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天狗様といっしょ  作者: kano
第一章
39/210

天狗様、教育的指導す(4)

~5時間目:化学 講師:白峰相模坊~


「よ、よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 どちらからともなく頭を下げる。

「どうしたんですか? そんなに固くなって」

「いえ、化学は苦手で……」

「そうおっしゃる方は多いですね。けれどそれは、日常あまり化学を意識しないからでは? 生活とは別の特殊な何かだと思ってしまっているからではないでしょうか?」

「そ、そうでしょうか……」

「ええ、考えてみてください。日常生活において化学現象と呼べるものは何があると思いますか?」

「化学現象? えっと……料理とか……?」

「ええ、そうです。では質問です。肉が焼けると、どうなりますか?」

「え、色が濃くなって、ちょっと固くなります」

「そうですね。それは肉を熱したことで肉のたんぱく質に変化が起こった結果です。そこに調味料を加えたりすると、もっと様々な変化をもたらしますよ。なにせ調味料の成分もすべて肉の成分と絡み合うんですから」

「へ、へぇ……」

「それで、どんな成分がこの世に存在するのかをある程度教えてくれるものが、これです」

「う! そ、それは……」

「周期表です。様々な元素が書かれています。まずはこれを覚えましょう」

「あ、あの……これを覚えることにまず挫折したんですけど……」

「再チャレンジです」

「ええぇ……あの……メジャーなところから一つずつではダメでしょうか……?」

「メジャー? そうですね……まぁ一番はこれでしょうね、『H』。さてこれは何でしょう?」

「ううぅ……」

「ヒント、人間の生活に決して欠かせないものです」

「あ、水! 水です!」

「半分正解です。水の中の何という元素でしょう?」

「水の中の……?」

「水は、何かと何かが結合して水なのです。その何かとは何でしょうか? ふふふ、あまり難しく考えない方がいいかもしれませんよ」

「そ、そうですか? み、水元素!」

「そう来ましたか……正解は『水素』です。そして水になるために『酸素』と結合します」

「はぁ……」

「そして、その『水素』=『H』は周期表の1番手です」

「おお! ここに……!」

「じゃあ2番目のこれ……見覚えありませんか?」

「え? あ、ヘリウム! あの吸うと声が高くなる?」

「そうですね。気体状態のヘリウムのことですね」

「キタイ状態?」

「空気みたいな状態です。他には液体状態と固体状態があるでしょう?」

「エキタイ……コタイ?」

「………………」

「さ、相模さん? ごめんなさい……理解が下手で、その……」

「藍さん」

「は、はい!」

「お料理は、得意ですよね?」

「得意かどうかは……でも、何とかできます」

 そう答えると、相模さんはスタスタとどこかへ行ってしまって、次戻ってきた時には塩と醤油を持っていた。

「さて藍さん、この中で、固体はどれですか?」

「え」

「液体はどれですか? そしてこの塩、周期表で言うとどれでしょうか?」

「え? え? え??」

 相模さんは、私の理解度の低さにかえって混乱し、とにかく畳みかけるというローラー作戦に移行していたようでした。



「きゅぅ……」

 なんとか5教科特訓が(今日の分が)終ると、その場で突っ伏してしまった。完全に体力残量に赤ランプが点灯している……。

「おつかれさま、藍」

「あ、た、太郎さん……」

「もうすぐ母君の夜食が到着するから、一休みしよう」

「あ、ありがとうございます……!」

「それが終ったら、今日の復習テストだよ」

 太郎さんは、ニッコリ微笑んだ……。手には、5教科分のテスト用紙をひらひらとちらつかせる。ああ、スパルタの目だ……。

「あれ? 藍?」

 私を呼ぶ太郎さんの声を聞きながら、私の意識は、遠く深く、落ちて行った。その後の苦行(=テスト)から、果ては来週襲い来る中間テストからも逃げるかのように……。




 落ちていく。落ちていく。果てのない闇の中へ落ちていく。


 SVCとSVO、過去分詞にthat節……

 光源氏、紫の上、ありおりはべりいまそかり……

 x²+(a+b)x+ab=(x+a)(x+b)……

 牛若丸と源頼朝、壇ノ浦の合戦……

 水兵リーベぼくの船…………


 ああ……せっかく勉強したことがぽろぽろ零れていく。どこまで落ちるの? 早く止まってくれないと、勉強したことが全部なくなってしまう……!

 私は自分が落ちて死んでしまうかもしれないということより、何故かそっちを心配した。

 そんなことを考えていた私に、どすん!と大きめの衝撃がきた。

「!」

 衝撃は大きいけれど、痛くはなかった。ふわふわのマットの上に落ちたような感じだ。

 だけど周囲は相変わらず真っ暗で、自分が怪我をしているかどうかすらよくわからない。どこへ歩いたらいいのかも、今ここに居ていいのかすら。

「ここに居ていいわけないよ」

 どこかから声がした。おそらく私のすぐ近くで。

 静かでどこか優しげな、たぶん女性の声だ。でも、聞き覚えはない。

「これ、失くしたら大変なんでしょ?」

 そう言って、謎の人は暗闇の中から何かを差し出した。さっき落とした私の頭の中身だ!

「あ、ありがとうございます!」

「どういたしまして。他にも落ちてるよ。拾うの手伝おうか?」

「お、お願いします!」

 私は影の中の人と手分けして、暗闇の中手探りで落とし物を探した。文字通り一寸先は闇で、何が何だかわからない。手に当たったものを確認するしかなかったからなかなか集まらなかった。……だけど、もう一人の人の方は、違ったようで……

「はい。これで全部じゃないかな」

 両手に何かどっさり抱え込んで、渡してくれた。何かとは言ったけれど、直感的に私の落とし物だとわかる。

「あ、ありがとうございます……」

「どういたしまして」

 暗闇で見えないけれど、相手が笑ったことはわかる。

「あの、あなたはいったい……? ここはどこなんですか? どうしてあなたは……」

「欲張りだね。そんなに一度にいろいろ知りたがるなんて」

「ご、ごめんなさい」

「ううん、私は好き。欲しいものは諦めたくないよね」

「そ、そうですね」

「でもごめんね。私が誰かは答えられない。ここがどこかも。最後の質問は、どうして私はあなたの落とし物の場所が分かったか、かな?」

「は、はい……」

「私にわかってあなたにわからなかった理由、それは一つ。あなたがここに居るべきではないから」

「私が……居るべきではない?」

 闇の向こうで、相手が静かに頷いた。

「だから、すぐに帰った方がいいよ。ここでの事も忘れて」

「でも、私落ちてきたんですよ? どこから帰れるんですか?」

「簡単だよ。声に耳を傾けて。私の声じゃなく、あなたを呼ぶ声に」

「私を呼ぶ声?」


……い……


「?」

 何か聞こえるような……


……い……藍!


 ああ、聞こえた。あれは……誰だろう? でも、なんだか必死に呼んでくれている。泣きそうな声だ。

「ほら、あなたを呼んでる。応えてあげて」

「は、はい」

 私は最後に、見えない影の中の人にお辞儀した。

「あの、ありがとうございました!」

「いいよ、そんなの。でも、もう来ちゃダメだよ」

「……はい……」

 本当は、もう少しお話ししたいしまた会いたいのだけど、彼女は強くそれを拒んだ。でもたぶん、私を嫌っての事ではないのだと思う。その証拠に、彼女は暗闇の向こうで笑っていた。私に、それがわかった。

「さようなら」

「うん、さよなら」

 そう言うと、彼女は私に向けて手を伸ばして、何かを抜き去った。

「あ、ごめんなさい。ちょっと貰いすぎちゃった」

「え、なにを?」

 尋ねたけど、もう彼女の声は聞こえなかった。

 それ以降、彼女の声も、存在も、頭の中でどんどん滲んでぼやけていった。


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