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■日給二万円

※お願い


少しでも上達したいので、なにか気づいた点などがありましたらコメントをお願いします。

批評といった大層なものでなくとも、些細なことで構いません。

「ここのシーンが面白かった」や「ここがつまらなかった」など言ってもらえればありがたいです。

素直で率直な意見、お待ちしています。

よろしくお願いします。

 麗葉が冗談混じりに“先生”と呼ぶようになったのは間もなくしてだった。

 机のある部屋は毎日大掃除する必要がある。片付けたその傍で読み終えた本は放られ、用済みになったメモ紙は無造作に丸められて空中に放物線を描く。ほとんど嫌がらせだ。高給だからこそできる仕事だった。

 部屋に二人きり。ノートパソコンに向かってキーボードを打つ彼女に年相応の色気は感じない。ナンパ術に無駄な磨きをかけた僕のレーダーはご臨終直後の心電図の如く横線を継続してる。ピーーー。

 隅に重なる「積み木百選」の題がついた辞典を本棚に収める。自分の目を疑った。小さいながらも黒光りする拳銃らしき物が出てきたんだ。やっぱり森里さんが言ってたのは本当だったのか。

 恐る恐るグリップを握る。ずっしりと手中に馴染んだ。高橋がメンテナンスしてたトカレフを持たせてもらった──というより触ってみるかと強引に渡された──重量感と同じだった。首を振って否定する。こんな手のひらサイズの銃があってたまるか、モデルガンに決まってる。

 言い聞かせて試しにトリガーを引いてみる。撃鉄はなかった。

 動きそうで動かない、トカレフはもっと簡単に引けた。安全装置があるようでもない。

「こんなオモチャ、なにに使うんだ。案外子供っぽいよな、麗葉って」

「ああ、そんなところにあったのかね。その銃はデリンジャーさ、近距離向きの型なのだ。こうやって銃口を押し当てて撃つのが望ましい」

 僕の腹に突きつける。思わず横へ避けた。口調に不穏なものを感じたんだ。

「まさか人殺しなんてしてないよな」

「あるさ。これで一発だ」

 ばーん、と撃つ真似をする麗葉。下手な冗談も言うんだな。犯罪者か否かはともかく、一緒にいると飽きなかった。

 室内の一角、カラーボックスに置かれたテレビがニュースを告げる。銀行強盗をして逃走中の男が猟銃を持ってこの練馬区内に潜伏中の可能性があるらしい。警察は指名手配して行方を追ってるようだ。練馬区といっても広かった、鉢合わせる奴は運が悪い。すぐに興味が失せて掃除を再開した。

 日が傾く。空が赤く染まる頃にやっと一段落ついた。新たなゴミが早速散乱してるが気にしない。フローリングの床がまだらながら見えてきて感動を覚える。真っ黒になった雑巾を搾って仕上げだ。

「よし完成だ。ちょっと来てくれないか。君に読んでほしいのだ」

 いつになく声を弾ませてた。プリンターを出てきた紙の束を机で叩いて整えてる。よっこらせ。疲労の溜まった腰に無理を言わせて立った。

「朝からなに熱心にやってんのかと思ったら論文を書いてたのか」

「馬鹿者、それは小説さ」

 原稿用紙換算にしたら数百枚はありそうな文章量をぱらぱらめくり、小説ねぇ、と折り畳みイスへ座る。とにかく冒頭を読んでみないとな。文字を目で追う感覚は久しぶりだった。

「俺も中学時代は文芸部だったんだぜ。昔は読書好きでさ」

「それは奇遇だ、小説を書いていたのかね」

「確か、区のコンクールで佳作もらったなぁ。新人賞も一次選考は通ったことあったし」

 たった三、四年前のことが遠い昔に思えた。いまとなっちゃ僕は別人格だ。本も読まなくなったし、熱中して原稿用紙にペンを走らせる夜もなくなった。寝ても覚めてもあそこはああしようこうしようと胸躍らせてたんだ。生活が安定したら、またそんな日が戻ってくるんだろうか。

 一枚目を読み終わり、めくって床へ伏せる。

「先生だ」

「は?」

 顔を上げると麗葉が突進してきた。僕の両手を握り締め、君は先生だ君は先生だ、と連呼した。鼻息が荒い。握った手を上下させて長い髪を振り乱してる。

「これも縁というものか、求めるものが寄ってくるとは不可思議だ」

「ちょっと待て、先生って俺が小説の先生になるってことかよ」

「不満かね、伊吹先生」

 こそばゆかった。腐っても一度は憧れた身。嫌な気持ちはしない。前髪の間に見える彼女の黒目に顔が鮮明に映ってる。ふふん。僕は襟足を撫でつける。

「まぁ、あんたがそこまで言うなら先生になってやらないこともないっていうか。でもかなりブランクあるしー、みたいな。間違ってても責任とれないー、みたいな。みたいな、みたいな」

「構わない。実績ある先生にはぜひ助言をお願いしたい、どんなことでもいい」

 ごほん。脚を組み直して伏せてた一枚目の原稿を拾った。相手に見えるように持つ。指差してぺしぺし叩いた。

「じゃあ遠慮なく言わせてもらうけどな、難しい言い回しや漢字を使いすぎだぞ。誰がこんな辞書片手にしてないと読めない小説を好き好むんだ」

「私は難解だとは思わないのだがね」

「読むのは誰だ」

「読者さ」

「正解。大多数の読者の立場になるんだ。小説はサービス業だと思えよ」

「ふむ」

「次に、この冒頭」

 叩いて紙を鳴らす。

「ああ、そこは自信があるのだ。どうだったかね」

「やる気あんのか? ん?」

 麗葉が眉間に皺を寄せてタラコ唇になる。ふぅ、やれやれ、これだからトーシロは。カーゴパンツのポケットからガムの包みを出す。タバコを出す要領で指先で弾き、一枚を抜いた。包みを握り潰してゴミ箱へストライクさせる。

 くちゃくちゃ。

「いいか、小説は冒頭が勝負なんだ。なんだこの一行目。論文書いてんじゃないんだぞ、小説舐めんなよ下手クソ」

 調子に乗ってきてデコピンしたのち作者へ指を突きつける。かつてない快感がそこにはあった。年下なのに普段偉そうな態度の雇い主を言いくるめてるのがたまらない。こういう仕事を目指してみるのもいいかもしれなかった。

 口を開く少女。

 そして勢い良く閉じられた、僕の指を噛む形で。絶叫したのは言うまでもない。なんせ思いっきり噛まれたんだ。腕を振って抜くとしっかりとした歯形が残ってた。入れ歯が作れそうだ。

 息を吹きかける僕に対し、彼女はご満悦な様子で薄ら笑いを浮かべてる。

「なんで噛んだー!」

「すまない、私の癖でね。噛めそうな物が目前にあるとつい噛んでしまうのだ」

「嘘だ、俺の批評が癇に障ったんだろ、絶対そうだろ」

「癇に障った? 私が? まさか。私の心は世界貿易センタービルよりも大きく広いのだよ」

 とても信じられなかった。次に批評するときは迂闊に指を出さないようにしよう、そうしよう。

 小説の印刷でコピー用紙が切れたようで、読むのは後回しに買い出しへ行くことになった。ファンタジーの中でも殺人事件は稀らしく、こうした変哲もない日々が続く。いよいよ日給二万円の旨味が出てくるってもんだ。闇金などの稼ぎから捻出されてると思うと良心に傷がつくが、借りる側も闇金なのを承知して借りてるんだ、自分の生活を守るため背に腹はかえられない。

「比佐麗葉さんのお宅をご存じありませんか。この辺りだと聞いたんですが」

 駅傍のスーパーを出ると若い女に声をかけられた。背が平均的な男の僕と同じぐらいでモデル然としてる。冬着の上からでも分かる胸の膨らみと締まったヒップに誘われた。喉の奥から伸ばした腕で首根っこを掴み、引っ張りこみたい欲求を抑える。

「実は俺、麗葉のもとで働いてるんスよ」

「そうなの。素敵な偶然ね」

 口元に手をやって上品な笑みをする女。運命を感じずにはいられなかった。ナンパ師の僕が必死に出てこようとする。いかんいかん、もうそんな馬鹿げた行いはやめるんだ。なんでもないふうを装ってパチンコ屋方面へ案内すればいい。

 彼女は昔、麗葉に世話になったんだという。道中、いまどうしてるのかとか次々に質問をされた。無意識のうちに僕は麗葉を褒め称えた。

「あいつはちょっと変わってるけどいい奴ッスよねー」

「ええ、とっても」

 気に入られるための賞賛だ。入口は共通の話題で攻め、城門を陥落させ、本丸へ入りこめればこっちのもの。あとは煮るなり焼くなりどうとでもできる。

 て、違う! なにがこっちのものだ。

「あ、ここッス、ここ。この路地を行けばすぐ」

 薄暗い歩道を振り返る。

 彼女はいなくなってた。一生懸命しゃべってたせいでいつ消えたのか気づけなかった。はぐれたのかと思って大通りへ引き返してみる。いそうにない。白昼夢に遭遇したみたいだった。記憶を辿って、容姿を思い出す。スレンダーで格好いいナイスボディを忘れるわけがない。

 納得がいかないままに事務所へ戻った。

「女と一緒にいたのか」

 開口一番、麗葉が言った。

「なんで知ってんだ」

「匂いさ。ここを出たときと君の香りが違う、これは女物の香水だね」

 チェックのシャツを嗅ぐ。あの女の匂いがほのかにした。幸せな気分になると同時に麗葉の嗅覚に背筋が寒くなる。将来、こいつと結婚する男は浮気できないな。僕が一番恐れるタイプだ。

「そうなんだ、あんたに世話になったっていう女を道案内──」

 言葉は容赦のない爆音と震動に掻き消された。せっかく片付けた本が棚を噴き落ちる。地震じゃない。近くで、それもすぐ真下で爆発があったみたいだった。換金所の人間がガス爆発でも起こしたのか。

 遠くなった耳に悲鳴が届く。窓を開けて顔を出した。花火をやったあとの火薬の匂いがした。駅の利用者が遠目にビルの一階を窺ってる。砂塵と黒煙が景色をぼやけさせていった。

 麗葉が溜め息をつく。

「やれやれ、自己主張が激しいのは変わらない男だ」

 机をこぼれた電話を拾い、ダイヤルを押す。無事かね、の一言で始まった会話は彼女の短い相づちで終わった。

「一人住みこみで働いてもらっているからね、ちょうど近くへ外出中で良かった。しかししばらくは使えそうにないな」

「よく冷静でいられるな。なんなんだよ、なにがあったんだ。一歩間違えれば俺らが死んでたんだぞ」

「安心したまえ。立神は私に対して薬指を消し飛ばしかねない爆発物を使わない、君にも被害は及ばないだろう」

 全然応えになってなかった。想像外の出来事に脳がこんがらがってなにをどう問い詰めたらいいかが分からない。声にしようにも唇が開閉を繰り返すのみだ。

 立神、薬指。この二つは先日のアパート殺人事件で得たキーワードだ。立神は男で、殺人を平気でするような人間だと思っていいだろう。過去に麗葉と面識があり、警察も知ってる有名人。アパートの殺人といい、今回の爆発といい、とても友好的とは思えない。そんな奴に彼女は狙われてるってことか。

 OKOK、少しずつ状況が見えてきた。

「薬指、それがその立神っていう奴の目印なんだな。だからあのアパートの死体を見て、帰国した、て推理したんだろ」

「うむ、実に鋭い。彼は異常な収集家でね、薬指を集めるのが趣味なのだよ」

「で、あんたの指も狙ってる」

「それもあるが──」

 いややめておこう、と口をつぐむ。深追いはしなかった。知ってはいけない領域があるように感じた。第六感があるのなら、きっとそれが激しく隆起して警報を発してる。

 せめて簡単な整理をしようと転がった辞典を持つ。雇い主は、ああ今日は帰っていいよ、と言った。ありがたかった。心臓がずっとフルアクセルで暴走してる。じっとしてられない、体が常に小刻みで揺れてる。外に出るのが恐ろしい、ヒキコモリになってしまえそうな臆病が僕を制してた。

 集まった野次馬を横目に歩を進める。パトカーが到着し、走る制服警官とすれ違った。僕は足を止める。通りへの出入り口にあの女が立ってた。微笑を形作ってる。初対面で見たものと同じはずなのに背筋が鳥肌立った。

 パチンコ屋の影へ彼女が消える。追いかけた。仕事帰りのサラリーマンやOL、中高生がちらほら行き交ってる。女はいなかった。

「相原君、だよね」

 背後を振り向くとベロを出したゴールデンレトリバーがいた。はっはっ、と吐息のあたる近距離だ。目が合った。大量に鼻水を垂らした穴をすぴすぴ言わせてる。ワンテンポ遅れて後退った。犬に知り合いはいない。

「驚かせてしまったかい」

 犬が言ったんじゃない。人間が抱っこをしてたんだ。ゴールデンレトリバーを舗装された真新しい地面に下ろして現れたのは刑事の森里さんだった。綿パンとセーターを着てる、職務中じゃなさそうだ。

「なんスか、この馬鹿でかい犬」

「元警察犬のタロさんだよ、いまは僕の唯一の家族」

 わん、と吠え、いきなり飛びかかってきた。悪口っぽく言ったのが気に障ったのかと思った。驚きも相まって尻餅つく僕は組み伏され、顔中を舐め回される。

 ぷっ、わ、やめ、鼻水、汚いっ。

「気に入られたみたいだね」

「お断りです! ぶわっ、口に入った!」

「まぁまぁそう言わずに、気に入られついでにちょっと待っててくれるかな」

 森里さんはリードを勝手に預けて駅前に行ってしまう。拒もうにも大型犬に押さえこまれちゃたまらない。強引に迫られる女のコの気持ちがちょっぴり分かった。やめて、私そんなつもりじゃないのよ、まだ早いわ。

 なんてやってる場合か。放って置いたら僕の操が危ない。腹筋に力を入れて上半身を無理矢理起こす。タロさんの首に腕を回し、動きを封じこめた。人間様を舐めるなよ、犬コロめ。

 首筋をベロが這った。

 もうどうでもいい、舐めたきゃ舐めやがれコンチクショー。飼い主はどこ行った。

 切符売り場の売店横に少女が立ってる。レベルは中の下。小箱を抱えて道行く人へ呼びかけてた。立ちはだかるのは森里さんだ。財布を逆さにし、小箱へ中身を投入した。お札もろとも全部だ。女のコは一瞬のあと頭を何度も下げた。用意してた赤い羽根を急いでセーターへ付けてる。

 戻ってきた森里さんは鳥男だった。奇抜なファッションに見えないこともない。ツッコミを入れる気は起こらなかった。

「ところで、なにかあったのかな。騒がしいみたいだけど」

「ちょっとしたテロですよ。麗葉は立神の仕業だって言ってました」

 やっと解放された僕は毛だらけになってた。羽とは大違い。払ってもへばりついて取れやしない。洗濯して綺麗になるかどうか。気に入ってる服なのに、憂鬱になる。

「なんだって? どうしてそれを早く言ってくれなかったんだ」

「関係ありそうな女、俺見ましたよ。背が高くてセクシーな。立神の仲間かなんかッスかねー」

 こみ上げてくる怒りをなだめつつ情報を提供する。僕は大人だ、服如きでキレたりしない。タロさんを睨みつける。ベロと鼻水を垂らして首を傾げる姿は挑発か。クソッ、覚えてろよ。

 現場へ行きかけた森里さんが薄っぺらくなった財布から名刺を出した。警視庁捜査一課、森里康平。

「なにかあったら連絡してほしいんだ」

 はぁ、と肯いて大男と大型犬のペアを見送る。なるべく世話にはなりたくないもんだ。捜査するうちにこっちの犯歴まで根掘り葉掘り探られかねない。僕の名前も覚えがあるふうに言ってたし、あまり接しないようにしよう。

 不本意ながら心臓は落ち着き始めてた。代わりに疲労感が体を重くしてる。

 マンションの郵便ポストには小包が入ってた。ちょっとした重さのある円柱状の物だ。硬さからしてビンだった。宛先はルームシェアしてる後輩になってる。エレベーターで三階へ上がり、鍵の用意をした。

 ロックはされてなかった。不用心だな。

 罵声が聞こえてくる、後輩の部屋からだ。薄く開いてるドアを覗くとヌイグルミ空間が初めに飛びこんでくる。携帯を片手に怒鳴り散らしてるのは黒髪をツインテールにした可愛らしい女のコだ。

「うっせ、ババア! 自分の金でなにしようが勝手だろ! はっ? 先輩はそんな人じゃねぇよ! 決めつけんなっ、死ね!」

 通話を切って床へ叩きつけた。絨毯を軽く跳ねる。肩で息をしてる綾木麻由はアヒル座りでへたりこんだ。

 ドアをノックするとこっちに気づく。はっとして白を基調にしたセーラー服のスカート裾を正した。近くの太ったヌイグルミを抱き寄せる。ブルドックの憎たらしい表情が潰れて歪む。

「先輩、帰ってたんですね。麻由びっくりしちゃいましたよぉ〜」

 びっくりするのは僕の方だ。二人で住むようになって一年が経つ。何度目撃しても慣れない豹変ぶりだった。中学時代はちょっぴりぶりっコの過ぎる変わったコだと思ってたけど、親に対してこんなに反抗的だったとは。

 なんならちょっといいと思ってた。ルームシェアが決まったときには下心だってあった。

 一気に萎え萎え。麗葉とは種類の違う異性として見れないタイプだった。

「綾木宛てになんか届いてたぞ」

 郵便物を渡してリビングへ移動する。ソファーへ全身を託して天井を見上げた。家に帰ってきた感覚がない。旅館にでもいるような気分だ、頭の内側が非現実から戻ってきてなかった。昔もこんな感じがあった。

 死は等しく身近にある。

 中三の夏休みだった。受験勉強の気分転換にと軽井沢へ二泊三日の家族旅行をした、その帰りだ。車線を無視した暴走車が突っこんできた。横転。親父は下半身不随。僕も頭部に重傷を負った。人生の分岐点だった。

「あれさえなければ、な」

 普通に高校へ進学していまごろは大学受験だ。収入源がなくなった、もともと裕福じゃない相原家には遠い希望。高校で七〇万円、私立大学で三〇〇万円以上かかる。世の中は青春も買う時代なのだ、お金のない僕には縁のないものだった。

 手術した頭の傷痕に触れる。普段は髪で隠れてる。スキンヘッドにすれば目立つだろう、数センチの長さに渡って肉が盛り上がってる。いままでなんでもなかったのに、悪仲間にしこたまやられてからちょくちょく痛みがあった。経た時間が時間だけに傷が開いたんじゃないだろうけど。

 綾木の声で身を起こす。

「大丈夫ですか、顔色悪いですよぉ。新しいお仕事、辛いんじゃないですか」

「いや、問題ないって。ちょっと今日が特別なんだ」

 爆発の感覚がよぎる。あんなこと二度とあってたまるか。

「麻由、いいんですよ、一人で働いても。先輩のこと養っちゃいます」

「んなわけにはいかないだろ。ルームシェアなんだから平等にしないとな。綾木に借りてる分もすぐ返すよ」

「でも先輩には家事も任せたりしてるし、先輩が内で麻由が外って決めてた方がいいと思うんですよぉ」

「それは利子みたいなもんだ。俺が金用意できるようになったら、また分担だぞ」

 でもぉ〜、と尚も食い下がってこようとする綾木の口と鼻を手で覆って塞ぐ。徐々に顔は赤くなり、ぷるぷる震えた。

「俺も払う、いいな?」

 彼女が首を左右へ振る。

 五秒を数えて再び尋ねる。

「いいな?」

 だが綾木は必死に堪えた。暴れて逃げようと思えば逃げれるのに動こうとしない。このままじゃ僕は人殺しになる。しょうがなく解放してあげた。肺に溜まってた空気を勢いよく放出させて荒い呼吸をしてる。

「ところで、さっきからなに持ってんだ、それ」

 反対される前に話題転換した。実際、気になってたんだ。おそらくさっき渡した郵便物。ジャムのビンに似てる、ラベルはない。中身は白濁としてて黄色みがかってる。

 彼女も分からなくて僕のところに持ってきたらしい。

「誰が送ったんだ、こんなもん」

「書いてないんですよぉ、メッセージも入ってないし」

 ビンを受け取り、瞼を細めて点検する。彼女へのプレゼントは少なくなかった。自分のコスプレ写真を載せたウェブサイトを運営してて、イベントにも参加するちょっとした有名人だ。住所を公開してるでもなしにたびたび届くのは正直気味が悪い。

「捨ててもいいか。食べ物だとしても、誰が作ったか分からないもんなんてきついだろ」

「甘い物ならちょっと食べたいですけどぉ」

 厳重にビニール袋で包み、ゴミバケツへシュートする。綾木は残念そうに眉尻を下げてた。今度シュークリームでも買ってこよう、麗葉のところで働けばいくらでも食わせてやれる。

 多少の危険はこの際しょうがない。欲は贅沢だ。

次話更新予定は明日(11/8)です。


Next:「■ゴミ野郎」

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