■網の中の魚
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階段を上がったときには歩いてきたフロアとの違いを感じ取ってた。鉄製のドアを開いた立神の背中が部屋へ入ってく。海の香りが鼻孔をほのかに突いた。部屋の中から漂ってきたんだ。
足を踏み入れてみて理由が分かった。
総合体育館によくある備え付けのベンチが突き当たりまで一直線に並んでる。湿気も多い。潮のべとっとした空気が肌を撫でる。コンクリの床や壁にはところどころに鮮やかなコケが生えてた。
真ん中まで行った立神が、ここらでくつろいでくれ、と言って出ていった。ボタンとレバーの付いた装置がある、あまり近づきたくない。五つ空けて僕は腰を下ろした。
吹き抜けになってて一階下を展望できる。部屋の中なのに遥か下には水面があった。底が暗かった。深さは地下に達してるだろう。あれが海水なんだ。
一階フロアの地面の代わりとなるのは、建築現場でよく使われてる鉄骨だった。円状に接合されてて、大雑把な網目みたいに組まれてる。均整を保ってられるのは四方をワイヤーで吊してるからだ。
奇妙なのは、コンクリの壁に覆われた個室が突き出てて円に接してることだった。一体化してるようだ。対面側にもある。
鉄の擦れる音をさせて右側の個室から三人が出てきた。ボストンバッグを持った立神を先頭に足場を歩いていく。足場といっても剥き出しの鉄材だ、滑れば落下する。円の中心にはもう一つの円があり、木製の床が敷いてあった。唯一の安息の場となる。
「こんなこともあろうかと管理をさせておいて良かった」
「いったいなんなのですか。屋敷の構造はだいたい把握してますが、ここは」
上戸さんも知らない施設のようだった。上下左右を訝しげに見回してる。
「お前が知らなくても無理はない、使っていたのは俺が大学在学中の頃だ。意見の割れた者同士で度胸試しも兼ねて争わせていたリングだった」
僕は笑ってやった。
「水に落ちたら負けってやつかよ。まるまるB級のバラエティー番組だな」
「そう見えるか。視力の精密検査をおすすめするぞ」
ぱんぱんに膨らんだバッグを開いた彼は、おもむろに肉塊を取り出した。首を落とされたブタだ。四足が縛られ、ひづめが手提げになってる。
鉄骨の網目は粗い。横の穴をすんなり落下していった。
水面が山なりに盛り上がる。ノコギリ型の歯が露出し、赤黒い口内が大気に触れた。なにもかも呑みこみそうな喉へ豚肉が丸ごと収まる。飛沫が激しく霧状になって、ここにまで届いた。
悪ふざけの過ぎた番組になること間違いなし。
「最高だろう? 簡易水族館になってる。しかしこのファイトには少々難があってな」
鉄骨を地面と同じようスマートにウォーキングした。難なく逆立ちし、でんぐり返しへ結びつける。
「勝者が生き残りにくい、極めて高い確率で。双方揃って脱落するつまらない展開が続いてしまった。仲間を無闇に失うのは不本意だ、やむを得なく閉鎖したってわけだ」
立ち上がりと同時に地を蹴ってバク宙をした。安定した着地をし、更に一段高い位置で膝を抱えたジャンプ。危険です、と上戸さんが止めようとするも下手には近づけない。ぶつかりでもしたらバランスを崩して真っ逆さまだ。
空中で回転した彼は体を弓なりにして足を下ろした。そこに鉄骨はない。上戸さんの悲鳴。サメが再び水面を目掛けて影が上昇してくる。
大口登場、水滴飛散。
立神はそこにいない。足場に掴まって鉄棒の要領で体を振り子にし、見事にぐるっと舞い戻ってみせた。一〇点満点。体操選手になった方がいい。
「俺にとっては楽しい遊び場なんだがなぁ、童心に返るとはこのことを言うんだろうな」
海の荒くれをおちょくるなんて嫌な子供だ。
胸を撫で下ろす上戸さんの肩を軽く叩く。同意を求めたようだが、彼女は苦笑いをした。
「水面まで三メートル。システムを作動させると同時にゆっくり降り始める仕掛けだ、一分で約五センチ動く」
一時間後には水面に浸される計算だ。
「生きたければ安全地帯へ逃げこむしかない。東西にドアがあるだろう。さっき通ったのが東側のドア、対面にあるのが西──いまトスミの後方にあるドアだ。要はドアを開けて逃げこめば勝利、三メートルの防水壁に囲まれていて命は保障される。ちなみに片方が開閉された時点で時間に関係なくリングは落下する仕掛けになっている」
肯く上戸さんが目を凝らして一方を指差した。
「あの、立神様。ドアになにかぶら下がっているようですが」
「ああ、そうだった。二人にはまず手錠で繋がってもらおう。好きな方の腕を出せ」
上戸さんは左を、麗葉は右を出した。一つで二人が繋がり、満足に動けなくなる。
なんで麗葉は右手にしたんだ、利き腕なのに。いくらケガしてるからって不自由にしてしまうのは不利だ。こういう点も立神の好奇心をそそらせるんだろう。
「注意事項として言うならば、手錠に小型爆弾を仕掛けている」
遠くていまいちはっきりとはしないが、警察が使う手錠とは異なって見える。筒状の輪になってた。輪と輪の間のチェーンも、だいぶ長い。
「硝酸アンモニウムと亜鉛の混合物が含まれた物だ」
「ふむ、水が発火剤になるのだね」
手首に付けられた物をつまらなそうに麗葉が眺めてる。
「Yes。水がかかるか落ちたらボーン。早く外すに越したことはないな」
今回は薬指を確保するフォローはない。サメに食われるような奴は無能っていう扱いなのだ。脳みその小さい生物に殺されるんじゃお眼鏡には適わないってか、クソ野郎。
「鍵はそれぞれ別にある。ウルルンの鍵はトスミの後ろにある西側のドアに。トスミは反対に東側だ」
それらしいのが上部に掛かってる。フックは二つあった。
「ドアもロックがかかるため、その鍵も横に掛けている」
「二つを手に入れるのかね」
手錠のチェーンを引っ張ったり噛んだりしてるのは麗葉だ。
「スタンダードな進路はそうなる。手錠を外し、ドアのロックを解き、中へ逃げこめればハッピーになれる単純明快なルールだ。持ちこんだ武器の使用は不可、それ以外はどんな手段をとろうと構わない」
武器なしなら麗葉が銃を使わなくて済む。今度の相手は上戸さんだ、彼女が撃たれたら自分がどうかしてしまう。どっちにも死んでほしくなかった。
質問はあるか、と訊く立神。
上戸さんが静かに言う。
「殺していいんですね」
彼は一拍のあと首肯で応えた。
立神がドアへ戻るとロックがされる。円形の床の上で睨み合う少女が二人。彼女たちは獰猛なサメの檻に監禁されたも同然だった。
今回の攻略方法は分かりやすい、両方が助かるケースがはっきりしてる。行動をともにして鍵を取り、それぞれ安全地帯に逃げこんでドアを同時に閉めればいい。立神はその点でなにも口にしてない、ルール違反ではないだろう。
彼には珍しく生温い縛りなのは理由がある。前提が争う者同士なんだ。戦う意思がないならぶつからずに済み、対話で解決して終えるパターンもある。
上戸さんはやる気だった。今日は誰も止める者がいない、思う存分に凶悪な感情をぶつけてくる。僕がどうにかするにも、いまや立神は装置の前のベンチに座ってた。邪魔でもしようもんなら射殺される。
携帯の時計を見る。館に入ってから二〇分は過ぎた。託すは森里さんだ。麗葉の疑いはあくまで疑いで、まだ証拠が見つかってない。事情聴取中に逃亡したのはまずいけど、僕が口裏を合わせてフォローすればなんとかなる。ストーカー事件の現場にいた張本人だ、なによりも説得力がある。
彼女は捕まらずにいられる。立神が逮捕される。ゲーム中断、上戸さんも死なない。ハッピーエンドで万々歳だ。
至って他力本願だった。それ以外に二人が助かるシチュエーションが浮かばない。
「ウルルン、トスミ、準備はいいか。それでは、ゲームスタートだ」
操作パネルのボタンが押された。天井の方でブリキの軋るモーター音が唸りを上げる。錆びたリングが小刻みに震えた。
先に仕掛けたのは上戸さんだ。懐柔のつもりは一切なし。左手で手錠の鎖を引っ張り、麗葉を呼び寄せる。バランスが崩れてよたつく彼女の頬へ拳がめりこんだ。
殴られながらにして小さなパンチを返す麗葉。利き腕じゃなくてスピードも威力もない。ガードされ、一瞬の間が空いた。上戸さんが見逃さない。鋭い突きがまたも顔面に命中する。膝の力が抜けて身が沈んでしまった。
突進。なんとか堪えて低い姿勢のまま股ぐらへ頭をぶつける。たまらずに相手は倒れ、勢いで滑った。床の切れ目を通過する。止まったのは一本の鉄骨の上だ。彼女の左右は地獄への入口。麗葉も本気だった。
とどめを刺すべく追い討ちをかける。安易だったとしか言いようがない。両脚を高々と垂直に上げた上戸さんが背筋のみを駆使して跳ね上がった。過程で足底の攻撃が顔面に当たる。カウンター気味に入り、麗葉は仰向けに転倒した。すかさず乗っかられる。マウントポジションで額を殴りつけられた。戦闘能力の面では圧倒的な差がある。
完全に上になられてパンチを連打されては対抗のしようがない。下にいる人間は打撃を繰り出したって力が入らないんだ。おまけに関節技をする体勢ですらない。一方的な暴行が待ってる。
これで決まった、かに思えた。右の手首を麗葉が掴んだんだ。上戸さんが引こうとしても離さない。離さないなら、と渾身の左拳が振り上がった。
悲鳴したのは上戸さんの方だ。手首に指がめりこみ、握り潰そうとしてた。転がるようにして退き、敵を苦悶の表情で睨んでる。手の跡が赤黒く残ってた。
麗葉はデリンジャーの重いトリガーを引くために握力だけは人並み外れてるんだ。迂闊に攻撃できない。利き腕を負傷してなければ、もっと有利だった。手錠で繋がれちゃ、どうしたって近距離になる。
惜しいのはダメージを食らいすぎてしまったことだった。
上戸さんの腰の回転が加わった蹴りに腹部を打たれる。ろくにガードできずふらついた。歩くのが困難そうだ。
お返しとばかりに突進される。倒れかかる麗葉。上戸さんの移動は止まらない。鎖を持って引きずられる。強引に突破して東側にある鍵を取るつもりだ。握力を警戒して早々に手錠を外してしまう作戦だろう。それと片方が落ちた場合、巻き添えを食うリスクもある。麗葉に勝ち目がなくなってしまう。
上戸さんの指先が鍵を揺らした。掴む寸前で届かない。麗葉が腕を引っ張ったんだ。同時にパンチを放つ。左のフックのかかった大振りな攻撃だった。そんなのが当たるわけがない。
意外。直撃。
切れた唇で彼女はにやりとした。期待の持てないパンチが当たったんだ。
上戸さんは学校爆破時のケガで右目に眼帯をしてる。視野が狭く、外側から迫りくる拳を探知するのは遅れてしまう。麗葉が打ってた初めの直線的で小さなパンチは伏線だったといえる。利き腕を敢えて手錠に繋いだのも納得だ。この左の一発を狙ってたんだ。
上戸さんの体がぐらついて、隣の足場へ跳ぶ。その間に鉄骨を駆け渡った麗葉が鍵を取った。サイズからしてドアの鍵だ。にっと口端を上げ、ぽいっと投げた。あ、と上戸さんが腕を伸ばす。
ちょぽん。
小さな小さな波を立てて水面へ沈んでいった。敵が愕然としてる間に手錠の鍵にも狙いをつける。そうはさせまいと繋がった腕を引かれた。諦めて跳び移るしかない。ほとんど倒れるようにしてしがみつく。下半身が落ちかけだ。
上がろうとする麗葉を上戸さんが踏みつけた。余裕で手錠の鍵を入手してる。勝利を確信する笑い声。
手錠を外す。両手の塞がった麗葉は易々とそれを許してしまった。爆弾入り手錠のリスクが減る以上に勝ちへ近づかれる。放られた手錠が鼻面に当たって垂れ下がった。鍵は離れて落ちる。
一旦、体勢を整えるんだろう、中央の床へ戻っていく。屈伸や手足をほぐすなど柔軟体操をした。たっぷりと時間に余裕がある。ドアに逃げこむのを邪魔されないためにも麗葉を確実に仕留めてからと考えたんだ。
麗葉もようやく立って内円へ向かった。鎖を腕に巻きつけて障害にならないようにしてる。肩で息をしてて消耗が激しい。もともと肉弾戦を得意とするタイプじゃない。負傷してる右手は動くにしたって殴るには向かないし、爆弾がニ個も付いてる。サメの気まぐれで水飛沫が舞い上がれば腕が吹き飛びかねない。
彼女が負ける?
考えたくない現実だった。もし死なれたらこの先は一人で乗り切らなくちゃならない。一度は一人でだってやってやると思った。関係が修復したいま、いなくなるのは損だ。森里さんの登場が恋しい。三〇分まであと二分。
堪えてくれよ、麗葉。
「どうした、時間を気にして。ゲームはまだ始まったばかりだぞ」
立神はひたすらに楽しげだった。そうしていられるのもいまのうちだ。屋敷を包囲すればいくら立神でも逃げられない。組織員数は多いとしても、ここに警察を上回る人数がいるとは思えなかった。
現状維持、それが勝利への道だ。上戸さんにとってもそれが一番いい。
分かってる、と無難に応えてリングへ目をやった。
上戸さんの切れのいいパンチを両手で庇う麗葉。拳は当たらない。途中で引っ込めたんだ。身を翻し、回し蹴りが飛んできた。フェイントに騙されてノーガードだったみぞおちへ食いこむ。麗葉は無惨にも倒れて咳きこんだ。能力、状況、なにもかもマイナスに働いてる。
足元の彼女を上戸さんは蔑視の眼で見下ろした。
「脆弱ね、メス犬。見ていただけてますかー、立神様ー。ご覧の通り、私の方が上だったでしょう?」
余裕の現われか、キャラに似合わず手を振ってはしゃいでる。僕も見たことがない一面だった。よっぽど麗葉の存在が疎ましかったんだ。
口元に弧を描く立神。
「前ばかり見ていると足下をすくわれるぞ」
「はい?」
首を傾げた彼女の顔が残像を残して落ちる。麗葉の足払いが綺麗に決まった。不意打ちで受け身をとれず腰をしたたかに打ちつける。
「このゾンビ女、よくも」
恨めしそうな声色で彼女が立ち上がろうとした。
どこかで硬い物が弾き飛ぶ音。それと同時にリングが大きく揺れる。ワイヤーの一本が切れてた。立神が操作したんじゃなかった。古くなってたのが久々の稼働で自然と寿命に達したんだ。
麗葉が姿勢を低くして床の縁に掴まる。
位置の悪い上戸さんは自らの重みのせいで円を傾かせ、ただただずり落ちていく。一度下ってしまうとスピードが乗ってちょっとやそっとの摩擦では止まらない。
床をはみ出る。辛うじて鉄骨を掴んでぶら下がった。危険だ、リングが下落してるのと傾きが加わって足と水との距離はさほど離れてない。
真下に影が揺らめいた。盛り上がる水面。食い千切ろうとする凶悪な口が出現する。
接触。
噛み締められた口に脚はない。寸前、筋力便りに体をL字にしたおかげで無事だったんだ。サメはまた視覚できない水底に潜っていった。
いまので上戸さんは大幅に体力を使ったようだ。床になかなか上がれないでいる。つい手を貸してやりたくなる苦しそうな表情だった。力尽きていまにも落ちそうだ。
森里さんがそろそろ来てもいい時刻だった。なんてことだ、あと少しだっていうのに。
僕はベンチを立った。
「どこへ行くつもりだ、トイレならゲームが終わってからにしろ。動けば殺す」
グロック17を向けられた。
あることに気づく。僕は森里さんの到着が待ち遠しかった。希望だった。
だけど今後は枷になるとも言える。ゲームの始まった現在、ここに突入してきたら興を削がれたとして逆上する場合もある。
そのとき僕は無事でいられるのか? 逃亡する動作を見せようもんなら全てを見通されて蜂の巣にされる。殺戮の映像を想像するのは難しくなかった。そのあと警察に取り押さえられるにしたって、自分が死んじゃおしまいだ。
例え逃げず反抗したって無駄だ、単純な武力のぶつかりじゃ勝てない。ゲーム内にいるからこそ渡り合えるんだ。
まずい。
先決すべきは上戸さんをどうにか救出することだ。
麗葉と目が合った。
「頼む。上戸さんを助けてあげてくれ」
「嫌だ」
即答だった。
「なぜ私が助けなくてはならないのだ。仮に助けても今度は私が殺される。それとも君はこの女を優先するのかね」
「そうじゃない! 俺は二人に死んでほしくないだけだ。ルールには二人が同じ安全地帯に入っちゃいけないとはなかった。まだ二人が生きる術はある」
確認の意味も込めて立神を見る。
これで禁止されたらアウトだ。口には決して出さないが、必死に懇願する。
「確かにそんなルールはない。もともと対立する二人に用意していたゲームだからな」
よし。
「ほら、ゲームマスターのありがたいお墨付きだ。二人助かっておしまい、それでいいだろ」
静かに目をつぶった彼女が大きく溜め息をついた。しゃがんで、注意深く斜めのリングを下りていく。掴みたまえ、と乗り気じゃないふうに腕を垂らした。上戸さんが背に腹はかえられないといったように掴み、寝そべるようにしてようやく上がる。
ナイスだ麗葉。
彼女は納得してないみたいで唇を尖らせて睨んでくる。そう邪険にするなよ、新作読んであげるんだから貸し借りなしにしよう。
ホッとした僕の目に信じられない光景が映った。首に上戸さんの腕が巻きついてる。感謝の抱擁には見えない、スリーパーホールドをかけたんだ。
「早く助けなさいよ、グズ。死ぬかと思ったでしょ」
愕然とする。助けてくれた相手にどうしてそんなことができるんだ。それにあれは以前、僕を気絶させた技だった。一瞬で気持ち良くなれる。麗葉は咄嗟に腕と首の間に片手を入れてた。絞まるのは時間の問題だ。
上戸さんに呼びかける。彼女は可愛らしくベロを出し、ごめんね、とおどけた。
数年で人がこんなに変われるとは知らなかった。かつての彼女はこんなことしない。恩を仇で返す人間じゃなかった。僕が勝手に美化してたっていうのか。嘘だ、そんなの信じたくない。
ついに麗葉へ腕が決まった。落ちたのをじっと観察し、ゆっくり下ろす。すぐサメのエサにしないのは、せめてもの良心か。踵を返してゆっくりと鉄骨へ移動する。未着手の西側のドア。ワイヤーが欠けてるせいで再度傾く。
ドアの鍵をなんとか取った。
手錠の鍵も手に入れようとしてやめる。捨てておけば麗葉が爆弾から逃れられなくなるが、傾きの中で無理して落ちては阿呆らしいと判断したんだ。あとは安全地帯へ逃げれば勝ちだった。麗葉が目を覚まさなければリングが急降下してサメの餌食になってしまう。
停止した上戸さんが彼女を見つめた。
蹴り。
蹴って転がし始めた、水面へ落とすつもりだ。一時的に放置したのは良心でもなんでもなく、確実に鍵を保持したかったからなんだ。最後の仕上げとして麗葉を殺害してフィニッシュにしようとしてる。
「やめろ、上戸さん! 勝負はもうついてる、どうして罪を増やそうとするんだ!」
「殺したいから」
至極簡潔で究極の動機だった。麗葉の左半身がほとんど床を出てる。
「貧相な体のくせに重いわね、さっさと落ちなさいよ、このっこのっこのっ」
小刻みな蹴りじゃらちが明かないと見てか、サッカーのセンタリングを思わせるほど片脚が後ろへ大きく浮き上がった。
硬直する。散々の蹴りで麗葉が覚醒したんだ。軸足を掴んでる。
かちゃん、と軽やかな響き。上戸さんの足首に手錠がかかってた。もともと自身が外した方だ。
「なっ!?」
蹴りのモーションにあった体勢を直すしかない。麗葉を落としてしまえば上戸さんも落ちる。有利と不利が分からなくなってきた。脚に手錠があっては満足に動けない。
軸足を引いて転ばす。上戸さんが激しく側頭部を打った。鮮血が額を濡らす。患部を押さえて呻いた。
のっそりと麗葉が起き上がる。
「やはり伊吹は甘い。角砂糖百個より、いや千個よりも甘い」
そんなにあれば百個も千個も変わらないって。
ツッコミを入れる間もなく、彼女の膝が上がった。真下には敵の頭。
踏む。踏む踏む踏む。
残虐なる攻撃だった。脚は腕の三倍の力があるという。加減したにしても意識を切断させるのは容易だ。こうなってはどんな有利な状況でも関係ない。上戸さんはぐったりして動かなくなった。
あっさりした逆転劇だ。人間は脆い。
ドアの鍵を奪い取り、相手を引きずりながら悠々と手錠の鍵も入手した。爆弾付きの拘束を外して放る。鉄骨にかかって垂れ揺れた。反対側のドアへ入れば勝負が決まる。上戸さんをまたいだ。
足首を掴まれる。力はない、簡単にどけた。
鉄骨を渡って鍵穴を回す。ようやく上戸さんが這って阻止しようと進んだ。到底間に合いそうにない。
個室の安全地帯内で振り返り、その姿を見据えた。
閉めればサメのエサになる。思い出や人格を無視して肉になる。この世をいなくなってしまう。消えてしまう。僕自身からもなにかが消えてしまうようだった。それは、そう、手とか足とか目鼻口とか、そういったものを失う感覚だ。
「やめるんだ、麗葉。ドアを閉めるな、上戸さんを待ってくれ」
「まだ言うかね。彼女がどういう人間か分からないわけではないだろう」
「少しでいいんだ、待ってくれ」
森里さんが来たら僕は殺される。死ぬのは嫌だ。かつて心を交わした同級生が死ぬ姿を見るのはもっと嫌だった。
「お願いだ、麗葉。頼む、この通りだ」
手摺りに額を痛いほど押しつけて頭を下げる。上戸さんが犯した罪は消えない。起こってしまった過去は戻らない。逮捕されればしばらくは会えないだろう。
未来は自由だ。新しく切り開いていけばいい。そうして僕と上戸さんと綾木で、あの頃みたいになれたらいい。それでいい。死んでしまったら、それもかなわなくなる。
「悪いが、私はドアを閉めさせてもらうよ」
「麗葉」
そうだ、乗り気じゃないのに既に一度助けてる。二度目はあり得ない。麗葉は麗葉なりに譲歩したんだ。彼女を責められない。
責めるとしたら──僕自身だ。
彼女が上戸さんを見る。
「伊吹は君に助かってほしいらしい。頑張りたまえ」
ドアが無情にも閉められた。天井の方で一際大きく金属音が鳴る。ワイヤーのブレーキが解除されたんだ。
落下。
盛大に飛沫が舞い散った。上戸さんを包みこんでいく。こうなっちゃどうにもならない。手錠が爆発してサメに食われ、遺体も残らなくなる。
上戸さんは殺人を犯しました。殺人は悪いことです。その罰は死ぬことでしか償えないんですか、神様。
無神論者の僕は初めて天に祈った。それしかできなかった。
願いが通じる。跳ねた海水が落ち着いたのに彼女は無事だった。あぐらをかくようにして背を丸め、水面に浸されたリングより上へ足を持ち上げてる。爆発をなんとか免れたんだ。
あまり喜べない。ワイヤーはそれ以上は緩まないものの、サメが周囲を旋回してた。彼女へ食らいつくのは難しくない。上戸さんも承知してるはずだ。
絶望は窺えなかった。
垂れた前髪をどけるでもなく、一心不乱に手錠をいじってる。
水面にサメ肌が鮮明に見えた。水音をさせて高く跳び上がる巨体。非情な口。巨体が彼女を隠した。
上戸さんが立ち上がり様にジャンプする。無謀だ。食われるのを逃れたって爆発してしまう。運良く一命を取り留めても食われる。結末は見え見えだった。
轟音が耳をつんざき、視界をも奪った。想像以上の破壊力だ。
肉片があたり一面へ弾けてる。滞空してた肉と鮮血が次々に降り注いで水を濁した。上戸さんの姿はない。
「よくやった、トスミ。イラストリアスは、そうでないとな」
部下が死んだというのに、この男は……。
我慢できなかった。あと先は考えられない。乱暴に襟首を掴んだ。
「最低野郎だな、お前は。お前なんかに会わなかったら上戸さんはな、いまごろ平和に暮らしてたんだよ。彼女の未来を壊しやがって──」
表情を変えずに手首を握られた。人差し指と親指で摘ままれてるだけなのに力が弱まってしまう。なにかの技らしい。戦って勝てる気がしない。僕もこれで終わりか、クソッ。抵抗ぐらいはしてやる。
怒るどころか立神は微笑した。
「早とちりをするな」
リングの方を指差してる。ずぶ濡れの少女が床に上がってた。重傷を負ってるふうでもない、まったくの無事だ。
「ヘアピンで手錠を外したんだ。多少の時間を使えば誰でもできるだろう」
色んな感情がごちゃ混ぜになる。立神にぶつけようとしてた鬱憤は彼女が死んだと思ったからで、生きてたとなると僕の誤解で、だからって謝るのもおかしいし、それよりもなによりも上戸さんが生きてた。
喜べ。
安堵と疲労感が降りてきてベンチに体重を全部預ける。体内に磁石を仕込まれたみたいだった。背もたれにくっついて離れられない。
先に安全地帯へ逃げこんだ者の勝ち。
ルール通り、ゲームは終了された。仏頂面の麗葉が観覧席へやってくる。頭をぽんぽん叩いてやったら鬱陶しそうに振り払われた。夢や偽物じゃない実物の比佐麗葉だ。
びしょ濡れになった上戸さんも息を切らして帰ってきた。手摺りに寄りかかり、いまにも床へ伏せるんじゃないかと思える。
手を貸そうとして立神にブロックされた。
「お前の負けだ、出ていけ」
労いの言葉や態度は一切ない。
「私は負けてません。立神様も見てたでしょう、いつでも勝てたのを。比佐麗葉は私より格下です」
「お前は重要な任務で、成功させようと思えばできたけど失敗しました、とでも言うつもりか。無能は邪魔だ」
ぐっと黙りこむ。
正論だった。彼女だって十分に理解してる、子供のわがままだと知ってる。
理屈じゃないんだろう。認めたくないという最深の原始的な感情が働いてるんだ。
「しかし、きっと次のゲームでもお役に立てるはずです」
「爆発で鼓膜でも破けたか? 出ていけ、と言ったんだ」
「でも──」
拳が無情にも彼女を薙ぎ倒す。
ほっそりした顎を掴んで立神は顔を近づけた。
「いいか、これでウルルンを計れるのは俺しかいなくなった。お前では力不足なんだ」
上戸さんが小刻みに震えてる。申し訳ありませんでした、と呟いた。
解放されると麗葉を睨みつける。どんよりと暗い感情のこもった瞳だ。おぼつかない足取りで去ってく背中に呼びかけても無視された。
「振られたのだね」
「だまらっしゃい」
ケガしてなきゃ本気で殴ってやるところだ。こいつにはデリカシーってもんがないのか。
上戸さんが警察に捕まってくれるのを願った。
森里さんはどうしたんだろう、約束の時間は過ぎてる。慎重になる必要があるからジャストで来れるとは限らないが、予兆もないのはどういうことだ。いや、僕なんかに察知されるようじゃ駄目なんだけど……。
「なんだ、なにかあるのか」
首を伸ばして僕の視線の先を追う立神。心臓が止まりそうになった。
なんのきなしに、別に、と否定する。
「さっさと次やろうぜ。こんなクソゲーム、長々とやりたくも見たくもねぇよ」
「安心しろ、次が最後だ。おそらく二人が喜ぶ最高の舞台装飾を用意した」
目が糸の如く細められた。それは悪寒が走るほど満面の笑みだった。
次話更新予定は未定です。
Next:「■刃中の羽虫・クライマックス」
長らく期間が空いてしまい申し訳ありませんm(_ _;)m
某新人賞へ投稿するために、別作品を執筆していました。
無事に書き上げることができたので、こちらを再開しようと思います。
もはや読んでくれる方がいるかどうか分かりませんが、
物語は終盤なので最期までお付き合いいただければありがたいです。
感想やコメント、アドバイスなどお待ちしています^^
▼作者ページメッセージにて2008/12/13にコメントをくれたKさん
一気読みしていただけたんですか!
ありがとうございますm(_ _)m
やはり堅苦しさを感じさせてしまいますか。
昔からの課題だったりもします;
どうにか柔らかい印象の文章を書こうと思うんですが、なかなか改善できずにいます。
今後、更なる読みやすさを追究していきます♪
強烈なインパクトを持たせたいと思って書いているので、
その点は伝わっているようで安心しましたo(^ー^)o
励みになる感想、ありがとうございました^^