侯爵領にさようなら
「おや、侯爵家の・・・」
「隣街に届け物がございましてね。」
「こんなお祭りの日でもお仕事とは、執事さんも大変ですね。」
「いやいや、門番の皆様もご苦労様でございます。」
カーテンを閉め切れられた馬車の中、アナスタシアは音を頼りに外の様子を伺った。お祭りの音が徐々に遠のいて行き、馬車が止まると、執事から音を出さないように忠告を受けた。執事に忠告をされるまでもなく、アナスタシアには大声を出そうという考えはなかった。
(やっと門に着いたのね…この馬車、お尻が痛いから早く降りたいなぁ)
執事が戻ると、再び馬車がゆっくりと動き始めた。
屋敷から数時間ほど経っただろうか、アナスタシアがうとうとし始めたとき、再び馬車が止まった。
そしてまた執事が先に降り、人目がないことを確認してからアナスタシアに降りるよう告げた。
(やっと降りられる…)
馬車を降りると、左右が木々で覆われていた。どうやらここは森の中のようだ。
侯爵領内の孤児院の前に捨てられていたアナスタシアにとってこれが初めての森、そして領地の外に出た瞬間だった。が、目の前に広がる光景に特に感動することもなく、手を上に上げ腰を回し、馬車で痛めた体を伸ばし始めた。
1年という短い期間でも父親であった侯爵から罵声を浴びせられ、屋敷や生まれ育った領地からも追放を言い渡されたにもかかわらずケロッとした様子の彼女を見て、執事は5歳児だから理解できていないのかも知れないと思い、馬車の中で話した内容を復唱した。
「…ゴホンッ。いいですか、アナスタシア。先ほど伝えた通り、この者が森の中にある小屋まで案内します。小屋から南の領地が侯爵領、北の領地は隣のヘルストラム辺境伯のものとなっております。
旦那様からは領地からの追放という宣告でしたが、貴女はまだ幼いですので、せめてその小屋で生活することは目を瞑りましょう。分かりましたか?」
「はい。」
「…小屋から北へ行くことは自由ですが、南に来ること、侯爵領へ戻ることは禁止です。」
「はい、ここへは二度と戻って来ません。」
「戻って来ようとしたら」
「孤児院の先生やみんなに酷いことをする、ですよね?誰かと会っても侯爵家の名前は決して口にはしません。」
「…分かっているなら結構です。では…」
執事がチラリと馬車の後ろに乗っていた男を見ると、男は荷台から降り、アナスタシアを抱き抱え馬に乗せた。
「…執事さん、お世話になりました。さようなら。」
執事に頭を下げる暇もなく、男は無言で馬を走らせ始めた。
アナスタシアにとってこれが始めての乗馬だったが、怖いという気持ちよりも暖かい陽気の中、森の中を颯爽と走るのはとても気持ちが良かった。
進んで行くほどに手付かずの森の中は光を遮り暗くなっていった。
(う〜ん、馬車よりは風が当たって気持ちいけど、でもやっぱりお尻が痛い…)
「ねえ、えっと、庭師のおじさんだよね?」
「…舌を噛むぞ。もう少しで着く。」
男の言葉通り、それから数分した後に小屋らしきものが見えてきた。男は小屋の前に馬を繋ぎ、アナスタシアを降ろした。
「ありがとう。」
「…すまねぇ。侯爵様の命令を逆らうわけにはいかねぇんだ。こんな小さな子供を置き去りにするなんて、どうか俺を恨まないでくれ。」
男の懺悔の言葉をキョトンとした顔でアナスタシアは聞いていた。
「ここはモンスターが溢れてる。お前さんなんて一飲みで食べられちまうさ。せめてもの詫びだ、これをやろう。」
男が腰に付けていた短剣をアナスタシアに渡すと、アナスタシアは鞘から剣を抜き取り、長い髪を1つにまとめ刃をあてた。綺麗な長い髪の少女があっという間におかっぱ頭に変わった。
「剣のお礼にこれをあげる。手ぶらでは帰りづらいよね?」
「…達者でな。」
男は髪を受け取りすぐに馬に乗ってその場を離れた。
男はアナスタシアが庭師である自分が剣を持って来ていた意図を読み取ったかのような行動が不気味でならなかった。短剣は執事からアナスタシアが二度と侯爵領へ戻ってこないよう、痛めつけるために渡されたものだった。棒ではなく剣であることから、それは殺してしまっても良いということを意図していたが、庭師にとって幼い少女を刺すことには抵抗があり、アナスタシアの起点によって少女を傷つけず、かつ執事の命令にも背かずに済んだのだった。
(あの子は見た目は何も考えてなさそうだが、なんとも賢い子だ…侯爵様に目をつけられなければきっと器量の良い子に育っただろうに…)
男がアナスタシアを思い心を痛めている中、当の本人が考えていたのは
(森で暮らすのにあんなに髪が長かったら邪魔だもんね。孤児院でも髪を売っている人がいたし、髪と短剣が交換できて良かった!)
だった。
こうして新しいアナスタシアの生活が始まったのだった。