「結末」「迷」「庭」
2018/12/19
一人ひとりの人生は、その人の物語だ、とよく言われる。
食事をし、寝て遊んで、友達とお喋りをし、恋人とケンカをして、世界を旅し、ときに大きな壁にぶち当たる。
しかし、その結末は、等しく「死」なのである。
物語の結末が、みんな一緒なんて、そんなつまらないことがあるだろうか。
私は久しぶりの外の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。お日様の暖かい光がほんのりと頬を優しく照らす。車椅子の車輪をゆっくり回しながら、病院の庭を散歩する。
となりを歩く彼が、「押そうか?」と訊いてきた。しかし私は「大丈夫」と答える。本当は少し辛かったけれど、自分の思う速さで進みたかった。
きっと、こうして太陽の下に出られる機会は、もう無いのだろう。そう思っても、不思議と寂しくも悲しくも怖くもなかった。穏やかな気持ちが心を覆っている。ここのところ、自分から他の感情が消えてしまったのだろうか、というほど、気分が落ち着いていた。
余命一年、と告げられたとき、私はもちろん驚いたし、落ち込んで彼に泣きついたりもした。けれども、どこかで冷静な自分が常にいた気もする。「ああ、自分にもついにこの時が来たんだな」と。自分の行動を、空の上からぼんやり見ているような自分がいるようだった。そのせいか、余命宣告から十日もすると、私は残りの時間を有意義に使うための計画を完成させていたのだった。
そんな私と反対に、彼は必死で私の病を治す方法を調べまわり、何度も「死んでほしくない」と言ってきた。「どうしても君に生きて欲しい」、「君がいなければやっていけない」なんて。私は困惑、とか、やるせない、とかより、取り乱している彼が何だか少し面白いと思ってしまったのだった。冷静で物静かなはずの彼の知らない一面を見られて、嬉しくもあった。
私は早々に諦めて、死を受け入れたが、彼はあさましいほどに私の生を望み、ついに私の病を治せるという医師がいる病院を見つけ、そこに私を入院させたのだった。私は彼の言うがままに手術を受け、苦い薬を飲んだ。しかし私の病はそう簡単なものではなかった。
余命を宣告されるくらいだ。元から治る見込みなど無いのである。いくら努力しようと、進行を少しばかり遅めるくらいのことしかできないのだ。
私は心残りなことをできる限り消化していった。
フレンチを食べるとか、そんな簡単なことから、スカイダイビングまで。
やりたいことをすべてやりきると、私はもう満足であった。いつ死んだって構わない、という万全の姿勢。
しかし彼は、まだ未練があるようだった。もう何をやっても無駄なのに、医師に「どうか、できることがあるなら、すべてやってください。お金はいくらでも出します」などと懇願していた。初めの頃とは逆に、彼のほうが「死なないでくれ」と泣きつくようになった。私は、自分の心持ちと彼の気持ちとのギャップに胸を痛めた。
余命を宣告されて、今日でちょうど一年になる。
死の気配など全く感じなかった。当然、ぴったり一年後に死ぬはずもないので、もう少しくらいはこの世にいるだろう。手術のおかげで、なんとなく、あと三ヶ月くらいは生きていそうな気さえする。
彼はそわそわしていた。私が突然呻き苦しみ始めないかヒヤヒヤしているようだ。
藤棚の下で一旦足を止める。彼はベンチに腰を下ろし、しばらく葉だけの藤を見ていた。
「なあ」
彼が口を開いた。
「なに?」
「おれ、ずっと君が死なない方法を探していたじゃないか」
「うん」
彼の瞳は、穏やかな海のようだった。
「それが何だか、間違っていたような気がするんだ」
私は眉をひそめた。
「どうして?」
「おれは、君が死ぬのがすごく嫌なんだ。今も怖くてたまらない」
私は静かに頷いた。
「でもさ、死ぬことって、実はそんなに不幸なことではないのかなって思ったんだ」
彼はまっすぐ私の目を見た。
「君は死を全く怖がっていない。それって、今のまま死ねたら幸せだから、なのかな?」
私は少し息をのみ、目を伏せた。
「……わからない。でも、そうかもしれない」
「だったら……おれはもう、余計なことはしないほうがいいんだろうか」
「余計なんかじゃないわ。むしろ、嬉しいよ」
「それなら良かった。……でも、もう打つ手が無いんだ。だからさ、おれ、決めたんだ」
「何を……?」
彼はふにゃりと力無く微笑んだ。
「もう、何もしないって。君の死を、安らかに、幸せに見届けようって」
私はしばらく言葉を失っていた。彼の弱々しい笑顔の中に、誰にも曲げられない決意が確かに宿っていた。
「そう……なの。それは……それは良かった」
私は、なぜか、淡々とした返事しかできなかった。
「では、おやすみなさい」
看護師が部屋を出ていき、私は病室に一人。まもなくして、部屋の灯りがオレンジ灯だけになった。
いろいろなことが頭を巡る。彼と行ったあの場所の風景。彼の無邪気な笑顔。繋いだ手の暖かい感触。走馬灯かと思って慌てて目を開ける。
「おれ、決めたんだ」
彼の言葉が繰り返される。その言葉を聞いて動揺してしまった。ここ半年で初めてのことだった。
悩み、迷い、苦しむ彼を笑っていた。そうすることで、実は心の奥底で、自分も悩み苦しんでいることを否定していたのかもしれない。今さらになって私は気づく。
一番、生を望んでいたのは、私のほうだったのだ。