I’m tired
とにかく疲れていた。
連日の苛酷勤務、家族の所用、神経が高ぶり夜眠れない。
連鎖反応のように私は疲弊する方へ向かって行った。
そして、身体は鉛のような重さになり、次にしなければいけない行動を考えることを鈍くする。
声を発するのさえ億劫になり、もう私の眼光で何もかもを察しろよ、と理不尽なことで怒りを覚えた。
怒りを覚える内はまだ余力があったんだ、と次の日に思い知る。
布団から起き上がろうとしても頭が重過ぎて無理だった。
尿意があるのに焦れない。
焦ることが当たり前なのに焦ることができず、私はそのことに何とも思わず、虫のように布団の中で蠢き、うぅぅぅ……と唸る。
仕事が待ってる。
家のこともしなければ。
誰も私の代わりをしてくれない。
こんなことで休むわけにはいかない。
思い出すのは風邪をひいているはずの母親がマスクの下で咳き込みながら、いつも通り台所に立つ背中だった。
それが当たり前だと眺めて手伝いもしなかった私や父は悪魔だった。
もうだめだと思っていても重い身体を引きずって私はいつも通りの家事をし、仕事へ出かけた。
なんの感情も湧かなくなり毎日がただ過ぎてゆく。
やがて身体の疲れも麻痺したように何も感じなくなった。
「あなたはまだ若いから」
「昔はこんなもんじゃなかった」
「今の人は恵まれてる」
そういう言葉を聞くと頭の中がハウリングを起こし心臓が針を刺されたように痛くなる。
何かを考えようとしても、言おうとしても言語化できず、そのことに悔しいとかもどかしいとかのつっかえもなく、顔が勝手にニヤニヤと他人に媚びる表情をつくった。
これが大人になるってことなのか。
これをみんなこなしているのか。
これが人の営みなのか。
車を運転している時だけ気持ちが落ち着いて深く呼吸ができるようだった。
一人だけの空間、というのがいいのかもしれない。
できるだけ遠回りして帰るようにしている。
流れる景色が夜なら尚良い。
適度に田舎なこの街並みは目が疲れない。
意欲がわかない。
だからお金の減りがいつも以上に早い。
少しでも楽しようとしたらやはり金銭に頼ってしまう。
お金がないと仕事も不用意に休めない。
悪循環の渦中にいる事は分かっているのにどうしようもない。
ただできることは少しでも眠ることだけだった。
そんなある日、料理をしている時、包丁が私を魅了した。
魚の腹わたがまだついたままの安い包丁が照明を反射してとても綺麗に光った。
その光った刃にはきっと鮮血がよく似合う。
こんな死んだ魚のしみったれた血液より、私の動脈から噴き出す真っ赤な血が!!
衝動的な気持ちだった。
ずっと昏睡していた感情が急に目覚めた感覚だった。
家族にちょうど呼ばれなければ、きっと包丁は私の手首を滑っていたに違いない。
興奮していた。
嬉しくもあった。
久しぶりの感覚だった。
水を流しながら私は声を殺し笑っていた。
私はまだ生きていたと思い知ったから。
それから私は血がたくさん流れる映画を貪るように観た。
あの感覚を逃さないために必死だった。
血が飛び散るとドキドキした。
血が大量に流れると陶酔した。
血の赤が私を起こしてくれたのだ。
人が死んでかわいそう、残酷だ、そう思わなければいけない場面で笑うとすっきりした。
誰にも咎められない。
私だけで観て私だけが持つ感情だ。
日常がさらに退屈なものに堕ちていく。
血液以外、何も私の心を動かさない。
ただただ疲弊させられるだけの世界。
生きるために生き続ける意味なき世界。
映画も観慣れてしまえば私をもう起こしてはくれない。
本物の血を欲しがっているわけじゃないから次の段階はない。
それとも本物の血を欲しがったほうがよかったの?
毎日毎日毎日毎日ただただ景色が流れてゆくだけ。
車の中も静かなだけで落ち着くことも忘れてゆく。
ぼーっとしていると周りのハウリングが私を砕こうとする。
疲れを取りたいだけ。
悩みなんて大層なこと持ってない。
お金がもっとあれば、協力してくれる誰かがいれば、全て捨てて一人自由になることができれば。
大空を飛ぶ鳥を見上げる。
ただ生きるために生き続けるだけ。
喜怒哀楽があったってしんどいだけ。
その場しのぎのにすぎない。
みんなそうやって生きてるんでしょう?
昔の人はもっと大変だったんでしょう?
私は恵まれてるんでしょう?
ありがとう。
ありがとうございます。
若くて恵まれていてよかったです。
今夜はやけに対向車のライトがまぶしいし、近い………ような………
……嗚呼……もっともっと遠回りして帰りたいな。