの家だ。どっしりとした日本家屋の横には小さな畑と動物が飼われている小屋があって、これがいつかテレビで観た夢の田舎暮らしというものなんだろうなあと思う。

「上がってく? 冷たいお茶あるよ」

「いいよ。それより荷物、家の中まで運ぶね」

 当たり前のように渡されていたビニール袋を掲げて言えば、ありがとうと快活に笑った。僕はサキちゃんのこういうところが好きだ。なんというか、難しく色々と考えていない感じ。大人だけど子どもみたいな人だ。

 畑で作業をしているおじいさんに挨拶をして、お菓子をくれようとするおばあさんの言葉を必死で遠慮して、広い玄関から室内に上り込んだ。おじいさんもおばあさんも冷房は嫌いらしく、この家にクーラーは設置されていない。それでも、扇風機が一生懸命働いている家の中は外よりかは多少涼しい。痺れかけていた手もようやく解放できる。ビニール袋の中を覗き込んでみたら、飲み物がたっぷりと詰まっていて、どうりで重たかったはずだと思わず笑ってしまった。きっと重たい方を僕に渡したのだろう。サキちゃんは本当に容赦も抜け目もない。

 どこ行くところだったのと尋ねられたので、曖昧に答えておく。サキちゃんに会えたら連れて行きたいところがあったのだ。なので早く片づけを終えてもらわなければ。積乱雲が崩れてしまう。サキちゃんは冷蔵庫に食べ物をしまっている。

「ねえ」

「うん?」

「このあと時間ある? 一緒に行きたいところがあるんだけど」

「なに、デートのお誘い? いいよ、大丈夫」

「そっか」

 こちらを見もしないサキちゃんになん

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となくほっとして、溜め息を零した。こういうところも好きだ。多分僕は、サキちゃんに安心感を求めている。

 何分かして、片づけを終えたサキちゃんと二人でまた外に繰り出した。日差しが眩しい。すでに焼け始めているのだろう肌がじりじりと痛んで、日焼け止めのことを少しだけ思い出した。

「こっち」

 がさがさと草をかき分けて進む。サキちゃんが虫なんかが苦手じゃなくてよかった。夏の山の中はどちらを向いても虫がふよふよとしていて、僕の同級生のショッピングが趣味な女の子たちなんかがここを訪れたら悲鳴を上げるんじゃないだろうか。

 道なき道をひたすらに歩いた。時折腕にひっかき傷を付けながら目的地へ。後ろを確認すると、さすがは山で育ったと言うべきか、サキちゃんは遅れることなくついてきている。むしろ余裕綽々に見える。いったい彼女はいくつなんだろうか、元気でいいけれど、現役中学生としては釈然としない。

 どれくらい経っただろう、小さいとはいえ隣の町にまで跨いでいる大きな山に連なっている山なので、あまり深入りしすぎると迷うことになる。それを心配しているらしいサキちゃんが声をかけてくる。大丈夫なのに。僕はこの道を、何年も、何度も通っているんだから。

「うわあ、こんなところあったの」

 感嘆の声を上げるサキちゃんに誇らしい気持ちでうなずく。そうだろう、ここはとても綺麗なところなのだ。

 サキちゃんの家の、多分裏に近いところ。それまで生い茂っていた木が突然開け、ここだけ丸く穴が開いているようになっている。ごつごつとした岩の通路を水が流れているのがサキちゃんにも見えたのだろう、嬉しそうに悲鳴のような声を上げた。夏であっても冷たいこの川の水はとても美しくて、きらきらと中を泳ぐ魚の鱗まで見えるほどだ。当然道も民家も人通りもないので、この場所を知っている人はほぼいないんじゃないだろうか。サキちゃんのおじいさんおばあさんなら分からないが。

 ぽかりと空いた木の隙間から、真っ青な空が見える。山の麓にある田んぼも視界に入って、緑と青のコントラストに何度だって息を呑んでしまう。こういうのが芸術なんじゃなかろうか。美術の先生が満足そうに画集を眺めるときの顔を、僕はしているのだろう。

「ずっとこの辺りに住んでたのに、知らなかった。コウくんたちいつもここに来てたんだね」

「そうなんだ。秘密基地だからね、誰にも内緒だよ」

「秘密基地? それなのに私に教えちゃっていいの?」

「サキちゃんはね、特別」

 そうなの、なんて喜んでいるのに笑って、岩に腰掛ける。サンダルを脱ぎ捨てて川に足をつければじんわりと冷たさが伝わってくる。心地よい涼しさが体中にめぐっていくようだ。隣に座ったサキちゃんも同じことをし始めた。やはり暑いのか。冷房を嫌う彼女の両親を思って、大変だなあと苦笑した。

 首にかけていたカメラを手に取り、空へ向ける。家を出るときにはまだ小さかった積乱雲はいつの間にか覆いかぶさってくるような格好で大きくなっていて、被写体としてこれ以上ないくらいの出来だ。かしゃり。撮影に勤しむ僕に不思議そうな顔をするサキちゃんに軽く笑って、また何度かシャッターを押す。

 かしゃ。かしゃ。

 サキちゃんは何も言わない。シャッタ

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ーの音と川を流れる水の音。それとセミの鳴き声が頭の中で飽和して、お腹がいっぱいになりそうだと思った。言わないと。言わないと。何度も心の中で繰り返す。言わないと。

「サキちゃん。リクくんさ、死んじゃったよ」

 サキちゃんはそれでも何も言わなかった。悲しそうな表情で僕の頭を優しく撫ではしたけれど、言葉で慰めることはしなかった。きっと勘付いていたんだろう。夏休みにこの山に来るときは、僕はいつだってリクくんと一緒だったのだから。



 リクくんは僕の従兄弟だ。同い年で昔から仲が良かった。住んでいるところは少し遠くの街だったので夏休みと正月くらいにしか会えなかったけれど、休みの間何日も一緒にいて全く飽きないくらいに僕はリクくんのことを好いていた。リクくんもそうだったんだろう。誕生日が少し早いからって兄貴風を吹かせて、やけに僕の面倒を見たがった。

 小学校低学年の頃から、僕たちはサキちゃんのいる山で遊ぶことを恒例にしていた。虫を捕まえたり食べられる草を咥えたり。遊んでいる最中に見つけた秘密基地で魚をとったり水浴びをしたりもした。サキちゃんの家でスイカをご馳走になったことも畑の手伝いをしたこともあった。サキちゃんは僕たちを弟のようにかわいがってくれたし、おじいさんおばあさんは孫ができたような気分だったのだろう。

毎年毎年が楽しくて、夏休みにリクくんと走り回ることが楽しみで仕方がなかった。あまり外出を好まなかった僕が行動的になったことが両親も嬉しかったのか、リクくんがうちに滞在する期間は年々増えていった。長い時間を過ごして、僕たちは歳を経るごとに仲良くなっていった。ほとんど兄弟のようだったと思う。そんな時間が今年も同じようにくるのだと、僕は思っていたのだけれど。

今年の、四月だ。おじさんから、リクくんが亡くなったと連絡が入った。交通事故で、頭をぶつけて、ほとんど即死。真剣な顔で説明をする父さんの言葉がいまいち理解できないままにリクくんの家まで行って、真っ白な布を持ち上げて、やっと理解した。リクくんは死んでしまって、もうどこにもいないのだ。また夏休みにと言って正月に別れたのに、自由研究も一緒にやろうねって約束したのに、もう会うことはないのだ。

そういうものなのか。まだ十何年しか生きていないけれど、なんとなく、そういうものなのかと思った。人が一人いなくなるというのは唐突で、本当にたいしたことのない出来事なのだ。漫画やドラマのように、リクくんが事故にあった時間帯に僕に何か啓示があったわけでもないし、幽霊が見えるわけでもなかった。それなのにそのドラマや漫画の世界のように僕の周りで人が一人いなくなって、僕にはいつものように夏休みがやってくる。

なるほど、人間ってこういうものなのか。少しだけ大人になったような気がした。



家まで送っていく間も、サキちゃんは無言だった。あまり気を遣われても困るのだけれど。というか、ショックなのはサキちゃんも同じはずだ。僕ほどではないにしても、彼女にとってもリクくんは夏の代名詞のようなものだろうし、僕の姿を見て彼のことを思い出すのだろうと

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も思う。まあ、口づてに知っただけでは実感がわかないのかもしれない。

行ったときと同様に枝に体を切り裂かれながら歩き、ようやく家が見えてきた。

「ここまででいいよ。ありがとう、送ってくれて」

 僕の服の裾を引っ張って、サキちゃんが笑う。いつも通りの表情だ。そこでやっと息苦しくなくなったような気がして、僕も笑顔を返す。

「ねえコウくん。今夜お祭り行こうよ。もしかしてもう予定入っちゃってる?」

「え、盆踊りのやつ? 予定はないけど、いやだよ。行かない」

「そうやってどうせ昨日も行かなかったんでしょ。いいじゃない、お願い」

 ぱんと両手を合わせて一生懸命に言われてしまっては、いやだと突っぱねることもできなくなってしまう。はいはい、僕の負けだ。仕方ないなあと頷けば、サキちゃんは子どもみたいに両手を上げて喜んだ。そんなに嬉しいことだろうか。でもそういえば、サキちゃんと祭りに行くのは初めてかもしれない。毎年リクくんか、彼がまだ来ていなければ学校の友人と行っていたから。

「それじゃあ、六時に麓の辺りに集合で」

「わかった。今日は屋台のお金は私が全部出すから、大船に乗ったつもりで来なさいね」

 ふふんと胸を張るのはいいけど、それが普通なんじゃないか。とは、口にしない。無駄なことを言って約束を反故にされてはたまらないからだ。機嫌を取って、思いきりすかした腹を満たしてもらわなければ。

 適当に手を振って別れ、来た道を戻る。昼過ぎくらいだろうか、太陽は朝よりもぎらぎらと地上を照らしている。確実に焼けた肌がちりちり痛む。どうしてこんなに鬱陶しいのだろう、去年までは少し焼けたくらいじゃあどうということはなかったのに。リクくんの顔が頭に浮かぶ。うん、やっぱりそうなんだろう。彼にあけられた穴は、思っているよりも大きく深いのかもしれない。

 家に帰ると、母さんの小言に迎え入れられた。そういえば、昼までには帰るという約束を破ってしまっている。すっかり忘れていた。機嫌が悪いしやめた方がいいだろうかと思いつつ、ぐちぐちとした文句の合間に今夜出かける旨を伝えたら、予想外にあっさりと了承をもらった。お小遣いは減額らしいが、どうせすべてサキちゃんの奢りだ。

 わりかしすぐに許してもらって昼ご飯を食べ始める。母さんがほっとしているのが伝わってくる。リクくんがいないから家に引き篭もっているのだと知っているからだろう。やっと元気が出てきたかと安心しているんだ。

 お昼ご飯がまたそうめんだったことには、文句を言わないことにした。



 出かける準備を終えて、家を飛び出す。日も傾きはじめ、昼間よりはよほど過ごしやすい気温になった。ひぐらしが物悲しげに鳴くのを聞きながら待ち合わせの場所へ急ぐ。

 山へ向かう途中、浴衣を着た人達と何度もすれ違った。皆祭りへ向かっているんだろう。お盆ということで都会の方へ出て行った人も帰ってきていたりして、きっとものすごい人ごみができるんだろうなとげんなりする。あまり大きな街ではないし祭だってありがちなイベントだ、観光客の類はそういないのだろうからそれだけは助かる。楽しそうに手を繋

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いで、小学生くらいの子どもが横を走り抜けた。あれが去年の僕の姿か。なんだか急に大人になったような気がして、足を速めた。

「コウくん遅いよ。始まっちゃう」

 少女のように頬を膨らませてサキちゃんが怒る。どうやら遅刻してしまったらしい。見せてもらった腕時計は待ち合わせ時間を五分ほど過ぎていて、早めに出たはずなのになあと首を傾げた。

「浴衣じゃないんだね」

「うん。面倒くさいし、着付けできないし」

「言ってくれたらやってあげたのに。家にあるでしょう」

「あるとは思うけど、小さいときに着たきりだよ」

 ふうんと呟いて歩きはじめたサキちゃんは、藍色の浴衣を着ていた。紫の花が描かれていて、シンプルだけれど少し派手な顔立ちのサキちゃんにはよく似合っている。からころと楽しげに音を立てる草履の鼻緒も花柄だ。いくつになっても女性はこういうのが好きなんだな。サキちゃんや母さんが聞いたら何か文句を言いそうなことを考えながら、浮かれた足取りの後ろ姿を追いかけた。

 盆踊りの会場である神社へ向かうにつれ、予想通り人通りの多さが気になってくる。誰もがわくわくと子どものような表情をしている。そんなに楽しみにするようなものだっただろうか。どんな風だったかと考えて、僕の隣でリンゴ飴を食べていたリクくんの笑顔を思い出した。きっと僕もああやって笑っていたのだろう。今きゃらきゃらと声をあげながら走っていった子どもたちのように。

 真っ赤な提灯が空を彩って、星も見えないくらいになっている。さざめく笑い声と、聞き覚えのある音楽にリズミカルな太鼓の音。すでに人が集まりだしているやぐらを見て、ああ祭りだなあとぼんやり思った。しかし、二日目だというのに盛況なことだ。

踊り始めている人たちの顔にはお面であったり手ぬぐいであったり笠であったりが被せられていて、近くで見るならまだしも遠目ではどれが誰だかわからない。これがここの祭りの特徴だ。最近はそうでもないらしいけれど、昔は盆踊りは顔を隠してするものだったそうだ。地域によっては今でもそういった伝統を守って顔を見せることなく踊り回るらしい。この街と同じように。

「お腹すいたね」

 僕と同じように人の群れを眺めていたサキちゃんがぽつりと言った。やぐらから少し離れれば屋台がいくつも出ている。とにかく腹ごしらえだと、僕たちは踊る人々に背を向けた。

「やっぱりお好み焼きだよね」

「僕は焼きそばが好きだなあ。たこ焼きもいいけど」

「ソースものばかりじゃない。あ、から揚げも食べないとね。あとクレープと、リンゴ飴にかき氷」

「サキちゃんは甘いものばかりじゃない」

 すべて奢ってくれるという言葉は本当だったらしく、あれもこれもおいしそうだと二人で話したものは躊躇わずに購入していた。僕たちの腕はあっという間にいっぱいになる。こんなに買ってどうするのだろう。呆れた顔で食べきれないよと言えば、お土産にしなさいと笑った。

 たくさんの荷物を抱えて、踊りが見えるところで適当に腰掛ける。サキちゃんはおいしそうにから揚げを口に運んでいるし、僕は焼きそばを食べ終えるまでは動きたくない。踊りに加わるのはまだ先になるだろう。円はいつの間にか大きく

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なっていて、浴衣からラフな格好の人まで好き勝手に踊っている。僕たちのように少し離れた場所でその様子を見ている人もいるけれど、見ているうちに踊りたくなってくるのか、一人二人と円に加わっていく。

 赤い光がきらきらと降り注いで、色とりどりの浴衣からお面から照らし出されていく。皆が一心に同じ動きをしているというのは滑稽なような壮大なような、よくわからないけれど圧倒されるというのだけは間違いない。その誰も顔が分からないのだから、余計に何か異様な雰囲気が感じられる。

「きれいだね」

「……うん」

 ちょっと怖い、とは口に出さず頷いた。

 少しすると、サキちゃんは飲み物を買いに行ってくると荷物を僕に預けた。そういえばいろいろと買ったけれどほとんどが食べ物で、喉の渇きを潤すようなものはなかった。隣を見ればお好み焼きのパックが空になっている。食べているうちに喉が渇いたんだろうなとつい苦笑した。

 どんどんぱんぱん。太鼓と歌と手拍子の音が耳に響く。話し声は内緒ごとをするように囁くような小ささで交わされているようで、言葉がきちんと僕にまで届くことはない。奇抜なお面と聞き取れない声に、なんだかあそこで踊っている人たちは僕とは違う生物のように感じてしまう。

 人ごみがゆるゆると動いていく。紺に白に赤に、様々な色模様の服が視界を埋め尽くしていく。ふっと、その中に見覚えのある背格好を見た気がした。

「リクくんだ」

 そんなわけないじゃないかと自分でも思う。昼にサキちゃんに言ったばかりだ。リクくんは死んでしまって、もうどこにもいないんだ。けれど人ごみの中、まわりと同じようにお面をかぶって踊る少年を、僕が見間違えるはずがない。腕を上げて、下げて。一歩進んだと思ったら下がって。なめらかに踊っている姿は僕の記憶の中の彼とは少しだけ印象が異なる。けれど、何年も一緒にいた従兄弟であり親友なんだ、あれは絶対に、間違いなく、リクくんだ。

 踊りながら、リクくんが人の影に入ろうとする。僕の位置からだとこのままでは見えなくなってしまいそうで、思わず立ち上がった。そのまますっと消えてしまいそうだと思った。また僕は彼をなくしてしまうんだろうか。そう思うと耐えられなくて、ここからでは届かないくせに思いきり手を伸ばす。

「コウくん」

 走り出そうとしたはずだ。リクくんのもとへとすぐにでも駆け寄ろうとしたのに、足は前へ進まない。強い力で腕を引っ張っているのが誰なのかは、僕の名前を呼んだ声でわかった。サキちゃん。ほとんど呼吸のついでに吐き出した彼女の名前に、腕を引く力が強くなる。目はリクくんから離さない。少しでも目を逸らしたらその瞬間どこかへ行ってしまう気がした。

「サキちゃん、離してよ」

「だめだよコウくん」

「なんで」

「リクくんは死んじゃったんでしょう」

 知っているよと思った。それと同時に、そうだったなと何か新鮮な感動もあった。そうなんだ、リクくんは死んでしまったんだ。もういないんだ。

 目をきゅっと閉じて、また開いた。さっきまでリクくんらしき人がいたところにはもう誰もいなくて、円は変わらずく

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るくると曲に合わせて回り続ける。何をしているんだろう。なんだか力が抜けてしまって、僕は笑った。

「コウくん、昼間の場所へ行こうよ」

 腕を握ったままのサキちゃんがぼそりと言った。振り返ればもう荷物をまとめ始めていて、返事をしていないのにと少しむっとする。ビニール袋いっぱいの食べ物。渡されたのを受け取れば、それはもう行くと返事をしているようなものだ。

 賑やかな喧噪に背を向けて、サキちゃんの家の方へと歩く。人通りは少ない。祭りが明るかったからか妙に暗い気がするし、太鼓の音も遠ざかってぽっかりと何かが抜け落ちていくようだ。僕たちは無言で歩いた。虫の声と下駄の音が沈黙を繋いでいるけれど、べつに気まずくはなかった。頭の中ではさっきの少年の浴衣姿が何度も再生されていた。

 山を登り、サキちゃんの家の横を通り過ぎ、昼間同様僕が先導して川を目指す。暗いからと不安もあったけれど意外と道を覚えているものだ。迷うことなく草をかき分けて、小さな空地へ出る。

「やっぱり、綺麗だね」

 頭上にあいた穴には空が広がり、星がいっぱいに散らばっているのが見える。僕たちは昼間と同じ所へ座った。さあさあと木々のざわめく音と川のせせらぎが気持ちいい。遠くの提灯の灯りが少し入り込んでくる以外は人の気配はなく、別世界にでもいるようだと思った。

 サキちゃんは何も言わずにまた何か食べ始めた。僕もそれに従う。たこ焼きは冷めてしまっていたけれど、祭りで食べるのとはまた違った気分だ。おいしい。

「盆踊りってね」

 そのままどれくらい経っただろう、唐突にサキちゃんが口を開いた。

「顔を出しちゃいけないって言われてるでしょう。お面とか手拭いで隠すの、なんでか知ってる?」

「知らない。昔から決まってるんだよね」

「そう。盆踊りのときには誰が誰だかわからないようにしなくちゃいけない。盆踊りではね、コウくん。お盆にあの世から帰ってきた霊が一緒に踊ってるの。顔を隠して、同じように顔を隠している生きた人間に混ざって、一緒に踊ってるの」

 冗談を言っているような口調ではなかった。横を見れば、サキちゃんは遠くの灯りの方をじっと見つめている。

「じゃあ、あれはやっぱりリクくんだったの」

「わからない。そうかもしれないしそうじゃないかもしれないね。顔が見れないから確信が持てないでしょ? それでいいの。たとえ知っている人を見つけたとしても声をかけてはいけないのよ」

 決してね。静かな声でそう言って、また沈黙が落ちた。

 あれがリクくんだとするなら、お盆にあの世から遊びに来ているということなのか。でも僕はリクくんに話しかけてはいけない。絶対にリクくんだと分かっているのに、彼は死んでしまった人で僕はまだ生きているから。送り火の帰りに、振り返ってはいけないと母に言われたことを思い出した。振り返ってしまうと、あの世に帰ろうとした祖先の霊が名残惜しくなってしまうからだそうだ。ならば、リクくんも僕と話したら、名残惜しくなってここに残ろうと思うのだろうか。また、もしかしたら一緒にいられるのだろうか。

「私も、盆踊りのときに幽霊を見たことがあるの」

 サキちゃんは、またぼつりと話しだした。

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「すごく大切な子で、守ってあげられなかったことをずっと後悔してた。あの人に合わせる顔もなくて、一人で祭りに来てたの。今でもどうしてか不思議に思うわ。声をかけたかったし引き留めたかったのに、できなかった。間違いなくあの子だったのに。私、また会えるんじゃないかって思って、毎年ここに帰ってきてるの」

 誰のことなのかはわからないけれど、その人のことを大事に思っているのだけはよく伝わってきた。また会いたくても会えないんだろう。それでも諦められなくて、毎年毎年ここに来るんだ。

「もし、また会えたらどうするつもり」

「……さあ。今度こそ引き留めちゃうかも。わからないわ。でもね、もう会えないんだろうなって気がしてる。あのとき会えたのも私があんまり落ち込んでいたからで、本当は会っちゃいけないものなんだ、きっと。だから多分、もう会えないんじゃないかな。私、生きてるもの」

 サキちゃんの目は穏やかだった。僕は、彼女のことをかわいそうだなと思っていた。死んだ人から解放されないんだ。その人はきっとサキちゃんを楽にしてあげたいのに、サキちゃんのほうはどうしても切り離せないんだ。かわいそう。かわいそうだ。

 じゃあ、僕は?

 頭の中でリクくんの頭がゆらゆらと揺れて、ぱちんと割れていった。

「帰ろうか」

「うん」

 祭りの灯りはもうかなり小さくなっている。もう、あの場所には誰の大切な幽霊もいないんだろう。そう考えるとほっとしたような、苦しいような、複雑な気持ちになった。

 サキちゃんと僕は少しの間手を繋いで歩いた。彼女の手はあたたかくて、鼻の奥がつんとした。ああ、僕はさみしいんだ。リクくん、さみしいんだ。



「ただいま」

「おかえり。遅かったじゃない」

「うん。あ、これお土産」

 出迎えてくれた母さんにかなり余った出店の食べ物たちを手渡して部屋へ向かう。明らかに僕のお小遣いでは買えない量に訝しげな声がかけられるが、今日はもう寝かせてほしいのでまた今度だ。サキちゃんに買ってもらったと言ったらどうなるだろう。明日のことを想像してげんなりした。

 廊下でニラを拾って、扉を開く。お風呂は明日でいいかとベッドへ体を預けた。

 あのまま、何事もなくサキちゃんと別れてきた。いや、何事はあったかもしれない。サキちゃんは、来年はここへ帰ってこないと言っていた。ずっと来ないのと聞いたら、少なくともこの季節には来ないと笑った。きっとそれが彼女の答えなんだろう。その、誰だか会いたい人をもう探すことはないんだ。正解なのかどうかは僕にはよく分からない。

 冷房が音を立てている。去年まではこの部屋に二人で寝ていたのが、やはり他に誰もいないのだと思うと違和感がある。

 リクくんはいない。いない。何度も同じ言葉を思い浮かべる。たとえばあのとき僕があの少年に声をかけていたら、彼はこちらに残っていたのだろうか。今までと同じように夏休みを一緒に遊んで、またここで眠って。それじゃあだめなのか、やっぱり僕にはわからない。けれど、サキちゃんと同じように、僕ももう二度とあの少年に出会うことはないんだ

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ろうなと思う。彼はそれを許してくれないだろう。リクくんは僕の兄のつもりでいたから、道を踏み外すようなことをすすめるはずがない。

 日焼けしたらしい腕がじりじりと痛んだ。人が大人になるまでの段階は多分いろいろあって、僕はまた若干、大人に近づいた気がした。静かで、さみしい。でも僕は生きているし、自由研究も一人で完成させなくてはいけないんだ。

 ニラがにゃあと鳴いた。はやく寝ろと主張しているのだろう。藁って、タオルケットを被る。顔が誰にも見られないように。

 祭りが終わった。夏休みも、もうすぐ終わる。

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