■優柔不断は嫌われる(2)
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七マス目。
彼女の回答は信じるに足らない。いくら麗葉でも二択で気の利いた返しは言えない。せいぜい逆を応えるぐらいだ。ここまで来た僕が、裏をかいたんじゃないか、なんて考えると予想するに違いない。
この奇数マス、本来は交換しないんだ。
「交換するぞ」
グラスをベルトコンベアーに置く。立神の不敵な微笑は気にしない。
裏の裏。敢えて素直に交換する。彼女の回答は信じないけど、結果的に言葉通りの意味で捉える。おそらく初めの一歩、あの時点でミスを犯してた。全ては逆だったんだ。まんまとハメられた形。
グラスが流れてくる。これが偽物だ。とうとう互角になった。麗葉の反応も、いちいち思考に入れちゃ騙される。考えてみれば向こうはリアクションで誤解を与えるのが武器になる。行動と結果、参考にするのは二つのみで十分だ。
八マス目。
サイコロはもう何度目か、また僕の目を出した。ツキを支配してる、試してみるのもいい。
「離脱だ、立神」
「ウルルン、打ち消し」
笑いが込み上げてきそうだ。一種の賭けだった。どうせ確認しとかなきゃ、あと五マスで終わってしまう。ぐだぐだな展開になってどっちがどっちか分からなくなって自棄に離脱してしまうだろう。
踏みこむ必要があった。
麗葉を読み切った。最初っから僕の考える方向性は丸見えだったんだ。恐ろしい奴、危うく罠にかかるところだった。
僕の逆襲が始まる。既に彼女に打ち消しを二回消費させたんだ。勝った、勝てる。
九マス目。
麗葉が交換を宣言する。確証に確証が重なったようなもんだ。渡されたのが本物、小細工は利かない。残り四マスを上手く切り抜ければいい。なんせこっちはあと一回の打ち消しがあるんだ、いざとなったら保険になる。有利は揺るがない。
四マス、か。
なにかが引っかかった。それほど有利ってわけじゃないんだろうか。次の一〇マス目は一問一答だ。特例として質問をしない場合は離脱の権利が発生すると言ってた。麗葉のサイの目が出て離脱したら本物を持ってる僕は打ち消しを使い切ることになる。簡単に立場は互角になってしまうんだ。否、本物を持ってる分、僕が危険だ。
頭を掻きむしる。つまり、どうなんだ。本当に必勝の道はないのか。紙とペンが欲しくなる。一から整理しよう。もし打ち消しがなくなる最悪な状況になったとして、僕はどうしたい? もちろん交換したい、本物の放棄だ。
交換の奇数マスはあと二つある。十一マス目と十三マス目だ。十一マス目で交換して偽物をゲットする。次が一三マス目。麗葉が交換を宣言するってことか。最終的に僕へ戻ってきてしまう。
そうなんだろうか。このゲームにおいて十三マス目の交換は得策じゃない。勝敗が決まらないで岸に辿り着いちゃったら銃殺されるルールだ。どっちも交換は宣言できないから離脱マスとなり、サイコロが振られる。どんな目が出ようとも関係ない、僕と麗葉は一か八かで離脱する以外にないんだ。例えニトログリセリンを持ってると分かってたって命は助かるかもしれない。
てことは、十一マス目で偽物を掴む僕の勝ちは揺るがない。一問一答で麗葉に離脱を宣言されようとなんも変わらずだ。
この勝負、もらった。
一〇マス目。
転がるサイコロを落ち着いて見れる。僕はにやけてしまった。質問の権利が与えられたんだ。最も望ましい展開だった。打ち消しを一つ余らせて最終局面へ移れる。
シャッターが開いた。
彼女は俯き加減になってる。これが麗葉と交わす最後の会話かと思うと犯罪者相手でも感慨深くなった。
遠慮はしない。
初めは殺し合いと聞いて戸惑ったが、そもそも立神が企画したゲームで僕が手を下すんじゃないんだから殺人にもならないんだ。なによりも麗葉は僕に対して代償のきかないことをしてる、自業自得だ。
「悪いな、俺は普通の生活に戻りたいんだ。次の交換で本物はあんたのところへ行き、十二歩目で俺の目が出れば離脱して勝ち。出なくても、十三歩目は交換しないから天運に任せて二人とも離脱するしかない。だから、俺の勝ち。そうだろ?」
質問なんてないし、素直に応えてくれるとは思ってない。離脱マスにしないために、べらべらと筋道をしゃべったんだ。明解な結末を教えてやり、どんなことを言うかも興味があった。
麗葉は空中に視線を漂わせてる。
なんだよ、なんか言え。ゲームは終わってると知ってぐうの音も出ないってか。最後に一言を聞かせてくれたっていいだろ、謝罪だってなんだっていい。俺の中で完全な犯罪者として終わるつもりかよ。
電気ショックでも食らったみたいに麗葉の首が上がった。
「伊吹、気づくのだ! このゲームは──」
シャッターが強制的に閉まった。立神の阻止だ。
「一問一答、ルールは守ってもらわないとな。イエスかノーがいまの質問に対する模範回答だ、ベビー」
構わずに麗葉がなにかを叫んでる。声は遠くて全然聞こえない。
なんだ? なにが言いたいんだ? 六マス目の一問一答と比べて明らかに異質だ。それだけじゃない、ここに来るまでの彼女の雰囲気とは全然違う。ついさっきは淡々と進めてたんだ。それがどうして終わり間近になってそんな態度になる。作戦を変えたのか?
そんな悪足掻きするタイプじゃない。
気づいた感じだった。そう、麗葉は気づいたんだ、ゲームのなにかに。
なにに? なにがあるんだ。
両方とも本物のニトログリセリン? 立神ならやりそうだ。片方は偽物と言っておいて、両方が本物であると気づかなければ生き残れない仕掛け。確信し、離脱をした直後に二人して爆死なんてのはありきたりな展開だ。もしくは反対に、両方が偽物か。
十一マス目。
推測の域は出ない。考え方は当たってる気がする。他に、なにがあるんだろう。麗葉がジェスチャーを禁じられて黙りこくってる。
分からない。僕は正規のルールでやるしかないんだ。
「交換、だ」
「イヴ、交換」
本物は麗葉に行った。終わり良ければ全て良し。早ければ、いよいよ次で決まる。
十二マス目。
サイコロがテーブルを転がった。自分の目が出てほしいのに、結果を知りたくない気持ちがあった。心臓が加熱したエンジンの如く、どっどっどっどっと暴れてる。
なんだかあらゆる動きがもっさりと見えた。サイコロも、添えられた立神の手も、僕も、持ったグラスの液体も、麗葉も。
後頭部の古傷が痛んだ。気分が悪くなってくる。
来た。
右側が騒がしかった。麗葉が騒いでるんだ。本来、聞こえない声が耳に届く。ぎゃーぎゃー叫んでるだけで内容はなにも意味を含んでない。ベルトコンベアーに乗っかり、ガラスの壁を思いっきり叩いてる。
おいおい、そんなにしたらグラスの中身がこぼれるぞ。あんたの持ってる方が本物なんだ、無茶するな。そんなにしてまで、なにを僕に伝えたいんだ。
嘘だろ。麗葉がグラスを高々と持って振りかぶってる。投げた。コマ送りでグラスが砕け、雫が舞ってる。ただただ茫然としてしまった。
呼ばれて我に返る。サイコロが僕の名前を上にして止まってた。離脱の権利が難なくもらえた。
それにしたって、この予知はなんだったんだ。いくら強化ガラスだって直接にニトログリセリンがぶつかれば破片ぐらいは飛んできそうだ。
このあと麗葉が本当にそんなことをするのか疑問だった。彼女らしくない取り乱しようなんだ、いま橋の上でじっとしてる姿からは想像もつかない。
「どうした、イヴ。さっさと選ぶがいい、離脱をするのか、しないのか」
「一つ訊かせてくれ。本当に本物を持ってない方の安全は保障されるんだろうな。例えグラスがどんな状態で飛ぼうとも」
立神は、そんなことか、と言う。
「むろんだ、俺の計算に狂いはない。もっとも、マスにしがみつかず落下して打ちどころ悪く死ぬなんていうドジを踏まなければだがな」
それならいい、必勝だ。百パーセントの勝ち。あとは言うだけだった、離脱、と。
麗葉へ視線を向ける。ワイングラスの柄を握ってこっちを見てた。同じだ、たぶんこの場面だったんだ。
り、と言いかけた瞬間、彼女は目を大きく開いた。ベルトコンベアーに乗り上げて口を慌ただしく開閉して喚いてる。今度は声は全然聞こえてこない。
グラスが高々と上がる。僕は目をつぶってしまった。予知しなくたって次にどうなるか分かる。人が、彼女が粉微塵になって吹き飛ぶのを眼球に焼き付けたくない。
そんなんで良かったのか、あんたのその行動は最良だったのか。なにか作戦があったんだろ。あんたならできたんじゃないのか、スーパーベビーなんだろ。クソックソッ!
無音。
ひたすらに沈黙が訪れた。防音仕様ってのは大爆発が起きても影響を受けないんだろうか。それとも僕も被害に遭って死ぬと意識する前に天国に来ちゃったとか。
ゆっくりと視界を開いていく。
ガラスの壁には油質を含んだ液がしたたって虹色にきらきらしてた。爆発してない、麗葉は無事だ。液体の性質上、爆弾でもあるまいし不発じゃないだろう。結果として表された方程式の解は、僕が持ってる物こそが本物のニトログリセリン。君も割ってみろ、というサインには見えなかった、両方が偽物の可能性は低い。
麗葉は教えてくれたんだ、こっちが本物だと。なんでそんなことをしたんだ。分からない、分からない、分からない、分からない……。
「やれやれ、ウルルンには困ったものだ」
静かな響きは立神だ。
ゲーム内でのジェスチャーやサインは禁止されてる。
彼女は殺されなかった。意外にも彼は先へ促した。これはこれであいつにとって楽しめるシチュエーションなんだ。僕は死ぬと知りながら離脱しなくちゃならない。麗葉にサイの目が出ても同じ。離脱し、僕が死ぬのを眺める以外にない。十四歩目はないんだ。橋を渡ってしまって二人とも死ぬのは馬鹿馬鹿しい。天国行きの切符は一人分で良かった。
つい数分前の余裕は一切なくなった。考えてたのと逆だったとすれば、完全なる敗北を意味する。自信がそのまま裏返ったんだ。肩で気張ってたものが抜けていった。
離脱はできない。
十三マス目。
「さぁて、最後のマスだ。交換したきゃ素直に伝えろ、いい子にな。どちらもしないなら離脱の権利を左右するサイコロを振ってやる。最高だろう?」
いちいち虫酸を走らせる男だ。敢えて訊かなくたって、ゲームは終わってる。僕が死んで、はいおしまい。他にどうしろってんだ。黙って死ぬしかないんだろ。誰でもいい、一発逆転ホームランできる案があるなら教えてくれ。
ありっこない。
なぜか中学時代の光景が映像として網膜に甦る。予知能力の一端かは知らない。
中学校の理科室だ。そこが文芸部の部室だった。部長が僕で、副部長が上戸さん、書記が綾木。たまたま三人しか集まらなかった日があった。僕達以外の部員は各々なんかしらの用事で来なかったんだ。
いつもと変わらなかった。三人しかいなくても寂しい部活風景にはならず、やたら盛り上がったっけ。あの小説のどこが面白いとか、書いた作品のここはこうすべきだとか、普段と過ごした時間が同じなのに有意義な一日になった。
その光景のなんて遠いことか。みんなばらばらになってしまった。僕はもっと遠いところへ旅立とうとしてる。
なんでだろう、死ぬときが来たらそれはそれでまぁいっか、て長いこと思ってたのに、このどうしようもない世界を離したくない。離したら、全部終わってしまう。嫌だ、遠ざかりたくない、死にたくない。
「イヴ、諦めろ。ルールはルールだ、死ね」
淡々としてた。声のトーンと内容がそぐわない。
こんなにあっさり死なないといけないのか。せめて、大往生。精一杯戦って誰かを救ったり──贅沢は言わない、救わなくてもいい。そうだ、満身創痍で死ねるなら許せる。病気でもなんでもないのに、人生の折り返し地点にも達してないのに、なんで生きてちゃいけないんだ。
「無能が生きるのはそんなに悪いことなのかよ」
「なんだと?」
「何遍だって言ってやる。無能が──」
モニターを睨みつけてやろうとして、立神の言葉が僕に向けられたものじゃないと察する。麗葉が珍しく身振りを大きめに怒鳴ってた。
間もなく例の嫌な笑い声が聞こえてくる。
「命拾いしたな、イヴ。ウルルン、交換だ」
なんだって? なんの意味があるんだ。そんなの犬死にだ。交換したら最悪な事態になる、無理心中と相違ない。あんたに死なれたって僕は嬉しくなんてないんだぞ。そんなんだったら生きる道を考えてくれ。上戸さんも綾木も、みんなが幸福になれる行動をしてくれ。
「交換だ、グラスを置くんだ。ウルルンがここまで阿呆だとはなぁ、恨むなら彼女を恨めよ、イヴ」
なに考えてんだ。こんなことしてなんの得になる。二人とも、あと一歩を進んだら容赦なく殺されるのに。グラスを落とす場合は、一か八かで生き残れるかもしれないのに。
打って変わっておとしなくなった麗葉。
もういい、どうとでもなれ。
僕はベルトコンベアーにワイングラスを置いた。
置こうとした。手を離れなかった。
目の前をフラッシュがよぎった。脳内に清涼感が吹き流れる。
そうだったんだ。
改めてグラスを持ち直し、僕は岸へ右足を乗せた。
「どうした。マスに戻って交換しろ、さもないと殺すぞ。どちらにしろ殺すが」
「やってみろよ、クソ野郎」
後悔するなよ、と聞こえてモニターが暗転した。
すぐにドアが開く。ご丁寧に銃口が初めから僕の脳天をロックオンしてる。麗葉側には上戸さんだ。麗葉がガラスを叩いてなにか言ってる。必死だ。そりゃ必死にもなるか。あんたがやろうとしてたことだもんな。
「どうやら俺の見込み違いだったようだな、がっかりさせてくれる。薬指を収集する価値もゼロだ」
「収集どころじゃないだろ。あんたに俺は殺せない。いや正確には、俺を殺せばあんたも死ぬ。違うか?」
立神の片眉がぴくりと動いた。
僕は続ける。
「あんたは初めにこう言った。決着つかなければそのグロックで殺す、と」
「ああ、言った。だから殺すんだ」
「いいや、殺せない。このゲームはそもそも成立しないんだ。なぜなら──」
強気に足を前へ動かす。近づくのが一番いい、この位置がとてもいい。
「──ニトログリセリンを持った人間が、こんな至近距離にいたんじゃ撃てねぇからだ」
トリガーが引かれれば例外なく僕の額に穴が空く。銃口まで、ほぼゼロ距離だった。恐すぎる。無意識で腕が震えた。液体が波打ってる。
ほとんどハッタリだった、なんの解決にもなってない。奴には、こっちの考えなんて見え見えだ。じゃあ死ね、と言いかねない。
いまだに麗葉は透明な分厚い壁を叩いてる。どんどんどん。そんな音が聞こえてきそうだった。彼女を信じ切れなかったのが心残りだ。だけど信じなかったからこそ、この状況が生まれた。それは良かった。あとは野となれ山となれだ。
「さぁどうすんだ、撃つのか撃たないのか、男ならさっさと決めがやがれクソ野郎!」
立神が口角を持ち上げる。
「両方が偽物とは考えないのか。建物自体の耐久性を考慮し、あらかじめこちらが仮のニトログリセリンとして設定していて、そのグラスを持つ者を射殺するつもりだったとしたらどうだ」
それはない、と否定する。
「麗葉が交換を宣言した意味がなくなる」
「本物かどうかはグラス選択の時点で彼女が確かめてた、と?」
「そうだ。試しに小さな爆発を起こしてもこっちには聞こえないからな」
「交換や他の駆け引きはお前を陥れるための演技かもしれないぞ」
確かに。どちらも偽物なのが伝わらないよう逆を演じてるのかもしれない。僕を死へ導くために。彼女ならルール違反であっても立神が殺さずにおくこともあるだろう。生か死か、ぎりぎりの攻防になる。
だけど──
「そんな器用なことができる奴じゃないって俺は知ってる。見ろよ、あの慌てよう。あれが演技か」
歯を剥き、唾液を撒き散らし、鼻水垂らし、食い破らんばかりに壁にへばりついて拳を叩きつけてる。
「死んでもらっちゃ困るってよ。俺はあいつの先生なんでね」
これで無理なら、終わり。
OKだ、満身創痍、こうでなくっちゃ。僕はいま納得してる。死んでもいいなんてどうでもいい気持ちにはなってない。生きれるなら生きたい。死を受け入れる準備が済んだ、ただそれだけのこと。
十三階段のあとに待ち受けるのは首吊りの輪っかなんだろうか。それともしょうもない現代社会へ続く道か。立神の薄く開いた瞼、その奥の黒目を睨む。
拍手。
拍手。
銃をしまい、立神と上戸さんが両手を打ってる。
「正解だ、イヴ。瀬戸際だったな」
「このまま帰っていいなら大喜びだ」
強がってみせた。そんな余裕はどこにもない。腰が砕け、せっかく生き残れたのにニトログリセリンを落としてしまいそうだ。
「おっと気をつけろ、楽しくなるのはこれからだぞ。グラスをそこに置いて来るがいい、次のステージを案内しよう」
言われるまでもなく、そっと膝を曲げてく。ちょっとの衝撃でこぼれる代物だ、最後の最後まで注意した。
リノリウムの床にグラスの底が触れた。優しく手を離す。
立神が背中を向けてた。隙だらけだ。
一つの策を閃いた。ここでニトログリセリンをぶっかけてやれば奴は死ぬ。僕も死ぬ。今後被害者がいなくなると考えれば自分の命ぐらい安いじゃないか、それが正義ってもんだ。森里さんに──僕が本来なりたかった人間になれる。
やるか。
再びグラスを握る。やたらと重みを感じた。床からビー玉ほども離れてくれない。なんで、できない? 死をも覚悟した僕はどこ行った。
ここでやんなきゃいままでと変わらない偽善者だ。中学時代の自分ならやる、自滅覚悟で特攻する。いまだって根本は変わってない。やれる、いける、やれ、いましかない、やるんだ。
「伊吹!」
立神を突き飛ばして麗葉が入ってきた。しゃがんだ僕に差し伸べられる小さな手。自分が息を荒げてると気づく。暑くないのに汗が噴き出てた。
体温を感じた瞬間、安らぎが注入されていく。天国に昇る気分だった。なんて頼もしい手をしてるんだ。
握り返さずにはいられなかった。
ドアをくぐると立神がサイコロを指で弾いて飛ばし、キャッチしてる。三回繰り返したあと、いきなり歯で挟んだ。破砕する響き。ぷっと吐き捨てられ、麗葉の足元に転がった。半ばで割れてる。
「重りか」
摘まみ取った彼女は断面を見つめてる。大部分はプラスチック素材なのに、一面のみに金属質の物体が埋めこまれてた。両断された麗葉の名前に隣接してる。その裏側は僕の名前だ。
きゃっ、と短い悲鳴。立神が容赦なく上戸さんを殴りつけたんだ。止めに入ろうとすると彼女本人に止められた。
「どうりでイヴの目ばかりが出ると思った。このゲームはサイコロで左右するからな、ウルルンを不利にしようと愚かにも考えたんだろう」
ゲーム中に僕も感じてた。夢中になってて、てっきり運がいいんだと思ってたら、そういう種があったんだ。通常でも確率は二分の一。連続で出ても、それほど不自然じゃない。ましてや、上戸さんが細工してるとは思いつきもしなかった。
膝をつく彼女に強烈な靴先が放たれる。上半身が跳ねて床に倒れた。
ぶち切れそうだ。立神に食ってかかって殴り飛ばしてやりたいのに、上戸さんは望んでなかった。奴をよく知ってるなら、こうなるのを覚悟してただろう。僕が間に入ったら、余計に困らせてしまう。
見てて堪えられなくなったら突撃すると決め、拳を固めて静観する。
「使えるようで使えないメスだ。日本滞在中は時間的融通のきくお前に補佐を任せたのは俺だが、ここまで恥をかかせるとはな」
危うい匂いが室内に漂った。次には銃をぶっ放すんじゃないかと思えた。
よろめきながら、お言葉ですが、と上戸さんが立ち上がる。
「立神様は命令以外で動けない能なしをお望みですか」
風を切った平手が頬を弾き、彼女を傾かせた。ぐっと膝で踏ん張って改めて自分の主人を見上げる。
「私は比佐麗葉が憎い、殺してやりたい。そして証明したいんです、この女よりも優れているのを」
彼女の頭に手が置かれた。安堵の表情へ変わろうとする瞬間、苦痛に満ち溢れた喘ぎが漏れる。長い髪を乱暴に掴み、そのまま持ち上げられたんだ。ぷつぷつと抜ける音がこっちに届く。爪先立ちになり、やがて床を離れた。
立神は視線の高さにまで上げ、唇をつぐんで必至に悲鳴を我慢してる彼女を睨んだ。
「できるのか、たかがお前如きに」
腰のナイフを抜き放ち、上戸さんがしっかりと目を開く。
「訊かないでください」
切りつけた対象は自らの髪の毛だ。着地した彼女は雑なショートヘアーになってる。毛先が不揃いで、綺麗な黒髪は見る影もない。
「やれ、とご命令ください。全身全霊をもって実現します」
立神の手を離れてはらはらと髪が舞う。黒い塊が床に散らばった。
彼女の瞳には決意の色がありありと窺えた。僕の知ってる上戸さんはそこにいない。
振り返る立神。
「イヴ、悪いが少々休憩してくれ」
通路へ続くドアを開けて向き直る。上戸さんを見てた。
やれ、と一言。出ていく。
彼女の顔が晴れ渡った。
「ありがとうございます、一人前のイラストリアスになってみせます」
深々と頭を下げる。ヘアピンを付け直して麗葉を睨むと彼についていった。僕達もあとに続く。また永遠に延びる廊下を歩かなきゃいけないと思うと気が滅入る。一回休みってのが救いだ。
「おいおい、私に拒否権はないのか」
「あったら、こんなとこには来てねぇだろ」
「頭いいな、君」
「馬鹿にしてるだろ。上戸さんに痛めつけられちまえ、クソッ」
ああ、こんなやりとりをできるように戻ったんだなぁ、と懐かしくなった。
完全には気持ちを整理してない。麗葉の事務所みたいな汚さだ、なにがどこにあるかさっぱりだった。片付けようとしてもどうやって棚に収めればいいか分からない。
分からないなら、放置するに限る。
歩いてると小さな影が飛んだ。軌道を追うと麗葉の右手からだった。腫れて出血してる。ガラスの壁を闇雲に叩いたせいだ。
触れるとぎゃっと痛がった。こんなになるまで叩くなんてどうかしてる。
「アンポンタン」
「うるさい、触るな。君は鬼か」
「こらこら、おとなしくしてろよ、ほら」
常備してるハンカチで縛ってやる。傷が治るわけじゃないけど、ないよりは痛みが薄れる。
「時給は上げないぞ」
「へいへい結構ですよーだ、雇い主様」
「金目の物もやらないぞ」
「期待してないっての」
「新作はちゃんと読んでくれたまえ。一言一句、読み流さずに」
「生きて帰れたらな」
ニトログリセリンを彼女に託すべきだったとちょっぴり後悔した。
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