天狗様、集う(1)
――これは、夢だ
誰かが、泣いている。
――いいえ、夢ではありません。現の出来事にございます。
誰かが、悲し気にそう答える。
――いや、夢だ。貴女が死んでしまうなど、夢に違いない……!
顔は見えないけれど、誰かが、男の人が嘆いている。頬を伝う涙を、腕に抱きかかえた女性がそっと拭う。
真っ暗な世界に二人だけ。他に誰もいない。二人しかいないのだ。
そんな世界で、男の人は今、一人ぼっちになろうとしている。
少しでも寄り添おうとするように、女の人は、男の人の手を握った。
――悲しまないで。私は必ず、貴方のもとに戻ってきます。だから待っていてください。遠い輪廻の果てに、必ず貴方を、見つけ出しますから
――必ずだ。俺も必ず、貴女を……!!
男の人の手を握る白い手に一層力が籠る。そして、その手からふわりと力が抜けていく。
男の人は、悟った。
自分がこれからの永遠にも近い時の中に、置き去りにされてしまったのだと。
――必ず……必ず見つけ出すぞ。藍……!
男の人は、冷たくなった手を、いつまでも握っていた。握りしめながら、言った。
――だから、起きるんだ、藍……!
「!」
がばっと起き上がると、そこはいつもの私の部屋だった。
さっきまで聞こえていた悲しい声は、今はもう聞こえない。きょろきょろ見回すと、時計が視界に入った。
7時30分――
「7時30分!!?」
いつも起きる時間よりだいぶ遅い!
完全に朝ごはんに遅刻だ。いや、二人は待っていてくれるんだろうけど……それも申し訳ないし、ご飯は冷めちゃうし、後で治朗くんにめちゃくちゃ怒られるし……。
そういえば治朗くんはどうしたんだろう?
いつもならちょっとでも遅れたら家じゅうに怒声が鳴り響くのに、今日はこんな時間まで起こされなかった。
こんな時間まで安眠できてしまった謎についてあれこれ考えながら、手早くパジャマを脱いで普段着を掴み取る。
その時、気付いた。姿見に映る私――と、その背後に映る人影。
振り返ると、やはり居た。幻じゃない。だって、目が合ったとたんひらひらと手を振ってくるもの。あの、髪ぼさぼさの猫背の男が――!!
「やあ、おはよう」
「……で」
彼にしては比較的陽気な挨拶に、私はぷるぷると身を震わせて……
「出てけ~~~~っっ!!!!!」
「……ぐすっ……ぐす……」
「兄者、大丈夫ですか? まだ痛みますか?」
「まあ、こぶになってないかしら。氷取り替えるわね」
「ぐすっ……ありがとう、母君、治朗」
「……」
お母さんと治朗くんがあれこれ太郎さんを気にかけている間、私は一人、朝ごはんを頬張っていた。
「こら藍! 一人だけ食うな!」
「そうよ、藍ちゃんが怪我させたんでしょ」
「その前に! 私、その人に、着替え見られたんですけど! 勝手に部屋に入ってる時点でアウトでしょ!」
「だからって、2階の窓から投げ飛ばさなくてもいいでしょう」
ため息交じりに言う我が母。
パジャマを脱ぎ切った段階で太郎さんと目が合い、頭に血が上った私は、咄嗟に背負い投げをかました。それだけなら何もないんだけど、この太郎さんと言う人が意外と軽くて、つい勢いに乗って、気が付いたら窓から吹っ飛んでしまっていたのだ。幸い、庭にあった木の枝に引っ掛かって、2階の高さから真っ逆さまに落ちることはなかったのだけど……その後の方が大変だった。
庭に面した居間で食卓に着いていた治朗くんが真っ先に飛んできて、2階まで響く声で怒られたり、お母さんが慌てて救急箱を取りに行って裁縫箱をとって来たり、太郎さんがぐすぐす泣き出したり……。
「窓から飛び出たのは不可抗力だってば」
この母親が、どうして太郎さんにこうも甘くなるのかよくわからない。私がお腹にいる間に会いに来た時には毅然と言い返していたらしいのに、どのタイミングでこんな風になったんだろう?
「いい加減覚えろ。兄者はな、今人間以下の身体能力なんだ」
「……すみませんねぇ……治朗くんがよく素晴らしい人だなんだって自慢してたからもっと丈夫なのかと思ってたもんで……!」
もっとわからないのがこの幼なじみだ。小さい頃からよく見ていたけど、質実剛健とかクールとか清廉潔白とかが服を着て歩いているような人だったはず。以前そのことについて話したら、天狗の威厳を損なわない振舞いが必要だからだ、と応えていた。
それがどうだ。この太郎さん=兄者が来た途端、ダメ男に尽くすOLみたいにあれこれ世話を焼く(世のOLさん、失礼な言い方でごめんなさい)。やることなすこと全部肯定だし、怒られるのはいつも私だし、すぐ謝るし……。
「おかしいでしょ治朗くん! 天狗の威厳が云々言ってたのに、この人のやることは容認? さっきだって部屋まで入って何してたんだっけ?」
「君の寝顔を見ていたけど?」
「これが天狗の威厳を示してるの? 思いっきり損なうじゃない!」
「恋のあまり少しばかり逸れることもあろう! お前にはそんな経験はないのか!」
「~~~っ!!」
この人本当に忘れてる……! つい数日前にあなたに告白して振られましたけど?
……とはさすがに言えないから歯噛みしていたら、目の前で太郎さんがチョップをかました。
「治朗、言いすぎだよ」
「はっ、申し訳ありません」
「いや、僕にじゃなくて」
「……よくわからんが、すまん」
よくわからんときたか……
「あの、治朗の事、許してくれる?」
「……まぁ、はい……」
「良かった」
ふわりと笑う顔は、出会った時と違って少し穏やかでさわやかな印象だった。
だが……
「あなたが不法侵入のうえ着替えを覗いたことはまだ謝罪頂いてませんが?」
「そうだっけ、ごめんね」
そっちの謝り方がラフすぎて、なんだか釈然としない……。
モヤモヤする私に、太郎さんはでも、と前措いて、ニタリと笑った。
「僕嬉しかったんだ。君の無防備な寝顔が見られて……」
「ひっ……!」
思わず言い合いのことも忘れて治朗くんの背後に隠れる。だけど治朗くんは、背後の私に向かって、嬉しそうに笑いかけた。
「藍、明日以降も寝坊するんだぞ」
「……絶っっっっっっ対、早起きしてやる……!!」