天狗様、渇望す(9)
午後は、暑かった。日差しもさることながら地面からの照り返しもあって、天気予報で聞いた以上の気温と湿度が私たちを蝕んでいたように思う。
椅子に座って観戦しているだけでも、じっとり汗ばんで、暑さを耐え忍ぶのに忍耐力を使う。ましてや、この炎天下で立ちっぱなしで神経を使っている人たちは、どれほどの体力を消耗しているだろうか――
「藍、いる?」
「はい。スウェーデンリレーですよね」
「うん……今の、応援合戦が終わったら移動して」
「はい」
「あと……田中くんと、弘中さんと……それから……」
午後の部が始まってから見た太郎さんは、何も変わらなかった。仕事を淡々とこなす、いつもの様子。昼休みに感じた違和感など、一かけらも見えなかった。
やっぱり、気のせいだったんだろうか?
「どうした、藍?」
「あ、治朗くん。いや、なんか……太郎さん、大丈夫かなって……」
「兄者が?」
治朗くんは、テキパキ指示を出す太郎さんを一瞥して、首をかしげた。
「いつもと同じように思うが……?」
「う、う~ん。そうなんだけど……」
太郎さん大好きな治朗くんが言うんだから、そうなのかな?
しいて言えば、いつもよりちょっと血色がいいというか、良すぎるというか……。
「スウェーデンリレーの人は集まってくださーい」
「ほら、呼ばれているぞ。兄者のことは俺が見ているから行ってこい」
「う、うん」
最後にもう一度、ちらっとだけ太郎さんの方を見てみた。顔……赤くないかな?
暑い。そして熱い。
容赦なく降り注ぐ日差しに、骨までこんがり焼かれている気分だ。
だが休憩する暇はない。まだ午後の競技が始まったばかりなのだ。太郎にはまだ、選手の先導や、各競技の準備の指示出しの役目がある。
立っているだけで息切れする中、太郎はスケジュール一覧をめくった。だが、うまくめくれない。
「あれ…………?」
おかしい。3枚綴りのプリントの端がつかめない。輪郭がぼやける。指が、プリントをすり抜ける。
「おかしいな……」
周囲の人間たちは自分のことで精一杯のようで、太郎の様子に気がつかない。
手が震える。頭がぐらぐらする。重石を載せられたように重い。
自分で、自分の体が支えられない……!
膝ががくんと折れそうになった次の瞬間、太郎の体は誰かに支えられていた。
「…………?」
「情けないな、太郎。自分の限界を計りかねるとは」
僧正坊だった。
にわかに驚いたが、太郎はすぐにこれは好機だと考えた。
「僧正坊、お願いがある。僕に気を……」
「断る」
にべもない……。
ちなみに太郎は、他人から気を分けてもらう術を持つが、藍以外の気はあまり欲しがらない。太郎が自分から藍以外の者に気を分けてほしいとせがむのは、よほどの事態と言える。
にもかかわらず、僧正坊は冷たかった……。
「見てわかるでしょ。僕、暑さで弱ってるんだよ。僧正坊は何も競技出ないんだからちょっとぐらいカンパしてよ」
「したって『不味い』と言うんだろう。気を奪われた挙げ句嫌そうな顔をされるなどまっぴらだ」
「そんなこと言ったって……僕本当に倒れるよ……」
「倒れていいじゃないか」
「は?」
虚ろな表情しか浮かべられない太郎から、僧正坊はスケジュールの書かれたプリントをするりと奪い取り……
「おい、そこの! そこの狐娘!」
同じく先導係だった瑠璃を呼びつけた。一応、瑠璃も忙しいのだが、太郎もそばにいる手前、渋々といった様子でそろそろと寄ってきた。
「な、何ですか……」
「太郎はリタイアだ。あとはお前が引き継ぎなさい」
「へ!?」
端的に述べて、驚く瑠璃にプリントを押し付けた。
「僧正坊、ちょっとそれは……」
太郎が弱々しい声で止めようとするが、僧正坊の口は止まらない。
「いつもベッタリ張り付いていたんだ。太郎の仕事内容ぐらい、わかるな?」
「え? え?? ていうか太郎坊さんはどうしたんですか?」
「熱中症だ」
「え!? て、天狗なのに?」
瑠璃の驚きの声に僧正坊が顔をしかめたが、声を潜めて疑問に応えてやった。
「太郎の体は今、人間よりもひ弱だからね。気で体を強化する術もあるにはあるが、今日はそれをする余裕もなかったのだろう。まったく手のかかる……」
「そんなに言わなくても……」
「狐娘、そういうわけだ。太郎はしばらく休ませる。いなくなっても大騒ぎにならぬよう手は施すが、空いた穴を埋めるのはお前に任せた」
「な、何で私なんですか?」
「たいした意味などないよ。単に声をかけやすかった。それぐらいだ」
「そうですか……まぁ、はい、わかりました」
瑠璃は、少しだけ頬を緩ませて、しかしすぐに引き締めて、プリントを受け取った。
「……頼んだよ」
「は、はい……!」
太郎は不安そうだったが、それでも瑠璃を見て、頭を下げた。瑠璃はそれよりさらに深く、力強く、頭を下げた。
「しかし、どうしてまたここまで無理をした? 君らしくもない」
「だって、藍が頑張ってるから……」
「は?」
「藍が頑張ってるから……僕も何か頑張らなきゃ」
「……理解に苦しむね」
僧正坊はため息混じりに言うが、太郎はそれに構わず、重なるように続けた。
「それに……藍は、たぶん追いかけるよりも、こうやって仕事をテキパキこなしてる姿を見せる方が効果ありそうだから……僕を見る目が変わるといいなぁって……!」
「太郎…………心配を、返してくれ」
「心配しなくても、教室の入り口で泣き叫んでいる姿を見せている時点でプラスマイナスは0に戻っているよ」
……と、僧正坊は口にしかけたが……さすがに、言わずに呑み込んだ。




