天狗様と姫(8)
すべてが剥がれ落ちた後には、あの真っ暗な空間の影は何も残っていない。その代わりに、見慣れた我が家の風景が、眼前に広がった。
庭に面した障子から日が差し込んでいる客間に、さっきまで顔を合わせていた人たち。
心配そうに私を見る家族、驚きと安堵を交えた表情の天狗様たちが、そこには居た。
「藍ちゃん……!」
布団の上には、半分身を起こしたお母さん。私へ向けて、精一杯手を伸ばしている。私はそんなお母さんに、思わず抱きついた。
「うん、お母さん……藍だよ。ちゃんと、帰ってきたよ」
「ええ、ええ……良かった。本当に、良かった」
「お母さんも……!」
さっき言えなかった喜びの言葉を、今やっと、思い切り言えた。
そんな私たちを、天狗様たちは黙って微笑んで見つめていた。
やがて、法起坊さんが静かに太郎さんに声をかけていた。
「太郎坊」
「親父さん、無事、連れ帰りました」
「うむ。万事、方が付いたか?」
「……まぁ、あとは鞍馬山に任せていいんじゃないでしょうか?」
そう言って太郎さんは僧正坊さんに視線を移した。他の天狗様たちも一様に、僧正坊さんの今の《・・》御面相に目を留めた。私に散々ボコられて、見る影もないお顔になっている様を……。中で何があったか、想像がつくような、想像したくもないような……そんなところだろう。セイさんなんかは僧正坊さんと私を見比べていた。
私に化け物を見るような目を向けるセイさんを見て、太郎さんははっとして全員に呼びかけた。
「みんな、僧正坊は自業自得だけど、僕らも気を付けた方がいい」
太郎さんのその一言に、全員が首を傾げた。
「どういう意味だ、太郎?」
「僕らは藍と母君のご厚意に甘えすぎていた。あまりここで酒盛りしたり軽はずみに手合わせを申し出ない方がいい。迷惑になってるから。僧正坊は僕らが溜めたそういった不満も全部、受けてくれたんだよ。その点だけは、合掌しとこう」
その言葉に、天狗様たちは治朗くん以外が身震いし、僧正坊さんへ向けて合掌した。そのパンパンに膨らんだ顔を見て、明日は我が身と思ったらしい。
それはそれで腹立つけど……見直してくれるならばまぁいいか。
複雑な面持ちで天狗様たちを見る私のもとに、治朗くんが寄ってきた。
「今日ぐらいは勘弁してやってくれ。明日以降は、俺と兄者で言い聞かせる」
「まぁ……皆さんもお母さんのために一応頑張ってくれたしね」
私一人だったら、きっと右往左往するだけで、お母さんを死なせていた。夢に入ることすらできずに、終わっていた。仮に僧正坊さんが怪しいとわかっても、逃げられて終わりだっただろう。
結界に引きずり込まれた後も……いやそもそも最初から、太郎さんがすべて気付いて、裏で手を尽くしてくれたから、何とかなった。
太郎さんがいなければ、今ごろは……。
そう思った時、私は自分の思いが定まったのを感じた。そして、太郎さんの前へ歩み出た。
「太郎さん」
「! な、なに……?」
「なんでビクビクするんですか」
「いや、な、何かあるのかなって……」
「太郎、何したんだよ? もしかしてチューしちゃったとか……」
囃し立てようとするセイさんを、私は静かに微笑みながら諭した。
「セイさん、お静かにお願いします」
「ひっ……す、すみません!」
なんだか急に神妙になったけどちょうどいいや。私は太郎さんに向き直った。
「太郎さん、お願いがあります」
「ご、ごめんね、藍! やっぱり嫌だったよね。拭っちゃっていいから……ほら、今、ティッシュしか持ってないけどよければこれで拭いて……!!」
何言ってんだ、この人は今さら……
私は無視して太郎さんに近づいて、頭を下げた。
「太郎さん、私にこの力の使い方を教えてください」
「ご、ごめんなさい! 何でもします…………って、え? お、教えるって……何を?」
「例えば結界の張り方とか、あやかしを倒すとか……太郎さんが使ってる術とか、色々……」
「それって……でも、昔からやろうとしても結局できなかったんじゃ……」
太郎さんは、少し気づかわし気な声を向けた。私が、そのことを気にしていると思っているんだろう。気にしていないと言えばウソになるけれど、向き不向きはどうしようもないことだし。だけど、不向きでもやらないといけない時は、あるんだ。
「もう、嫌なんです」
「……何が?」
「いつも太郎さんや治朗くん任せにして、何もできないのが。私に少しでも気を操る術があれば、あやかしをどうこうすることができたら、呪術に気が付くことができてたら……今回みたいなことは起こらなかったかもしれない」
太郎さんは、治朗くんと顔を見合わせた。
「藍、今回のことは仕方がない。我々でも、兄者以外は誰一人あの呪いに気付かなかった。兄者だって、お前の言葉がなければ確信を持てなかったと言っていた」
「私の言葉……?」
「正確には、母君の言葉ね。ほら『お茶漬けを僧正坊に』ってやつ」
太郎さんは、お母さんと目を合わせると、互いにニッと笑った。
「母君、京都の迷信信じてるんだもん。帰ってほしい相手にはお茶漬けを食べさせるってさ。鞍馬山は京都だから、それに引っかけたのかなって……」
「へ……あれってそういう意味だったの?」
「あら、藍ちゃん。理解してお茶漬け用意したんじゃないの?」
「てっきり僧正坊さんにだけ依怙贔屓したのかと……」
「あら、やだ。お母さん、あんな優男に興味ないわ。馴れ馴れしい男の人も嫌いよ」
どっちも僧正坊さんだ……。今、同じ部屋にいるんだけど。
「まぁとにかく、今回の件は、君はなにも気にしなくていいってことだよ」
「でも……私、ダダ洩れなんでしょ? みんなそう言ってるじゃないですか」
「っ! だ、だ、誰がそんなことを……」
「太郎さんも言ってるの、聞きました」
「ぐっ……!」
何やら追い詰めている風な空気になっているけど……いや、そうじゃない。私が言おうとしているのはそういうことじゃなくて……。
「だからそのダダ洩れから治したいんですよ。そうすれば、むやみにあやかしに狙われることも減るし、襲われても身を守る方法を覚えられるじゃないですか。このままじゃ一人で外出もできないし」
「外出は……あやかし関係なくどこでもついていきたいけど」
「今そういうのいいです」
「ごめんなさい。でも君が術まで覚えちゃったら僕の出番がなくなっちゃうから、ちょっと困るよ。ピンチを救って見直してもらうっていう計画が……」
「やっぱりそれ狙ってましたか。聞きますけど、危険な目に遭ってほしいんですか、ほしくないんですか、どっちなんですか」
「危険な目に遭ってほしくはないけど、僕の見せ場はほしい」
まっすぐな目をして太郎さんは言った。正直すぎてどこから崩せばいいのかわからなくなりそう……。
これは……正面突破は無理なのかもしれない……。
「だ、大丈夫です。どうせちょっとやそっとの修行で太郎さんを超えることなんてできませんから。太郎さんは、すっごいじゃないですか」
太郎さんの目が、ぴくんと見開かれた。
よし、喰い付いた……!
「す、すごい?」
「すごいですよ。これまで、天狗のみなさんでも滅多に遭わない状況でもさらっとどうにかしちゃってたじゃないですか。法起坊さんも、一番信頼してるみたいだし」
ちらっと法起坊さんの方を見ると、意図が通じたのか、神妙な感じで頷いてくれた。
「ああ。こいつは、他の奴らとは一味も二味も違うからな」
「やっぱりそうなんだ! でなきゃ呪いを受けて死にかけてるのに戻ってくるなんてできないですよ! あの時、感動したもん」
「感動……! ほ、本当!?」
太郎さんの背後で、花火が打ちあがったのが見えた。それともお花畑だろうか。なんにせよ、これで、いける……!
「本当です。あんな人に教えてもらえたら、私、何でもするのになぁ……」
「わかった。そこまで言うなら、僕に着いてきて!」
太郎さんが目をキラキラさせて宣言した。
目論見通りだ……! なんてちょろい……。
「……太郎の奴、お嬢がからむとなんてちょろいんだ……」
「でも藍ちゃんもさ……あの子もあの子で、割と自分で自分の首絞めたことに気付いてなくね?」
「それは言わずにおいてあげましょう」
「ちょろい子弟というわけか……」
「後鬼……なんだか、俺たちの昔を思い出すな」
「どのへんで何を思い出すか、言ってみなよ、あんた」
三郎さん、セイさん、相模さん、豊前さん、そして前鬼さん夫婦がそろって悲しげな眼で私たちを見ていることに、この時はまだ気づいていなかった。
今は、目の前の太郎さんを調子に載せることが最優先だったのだから。
「よろしくお願いします! 師匠! 大先生!」
「ふ、ふふん。僕の授業料は高いよ?」
太郎さんが、天狗のイメージそのもののように鼻高々になって、胸を反り返らせた。よっしゃ、のせられた!! と喜ぶところなんだけど、私はぴくりとひっかかってしまった……。
「授業料高い?……何言ってんですか?」
思わず言っちゃった……。太郎さんが、きょとんとして私を見ていた。ついでに言うとみんなも見ていた。
「太郎さんたら……嫌だなぁ、さっき私に何したか、もう忘れたんですか?」
「え、いや、あれは……」
「あれとこれで、チャラでしょう?」
「ち、チャラ!?」
太郎さんが、珍しく素っ頓狂な声を上げた……。
「チャラって……チャラって……お、おかしくない? 僕、それ以前に、君を庇って死にかけたんだよ!?」
「私に何も言ってなかっただけで呪い避けの人形作らせたり色々してたじゃないですか。お母さんが大事にしてた絵も、勝手に描き換えたし」
「結果的に助かったけど一回は息止まったよ? 死ぬほど苦しいんだよ、あれ!」
「太郎さん……乙女の秘め事と、死なないってわかってた命。どっちが大切だと思います?」
「……っ!! その言い方の方がいやらしいよ。実際にはくち……っ!」
最後までは言わせなかった。最後まで言う前に、その顔ごと握りしめた。
「何か、言いました? 乙女の秘め事だって言ったでしょ?」
「お、乙女は死にかけた奴にアイアンクローなんかしな……いだだだだだだだっ!!」
太郎さんの絶叫が、居間を通り越して、家を通り越して、ご近所中に響き渡った。




