『玉子焼き』(「ホットケーキ」シリーズ続編)
1.
玉子焼きを作る大沢の眉根はぎゅっと寄っていた。真剣さを物語っている、というよりは、明らかに不機嫌な表情だった。
「ねえ、怒ってるの?」
と言わずもがなのことを尋ねると
「怒ってないよ。」
と大沢は答えた。
(嘘ばっかり)
湖山は気付かないふりでレタスをちぎる。
朝のニュースが昨晩遅くに起きた田舎町の宝石強盗のニュースを流していた。夏の暑さが人を自棄にさせるのだろうか。こんな事件はいつも夏に起きる気がする。トースターに食パンを放り込み、冷ました玉子焼きを切ると、年輪のようにほんのり焦げた茶色が輪を重ねていた。
いつもなら湖山を気遣って歩く大沢の足が今朝は速い。駅までの道のりをとっとと歩きながら、それでも必ず信号で捕まって湖山が追いついた。
まだ少しは優しさを湛えた夏の朝の太陽はアスファルトを丁寧に焼いている。大きな交差点の長い信号待ちで、沈黙に耐え切れずに湖山は口を開いた。
「怒ってるんだろ?」
「怒ってないって!」
「なんなの?言いたいことあるならちゃんと言えよ。」
「なんだよ、何でもないって。怒ってないって言ってんじゃんか。」
朝からもう何度か繰り返している会話を性懲りもなくまた繰り返す。多分それだけではないのだが、事の起こりは昨夜の言い争いだ。湖山のアシスタントを辞める気はないという大沢と、カメラマンとしての自立を促す湖山が繰り返すお互いを思いやる主張は、どうしてなのか名実ともに恋人となってからこちら喧嘩の火種となるのだった。
『大沢が好きだよ。できるだけ沢山側にいたい。だけど、折角のチャンスを無駄にして欲しくないんだよ。』
『チャンスって、何?』
『カメラマンとして一人前になって欲しい』
『ねえ、湖山さん、俺ね、カメラマンになんてならなくていいんだって。』
『大沢…。』
『言わなかった?カメラマンになるのが夢な訳じゃないんだって。こうしてこの世界に身をおいておく事自体が俺に取っては大事な事なの。湖山さんのアシスタントとして一人前ならそれでいいんだよ。それ以上なんて、なんも無い。』
それから大沢は黙った。何かを言いかけてやめた唇をきりと結んで湖山を一度だけ強く睨みつけると目を逸らした。
その夜、背を向けて寝る大沢が本当は眠ってなどいないことに気づいていても、その背中は多分、湖山の言葉も湖山の手の温もりも今は欲しくないと言っているような気がした。天井を見つめていると、大沢の強い目線が何度も何度もそこに浮かんだ。
こんな時に、これが異性の恋人ならそっと手を握ればすべてが丸く収まるのに、と湖山は思う。朝、通勤に急ぐ人の波の中でも、そっと手を滑らせて手から伝わる何かで「ごめん」と伝えることができたら、きっと大沢はそこまで頑なになんてならないで手を握り返してくれるだろう。「俺こそ、ごめん」と、その大きな手が言うだろう。
(ただ心配しているだけなんだよ。)
そっと手を握る事もできない、伸ばしかけた手をまたきゅっと握り締めて、湖山は横断歩道を渡っていく恋人の大きな背中に投げかけた言葉を飲み込んだ。汗をかいた背中のシャツが薄く肌を透かしている。大沢が大きな一歩を踏み出すたびにその小さな薄い肌色の部分が大きくなったり小さくなったりしていた。
2.
薄い木製の細いパネルを蛇腹状に重ねたパーティションはいかにもクリエイティブ系と呼ばれる業界の会社らしく個性的でスタイリッシュだ。大きな窓のブラインドごしに差し込んでくる光をパーティションの向こうにまで透かせて柔らかな空間を作り出していた。
社内会議や来客時に使われるその万能なスペースで湖山と吉岡は次の撮影の打ち合わせをしていた。一通り終わって安堵のため息をついた湖山に吉岡が少し声を落として言った一言に湖山は思いの外うろたえた。よりにもよって大沢がそのパーティションに影を落とした時だった。
「湖山さん、最近なんか…」
「うん…?」
「フェロモン出てますね」
「ふぇ・・・え?」
「このこのー」
大人をからかうもんじゃないよ、と笑ったけれど、動揺していた指先がクリアファイルを取りあぐねて中の紙をばら撒いてしまった。
「ほら、キョドってる。」
その時、パーティションを通り過ぎたはずの大沢が、後ろ歩きするように戻ってきて、パーティションの上から覗き込むように、
「何イチャついてるの?」
と顔を出した。吉岡は爽やかに笑って
「ほらー、湖山さんが無駄なフェロモン出してるからですよー。ね、大沢さんもそう思うでしょ?」 とにこやかに湖山の取り落としたファイルを綺麗に重ね、湖山に手渡しながら言った。大沢はそれには何も答えずに部屋の奥へと消えた。
大沢がパーティションのこちら側を覗き込んだ瞬間に高鳴った自分の鼓動を、吉岡は聞いたろうか?意味もなくファイルを手もち無沙汰に揃えて、打ち合わせスペースを出ながら、
「そんなに違う?」
と、湖山は吉岡を振り向いて尋ねた。
「え?何がですか?」
吉岡は鼻歌交じりに湖山の後を歩いて来て、突然の質問にキョトンとした顔をした。まるで高校生のような出で立ち。短髪をつんつんと逆立てている。元気印でありながらどこか神経質そうな吉岡が毎朝その髪を間違いなく逆立ている姿を容易に想像できる。
「…だから、その…さっき…」
「あぁ、フェロモン?ええ。まぁ、僕が気付く位ですからね。」
それ以上に訊くのも気が引けて、湖山は少し首を傾げ「そう?」と答えると自分のデスクに戻った。大沢ほどではないにしろ、アシスタントという仕事をする以上はある程度気が利く方がその仕事には向いている。吉岡も、多分同じくらいの年令の男性よりはよく気がつく方だろう。彼が「僕が気付く位」という表現をしたのは、大沢のアシスタントぶりが優れている為によく引き合いに出されるからなのだ。そうやってあちこちで大沢と比べられて、気が利かないだの、使えないだのと罵られながら、よくぞここまで続いたもんだと湖山はひっそり思っていた。
窓の外でプラタナスの大きな葉が揺れている。先ほどまで鳴いていた蝉はもう鳴いていない。どこか遠くへ飛んで行っただろうか。
内線で吉岡の番号を押す。
「吉岡くん、昼飯、一緒に行かない?良かったらその足で行っちゃおうよ。」
「あぁ、ええ。いいですね。」
笑った吉岡が部屋の壁側から背伸びをするようにこちらに手を振っていた。3.
青いペンキが所々はげた板張りのウェスタン風の建物の外に、大きな馬車の車輪が立てかけてある。その前に小さな黒板が立っていて、『本日のランチメニュー』とかわいらしい文字でステーキとハンバーグのメニューが並んでいた。湖山はチラリと見ただけで中に入っていく。吉岡はその後をいつまでも黒板を振り返りながら入っていった。
昼時の小さなレストランは混んでいて、冷房が直接に当たる小さなスペースに置かれた椅子がきゅうきゅうに並んでいる出入り口に二人で待たされた。吉岡は壁に掲げられた大きな黒板の小さな文字を追いながらあれこれ言っている。
「よく頑張ってるよな。」
と、湖山はその横顔を見ながら言った。黒板の文字が小さいから見えない、とまた文句を言った吉岡は不意に投げかけられた言葉をどう解していいのか分らない風に湖山を振り向いた。それは、レストランの繁盛振りを言っているのか、それとも小さな文字を懸命に追っている自分の食い意地を言っているのだろうか、という顔をしている。
「吉岡君さ、正直、こんなに長続きすると思ってなかった。」
「僕?僕のことですか?」
「他に誰がいるのよ。」
いや、レストランのことかなって、と照れ笑いを浮かべて吉岡は頭を掻いた。洗いざらしのシャツにジーンズを着た店員は安っぽいカウボーイハットに手をやって、こちらへどうぞ、と二人を空いた席に案内する。
「しんどいよね、アシスタントって。」
「うーん。でも、見習いの時期なんてどんなんでもしんどいもんだろうって思うから。」
「そうだね。でも、それが分るのって結構一人前に近いんだよな。そうすると、いつまでもこれやってんのか、って思ったりもするだろう?」
「んー、そうですねえ…まぁ、うん」
濁した言葉の先を待ってやると、吉岡は小学生のような顔をして言った。
「俺んちね、オヤジが左官職人だったんですよ。職人ってのはーってオヤジがいつも言ってたんです。見習いをしっかりやんねえとろくなものになれねえとか、それに、結局一本立ちしたって、いつまでも見習いみたいなもんだって。先の先があるんだっていつも言ってました。」
「そうか…。立派な親父さんだな。」
「うん。そうですね。…って、なんか身内のこと、あれだけど。」
冷えた水をゴクリと一杯飲んで、吉岡は続けた。
「そん時はね、分らなかったんです。古くさい事言うオヤジだよな、と思ってたし、この仕事も、正直な話、毎度、毎度、大沢さんと比べられると、だったら全部大沢さんにやってもらえよって思ったりしたし、つか、ほんとに、『ダメだな、俺』って思う事も多くて。でも、一昨年ね、オヤジが死んで、それから急にオヤジの言ってたことを思い出すことが多くなって、死んだオヤジに顔向けできないようなこと、やっちゃいけないって思うようになったんです。オヤジは多分跡を継いで欲しかったと思うんです。カメラを弄くりまわすようなことしやがって、って酔っ払って言ってたこともあったし。でも、だからこそ、途中でやめたりしたら、あの世でオヤジに顔向けできないしって思ったし、大沢さんはそらすごいけど、俺は俺で頑張ればいいんだし、って思えたんで。」
吉岡の父親ならまだ若かっただろう。息子が一人前になる姿を見たかっただろうに、と湖山は吉岡を眺めた。吉岡は湖山と目が合うと、うひひ、と笑って「腹減ったー」と若者らしくぼやいて身体をくにゃりと丸めた。
身体を喪った後に、ちゃんと残った彼の思いが息子へと伝わったのはそれは血のつながりだろうか。愛する存在に伝えたいことは、いくらでもある。伝えても伝えても伝えきれない事があるけれど、それでもいつか、ちゃんと伝わるのなら、こうして吉岡が彼の父親から受け取った何かのように、自分の想いがいつかちゃんと伝わるのなら、たとえ今、伝わらなかったとしても伝えてみようとすることは、きっと無意味ではないのだ、と湖山は思う。そしてふと、自分と大沢の年の差を思えば、きっと先に逝くのは自分の方なのだと、これまで考えたこともなかった事を思った。会った事もない吉岡の父親の面影はなぜなのか大沢の瞳を持ち湖山の中で揺らいだ。
4.
歯を磨いていると玄関のドアの鍵が開く音がした。鏡の自分と向き合って、でも今湖山が見ているものは鏡に映ってなどいない。ヒタヒタと足音が近づいて、鏡に大沢が映った。湖山はそれを認めて振り向き歯ブラシを咥えたまま、おかえり、と声を掛け、
「今日は来ないと思ってた」
と続けた。 ただいま、と答えた大沢はそれ以上何も言わなかった。そう?と短く答えて洗面所に入って来ると湖山の横から手を出して「先にいい?」と訊きながら手を洗い、うがいをして洗面所から出て行った。
つけっぱなしのテレビはまだクイズ番組を垂れ流していて、大沢はキッチンカウンターから腰を屈めるようにして手を動かしながらそれを見ていた。リビングに入って来た湖山をチラリと見て
「ごはん食べて来たんだね?」
と訊いた。
「ううん」
「なんだ、歯、磨いてたから食べてきたのかと思った。なら、一緒に食べる?」
「俺の分もあるの?」
「あるよ。うどんだけど、いい?」
少し食べたい、と答えた湖山に、うん、分かったと頷いて大沢はそこで少し何か考えるように黙った。それから
「柔らかめがいい?」
と、湖山を見ずに訊いた。 大沢は本当は硬めの麺が好きなのだった。湖山は自分を見ない大沢に小さく「うん」と答えた。
冷えた汁に浸して食べるうどんを啜る。テレビから流れているクイズ番組にときどき一人で答える。大沢はそんな湖山の隣で、時にテレビを見たり、時にぼんやりとうどんを啜り、胡坐の足を組み替えては湖山の足に当たって「あ、ごめん」と謝った。所在無げな大沢に掛ける言葉を見つけることが出来ずに湖山はなんでもない顔をしてテレビとうどんと大沢の様子を伺っていた。
何か言いたくて、でも、適切な言葉が見つからない時ほど不安になることはない。以前なら、こんな沈黙ですら愛おしかった。その沈黙がすべてを伝えていたからだ。伝えられない言葉を伝えていた。そしてその言葉を口に乗せることは出来ないとお互いに知っていて、だから、その沈黙を何よりも愛しくも思えた。辛くても、そこにある言葉にならない言葉の存在を知っているだけで。
伝えてもいいのだ、そうなった今の方が、なぜこんなに自分を苛むのだろう。白々しく聞こえはしまいか、とその言葉を口にするタイミングをはかるような小賢しい事をする。
それはもしかしたら大沢だって同じなのかもしれない。
一瞬過った考えは、でも、湖山を救いはしなかった。もしも、大沢がいま湖山が伝えたいと思う言葉をその胸のうちに秘めているならば、湖山よりも先に大沢が言うべきなのだと何の理由もなく思う程、湖山はただ恋に落ちているのかもしれなかった。
5.
ベッドの片側を空けて片肘をついた。髪を拭いている大沢は湖山に背を向けて座っている。こうして大沢が髪を拭いている時、あるいは職場ですれ違って彼の周りの空気が動いた瞬間、彼から湖山が使っているのと同じシャンプーの匂いがする。同じシャンプーを使う、というこのことがこれ程疚しい気持ちになることを湖山はかつて知らなかった。
ごしごしと擦っていたタオルを肩に掛けて、ため息をついたのか大沢の肩が小さく上下した。それからぐんと身体を伸ばしてタオルを椅子に放った。
「ベッド買いに行きたい」
と湖山はもう少し身体をずらしながら言った。
「うん?」
大沢は湖山の身体にタオルケットを掛けながらベッドに身体を横たえた。
「ベッド。もう少し大きいベッドが欲しい。」
「小さくてもいいじゃない。くっついて眠れば。」
「俺蹴っ飛ばしちゃうじゃん。」
「いいよ。蹴っ飛ばしても。」
「やだ。」
大沢が湖山の髪を梳く。子どもの我侭を聞いているように、ほんの少し微笑んでいた。
「今日、ごめん。」
と大沢は湖山の唇を見ながら言った。
「俺も。」
湖山は大沢の目線の先を確めながら言った。半分臥せった睫を見つめる。
「湖山さんは別に」
大沢の目が湖山の目を見る。
やっと合った目線に湖山はただ嬉しくて笑った。
「やっと目が合った!」
素直に言葉にすれば、ただそれだけのこと。どうして口にすることが出来なかったのかと思う程たやすく口をついで出る。
大沢の腕はぎゅっと湖山の頭を抱いた。
「今日どこに行ったの?」
「どこって?」
「昼飯。吉岡と。」
「テキサス?だっけ?」
「オクラホマ、ね。」
「うん、そうだ、オクラホマだ。」
「だからか。」
「何が?」
それから大沢はくすくすと笑って何でもない、と湖山の頭をくしゅくしゅと撫ぜた。
「なあ?」
「うん?」
「──心配、してるだけなんだよ?」
「ん…」
朝、伝えたくて言えなかった一言を口にする。湖山の使うボディーシャンプーの匂いがする大沢の胸元から目に見えない湯気が揺れて、確かに大沢の匂いがした。
6.
唇をよけてキスをする大沢の濡れた髪の束が湖山の首を這った。
「なぁ、ちゃんと、話そう?誤魔化さないで。」
小さな喘ぎを飲み込んで湖山が言った。
「ごまかしてない。」
大沢が答える。
「誤魔化してる。」
「してない。」
キスの合間に答える大沢が頭を上げて、二人は目が合うとプッと笑った。
ベッドの上に起き上がって胡坐をかいた大沢は、オーケー、分った、と長い前髪をかき上げて湖山に向かい合った。
「ちっさなこと、どうでもいいって思う?でも、こういう小さい事を重ねて行って、──きっと駄目になるときって、こういう小さい事を積み重ねてどうにもできなくなるんじゃないかって、俺、思うから。」
湖山の瞳は大沢の瞳の奥を捉える。
「そう…かもね。」
大沢は繕うように微笑んだ。
「でも、言えない事の方が多かったから、慣れてないんだ。」
「でも、言って欲しい。ちゃんと、小さな事まで。胸の中にささくれ立っていること全部。手をつなぐことで伝わる事もあるし、何も言わないでも伝わる事もあるけど、でも、多分、言わないと伝わらない事の方が多い。肌を重ねたら、そっちの方が多くなるんだ、きっと。」
そうなのだ。肌を重ねてしまったら、何もかもを伝え合った気になって、何もかもが伝わるのだとそう思えて、いつしか伝わらなかったものが何なのか分らなくなっていくのだろう。伝える事に倦むわけでもないのに、お互いの肌の温度に慣れれば慣れるほど、熱のやりとりも想いのやりとりも、どこかに置き忘れたように快楽の底へ沈んでいくばかりだ。
心配しているから、大沢を大事に思うからこその言葉が伝わりきらない苛立ちを抱えて、それでもこうしてちゃんと伝え合おうよ、と言える今の自分を湖山はどこか別人のように思う。いつから自分はこんなに大人になったのだろう。
「なぁ、大沢」
「何?」
「カメラマンの話、俺、煩かった?」
「いいや。」
言葉少なに答える大沢はきっともう、そんなことを思ってはいないのだろう。ただ何か彼の心の内にささくれ立ったものがあって、それをどうやって言葉にしていいのか探るように胡坐に組んだ自分の指先を摩っていた。
7.
「湖山さんは、」
目を逸らしたまま、大沢はやっと何かを伝える気になったらしかった。少し言うのを躊躇って、かすれた語尾を払うような咳をひとつする。それから、息を飲むようにこくりと小さくうな垂れてから続けた。
「分ってない。好きな人に、好きって、そう言える事だってほんとはどんなにすごいことなのか。心の中で思っていることを全部好きな人に打ち明けるということが、どんなことなのか、湖山さんは、分ってない。」
一息にそう言った大沢はまだ静かに俯いていた。
(何だよ…?)
好きという言葉の意味も重さもそれを伝える事の大切さも分っているつもりだ。好きだと言えなかった、自分のものになって欲しいと言えなかった、その一年は何だったんだろう。その言葉の重みを知っているから、大切さを知っているから、だから言えなかったはずの、自分の誠意や自分の真剣さをまるで無かったことにされたみたいだった。
押し黙って不満を伝える。でも、とうに気づいているのだろう。大沢は小さな溜息をついて肩を上下し、足を摩る手を少し大きく動かした。
「俺は"あの時"、湖山さんに好きって言おうとした。全部を投げ打って、それでも構わないって思えたから、好きだって伝えることができたらもう、他に何もいらないって思えたから。だけど、湖山さんはあん時、俺に好きだって言わせてくれなかったよね。そのくせ、ずっと俺と一緒に仕事したい、って言ってくれた。湖山さんがあの時俺に好きって言わせてくれなかったのは、俺が湖山さんのこと『そういう意味で』好きなことに気付いてたからだし、湖山さんは『そういう意味では』俺の事好きじゃなかったからだよね。あの時の俺たちの関係を壊したくなかった。そうでしょ?」
そうなんだろうか?それとも、そうじゃない、と言えるだろうか。ずっと一緒にいたいと思った。失いたくないと思った。その想いがどこまで大沢の言う「そういう意味」であったのかと自分に問えばただ初めての気持ちに揺らいでいる自分を思い出して胸がぎゅっと痛かった。
「湖山さんには、分んない。俺がどんなに湖山さんのこと好きだったか。どんなに、──どんなに覚悟を決めてあんたのこと好きだって伝えようとしたのか、ぜってー分らない。」
いつの間にか、大沢の手は足を撫で摩るのをやめて、硬く強く足の親指を握り締めているのだった。力を込めた指先が白く、余った力に手が少し震えているように見えた。分っていない、というのなら、大沢も同じだけ分っていないのだ。こんな大沢を見ることで、どれほど湖山が無力さに打ちひしがれるのか、ということを。
どうしたら、伝わるだろうか。言葉を重ねて、重ねて、どこまで重ねたら。そして湖山は自分の言葉の拙さをよく知っているのだった。手の温もりや肌の温もりが伝えることは、いつからか言葉ではなくなって、ただ欲望になってしまった。それは、悪いことではない。でも、他に伝える手段が拙いのだとしたら、自分には何が残されているのだろう。ただでさえ下手な恋を重ねてきただけの自分が、思いも寄らない気持ちに気づくまでに、そして気づいてからも、その気持ちに名前をつけることなんて出来はしなかった。もしも、この気持ちが「恋」なのだと知っていたなら、そしてそれを知った時「君に恋をした」と伝えたなら、一体何が変わっていたというのだろう。湖山がその気持ちに気づいたのは、大沢を失いかけた、やっとその時だったというのに。8.
分らない。きっと。── でも伝えたいと思う事をやめてしまってはいけないのだ。いつか、例えば喪う事があっても、喪った後で伝わる事があるから。それがたとえどんなに遅かったのだと言われようとも、今この時をともにしているなら、遅すぎたわけはない。早かったら良かった、もしもあの時、と思う、そんな好都合はただの夢物語でしかないのだから。
「──そんな風に言うんだったら、お前だって俺の気持ち、ぜったい分らない。俺がどれくらいお前の事大切に思ってるか、こうなるまでに、俺がどれくらい戸惑ったか、俺がどれくらい勇気をふりしぼったのか、お前には絶対分らないよ。そうだろう?きっとお互いに一生分らない。お前の気持ちは、お前だけのもので、俺の気持ちは俺だけのものだから。それでも…」
決めたのだ。この男がこうして自分の側にいてくれる限り。
「決めたんだよ。自分に何が出来るのか分らないけど、こうやって生きていくなら、いつもお前が側にいてくれたらいいのに、って思うから、お前が俺に抱いてくれる気持ちをちゃんと受け止めたいし、俺の想いもちゃんと伝えて受け止めてもらうって。」
人生は多分、自分が思ったよりも長く、自分が思ったよりも短い。カメラを構えて生きている湖山は、人や物が生まれて喪われるまでの時間のほんの一瞬を切り取る事を生業にしている。その一瞬をどれほど重ねて人はついえ、物はついえるのか。あるいは、人や物がついえる瞬間に、自分の切り取った一瞬はどれほどの価値があるのか。もう二度とは訪れる事のない一瞬を切り取ることの傲慢さを知っている。それだからこそ身震いがするほどこの仕事に遣り甲斐を感じてこの仕事が好きだ。
『先の先がある』
そう、吉岡の親父さんの言葉を借りれば、生きている限り人には『先の先』があって、この先、この先を目指して生きているのだ。
大沢に、そのことを分って欲しかった。アシスタントという仕事の、その先を目指して欲しい。この遣り甲斐をこの仕事の凄さを分って欲しい。そうやって二人で語り合って、お互いを高めあって、支えあって生きていきたいのだ。自分の一生の一瞬も、この男のシャッターが切り取るとそう決めたからだ。
「な…大沢…?」
上手くない言葉で伝える。湖山にできるかぎりの丁寧さで、人生という道があるなら、自分の隣を歩いて行って欲しい、自分が見ている風景を一緒に見て欲しい、と言葉の限りに伝えた。たどたどしい。でもきっと伝わるとそう信じた。
大沢は何も言わない。静かに、見守るように、湖山の瞳の奥に宿る光を見つめているようだった。
9.
すべてを言葉に出来たとは思えなかった。でも、何度でも繰り返したらいいと思えた。はたしてどれ位伝わったのだろうか、大沢を伺うと彼はじっと湖山の目を見つめていた。その目は、湖山のすべてを理解しているようにも見えたし、いま湖山が言ったことの半分も伝わっていないような目もしていた。
「うん。」
と大沢は言った。
「でも…」
と大沢は続ける。
何度でも言うよ。俺にとっての『その先』っていうのは、湖山さんと並んでカメラを構えることじゃない。隣に並んでカメラを構えても、それは絶対に湖山さんの見ている景色とは違うし、そんなのは俺にとってぜんぜん意味がないから。俺が湖山さんの側にいたいのは、カメラを構える湖山さんを見ていたい、っていう意味だから。そうやってカメラを構え続ける湖山さんを見守りたい、湖山さんがずっとカメラを構え続ける為に何かしたい。遣り甲斐があるという話なら、それにこそ遣り甲斐がある。
ずっと、ずっと、ずっと、そう思って来たし、これから先も変わらない。
側に居たかった。ずっと湖山さんの側にいて、友情とか信頼とか積み重ねて、ただそれだけを支えにして生きていく覚悟が出来てた。なのに、湖山さん、俺じゃなくてもいいみたいなことを湖山さんは言った事があったよね。湖山さんは忘れちゃったかもしれないけど。それをね、言い訳にするわけではないんだけれど、でもそれを聞いた時、やっぱり自棄になったよ。そんで、俺は何もかも裏切って結婚して──教会で湖山さんの声を聞いたときに、漸く何もかもを失う覚悟が出来たんだ。
好きだ、とただそれだけを伝える事が、どんなに自分を苛んだか。そんな恋をいくつもして来たけれど、湖山さんは特別だった。湖山さんの側にいることだけの為に、何もかもを諦めていいと思える程湖山さんは特別で、そして、湖山さんに俺じゃなくてもいいと言われたら、何もかもを壊していいと思える程湖山さんは特別だ。湖山さんが湖山さんらしく生きていく為なら、どんなことだってする。そうだよ、どんなことだってする。それが、たとえ自分をどんなに苛んでも。
自分で言うのもなんだけど、確かに俺は有能なアシスタントなんでしょう。どうして俺が、こんなに有能なアシスタントになれたか、教えてあげようか?きっと、もう、分っているでしょう?
10.
触れることを許された指先は、まだ時に躊躇う。大沢はそっと湖山の頬に触れて湖山の長めの髪をその耳に掛けた。それからまた頬に触れて、湖山の頬を、あるいはその頬に触れた自分の手を、見守っていた目が湖山の目を捉えると、その手を離して弱々しく微笑んだ。
湖山が感じた無力感をきっと大沢も感じている。伝えても伝えても伝わらない。人間が作り出した言葉という道具の限界を、諦めと苛立ちが綯い交ぜになる胸の中で感じている。そしてもちろんそれは、言葉の限界だけではなくて、お互いの生き方とか生き様とかいうものの違いだと分っている。
自分よりも年若いこの男の目のどこかに老成したような光が湛えられているように見えるのは、今日昼間に吉岡から聞いた男の面影に大沢を重ねてしまったからなのだろうか。いつか、ついえていく命の限界を思うのは今日昼間に吉岡から聞いた話のせいなのか、それとも、大沢と自分の生き方の違いを年の差のせいにしようとしているからなのか。
命の限界などいまはまだ現実味もないこの身体を抱きたいとこの男が言うのなら、いくらだって捧げようと思う。この身体がここにある限り。だから、自分に触れることを躊躇ったりする必要などないのだと伝える手段を、湖山は探る。
膝立ちになって大沢に一歩半近づいた。細い身体を胡坐をかいた大沢の膝の上に預けると、大沢は少し驚いた顔して、それから微笑んで、ゆるりと足を解いて湖山の背中に手を置いた。壊れ物を抱くように小さな子どもを抱くように、優しい手をその背に置いた。大沢が湖山の胸に頭を預けるのと、湖山が大沢の肩に頭を預けるのが殆ど同時だった。
ぞくぞくと足の指の先から、湖山の身体の中を駆け巡る。得体の知れない生物が大沢の指先から、大沢の舌先から生まれて、湖山の身体の中に送り込まれる。その生物が、大沢が触れたその部分から湖山の身体の中を駆け巡って湖山の中に大きな塊を作りその塊をぎゅっと握りつぶそうとしている。
「ね、吉岡にフェロモン出てるって言われてたね」
「う…ん…?ん…」
「触られた?」
「はぁ?」
「吉岡に、触られた?」
「何でだよ…?触られる訳ないだろうが。」
「これ以上フェロモン出たら困る。みんなが湖山さんを狙う。」
「馬、鹿か…」
「だから止めようか…な…」
「んん──ッ、い、いいよ、止めても。俺、困らないよ、したがるのはいつもそっちだろ?」
でも、湖山の身体はその言葉に抗うように仰け反った。大沢がそう?と意地悪く笑って探って行く指先に力を込めた。
「他の誰にも湖山さんの側にいて欲しくない。吉岡にも。誰にも。俺以外の…誰にも」
もう、答えることもできない程荒い息を重ねて湖山は昇りつめる。指先を伸ばして掴もうとするその階から見るこれまで見たこともない景色。その景色を誰と見たいかと訊かれたら即座に大沢と答えるだろう。でもこの景色を見せてくれる男は湖山が掴もうとして伸ばすその身体を抱き、その指先を慈しみ、その階をどこまでも支えることで彼をその天辺へと誘っていく。いつかその天辺から見ることができるなら、大沢と二人で──そう願った一瞬、湖山の内側に燻っていたものが弾けて、湖山の視界を遮るように広がった。11.
クルクルと掻き混ぜる菜箸をペロリと舐めて首を傾げた大沢がほんの少し眉根を寄せる。レタスをちぎっている湖山はその眉を見て、いつもの通り「今日も健在」と思う。ニュースは天気予報を流している。今日も真夏日だ。
「車で行こうよ。」
と湖山はレタスをちぎる手を止めて言う。
「いいよ。」
大沢は砂糖を足して、また菜箸を舐めた。
湖山の母が作った玉子焼きはいつもほんのり塩味だった。甘い玉子焼きは鮨屋で食べるけれど、家では食べない。でも、大沢が朝ごはんを作る時はいつも甘い玉子焼きだ。
「シャンプーが切れてる」
玉子焼きを流したフライパンがジュッと音を立てるのと同時に大沢が言った。
「そっか?」
「今日忘れないで買ってこよう。あそこ、一階に生活雑貨が売ってたよね。」
「売ってた。しかも安い。あとトイレットペーパーも買いたい。」
「うん。」
大沢は器用に玉子焼きを巻く。真剣な表情で丁寧に玉子を巻きながら、二つの皿に盛られたレタスをチラリと見て、それから湖山を見て、にこりと笑った。
「気に入るのがあるといいな。」
「うん。」
大き目のベッドを買いに行く。まだ夏だから蒲団はもう少し後でいいだろうか。巻き上がった玉子焼きをまな板にのせて、大沢は得意げにそれを見つめた。
「美味しそう」
と湖山が言った。黄色い玉子焼きがほかほかと湯気を立てている。食パンの袋を開けながら大沢がパンは?と湖山に聞いた。一枚、と答えながら冷蔵庫からマーガリンを出す。こんな風に二人で立つ台所の平和な朝を、湖山は何よりも大切に思う。
「ねえ」
不意に大沢が真剣な声で湖山に呼びかけた。
「んん?」
トースターを見守っていた目をそのままに大沢を振り向いたが大沢は湖山の目を待っているらしかった。
「ん?何?」
トースターから目を離し、大沢を見ると、こんな朝にはあまりしないような真剣な目で湖山を見ている。カウンターに掌を後手に掛けて寄り掛かるようにしていた。
「昨日さ──」
言いにくい事を言い出そうとしている。湖山をじっと見つめていた目を逸らして、大沢が何かを言う時は大事な何かを言い出したくて、言いにくいなと思っている時だ。
「昨日?」
「昨夜。湖山さん、『来る』って言ったよね。」
「何?何の話?」
「お帰り、って言った後で、『今日は来ないと思った』って、言った。」
「あぁ、うん。言ったね。」
大沢は床に落していた目を上げて湖山を見た。お互いに黙って何も言わない。湖山も大沢も言葉の続きを捜していた。
「いつか──」
先に言葉を発したのは大沢だった。
「お帰りって言ったその後で、湖山さんがただ笑ってくれる日が来たらいい」
なんでもないほんの些細な言葉に傷ついた大沢が小さな棘を抜くように慎重に言葉を選んでそう言った。
「ごめん。」
他に言いようもなくて素直に詫びると、大沢は首を傾げて笑った。
「違うんだ。そう言わせちゃう俺の事を、許して欲しいって意味。」
トースターのタイマーがゼロを回ってチンと鳴った。焦げすぎたトーストが煙を上げている。
「あ!」
二人同時に気づいて顔を見合わせて笑った。
「ごめん。」
「ごめんごめん。」
今日切った玉子焼きは美しく黄色い切り口を揃えて、湖山がちぎったレタスの横に添えられる。赤い小さなトマトが転がって、黄色い玉子焼きにこつんとぶつかった。湖山は大沢を見上げる。
「自惚れる」
「ん?何?」
「この、有能なアシスタントを育てたのは、俺」
「違うよ。」
「え?」
「俺の愛」
「そ…ね」
ほんの少し、タイミングを間違えれば焦げてしまう。繰り返す毎日の中で、何度でも何度でも伝える愛の言葉を、お互いに投げかけ、受け取り、胸にしまい、あるいは受け取り損ねる日もあって、一瞬一瞬を積み重ねていく。分かり合える事も、分かり合えない事も、譲り合ったり、物別れたりしながら、いつかついえていく日まで二人でいられるのだとしたら、身体など無くなった後にもきっと、伝わるものがあるはずだ。愛しているという言葉を舌先に乗せたまま、まだ言えない言葉を抱えたまま、新しい食パンをトースターに入れるように、新しい日が今日も始まる。
終わり