■優柔不断は嫌われる(1)
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批評といった大層なものでなくとも構いません。
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電車を乗り継いでぎりぎり埼玉県手前の駅で降りた。窓越しに山と田んぼが目立って、方向を間違ったんじゃないかと何度も不安になった。電車一時間程度でこんな田舎景色が見れるとは。
駅前の人通りは多くも少なくもない。ファーストフード店や本屋があり、ちょっと行ったところにスーパーマーケットの看板も見える。学生や主婦が主に行き交ってた。バスに乗り換えて山間にできた私立大学を過ぎた頃には人気はなくなった。
バスで行けるところまで行って山道を徒歩する。舗装されてるのが唯一の救いだ。たまに乗用車が脇を通り過ぎてく。
ガードレールの途切れたところがあり、野山に向かって砂利道が延びてた。地図にはここを登っていくと記してる。
冬なのに衣服の下でしっとりと汗をかく頃、突き当たりにぶつかった。枯れたつたの絡まった金網のフェンスがしてあって、私有地の表示と熊出没注意の看板がいくつも並んでる。
「熊の平穏、破ればプンプン」
なんじゃこりゃ。
熊同士が手を繋いでスキップしてるところへ、リュックを背負った人間が木陰から出てこようとしてるイラストが描かれてた。山奥とはいえ東京に熊がいるんだろうか。異常気象だ森林伐採だで近頃は生物も住処を追われてる。いてもおかしくはなかった。目的地へ着く前に襲われちゃかなわない、さっさと行くことにする。
フェンスを越えてしばしの地点に屋敷はあるようだ。草木を分けて獣道を抜けていった。
背後を顧みる。自分以外が歩行する気配がしたんだ。僕が止まると風に揺れる草木の音しか聞こえなくなった。森里さんだろうか。それならあまり探るのは良くない。気づいてないふうに足を進める。
何度か誰かがついてくる似た感じがあった。今度は振り返らなかった。
突如として鉄格子の門が出現する。山には不似合いの洋館が鎮座してた。夜には絶対来たくない雰囲気のある佇まいだ。
インターホンを鳴らすと見た目の古さに反して自動で門が開いた。隙間から雑草が生え放題の石畳を辿ってドアに着く。鍵はかかってなかった。おじゃましまーす、と覗きこむ。
直線に続く廊下はレッドカーペットが敷かれてる。清潔感に溢れてた。壁は大理石で、高そうな壺が飾られてる。
出迎えたのは上戸さんだった。こっちよ、と案内してくれた。学校脱出時に負ったケガが完治してないんだ、右目に眼帯して首や手にも包帯が巻いてある。どこまでも続く廊下を黙ってついていった。
立神は昼ご飯の時間らしかった。食べ終わるまで待機してなきゃならない。呑気なもんだ、こっちは朝メシすら喉を通らなかったっていうのに。
いくつもの巨大な絵画や石像を過ぎて部屋に促された。移動に自転車が欲しくなった。トイレはしっかり各々の部屋にあるんだろうか、と妙な心配をしてしまう。
なにか飲む、と訊かれて戸惑い、じゃあウーロン茶を、と頼んだ。ソファーとテーブルがあるだけの簡素な室内にはキッチンや風呂が備わってて、ここだけで十分に暮らしていける。
冷蔵庫を閉じる音がした。お盆を持ってやってきた上戸さん。冷えたグラスを渡されて一口飲む。ゲームの前に毒を入れるせこさは立神にはないだろう。
お盆を置き、彼女もソファーに座った。改めてちゃんと視界に入れた。彼女が無事だったという安堵が遅ればせながら神経を駆け巡る。
「見たでしょ、新聞記事」
少女を教師殺人容疑で捜査してるっていう記事だ。未成年の犯罪は珍しくないのもあって扱いは小さい。
「高いクオリティの作品を何冊も出したのに、世間じゃあの扱い。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。ゾウリムシレベルの人間がいかに溢れてるかが分かるわ」
「しょうがないよ、読書離れが酷いみたいだから。マスコミは注目されそうな事件を取っ替え引っ替え載せるのが仕事だし」
「それにしたって、あんまりよ。相原君は私の小説を面白いって思わなかった? 思ったでしょ?」
うん面白かったよ、と一言。ウーロン茶をすすった。
苦い。
「そうよ、分かる人には分かるの。その点あいつは駄目ね、物書きの真似事してるみたいだけど無駄な時間。才能とセンスのある人間だけがこれからは生き残るのよ」
かける言葉はなかった。
僕は諦めきれないでいる。上戸さんがこうなったのは立神の影響がある。じゃあ奴がいなくなったらどうだ。今日、森里さんに逮捕されるとしたら、彼女は元通りの彼女になってくれるんじゃないか。
「上戸さん、約束してくれないか」
しゃべりを続けてる間に割りこんで言った。
なにを、と首を傾げてる。
「俺が生きて屋敷を出たら自首するって、約束してほしい」
駄目元の提案だった。
返事は予想を覆す。
「いいわよ。相原君には悪いけど、立神様は負けないもの」
「本当にいいのか、負けるイコール死ぬとは限らないだろ」
「望むのは平凡な日々でしょ。それなら勝つことのみが生きる道よ。負けて生きる道はあり得ないの」
「負けが即死のゲームをやろうっての?」
「それもある。でも違う。立神様は負けながらも生き残る者を同志に迎えるの。分かるでしょ、私の言いたいこと」
「死を回避できた底力のある人間が欲しいってことか」
「立神様を超える人材もいらない。世界各国をまわっても一人としていなかったけどね。輪を乱しかねないならナンセンスでしょ、尊敬と信頼のもとに私達は成り立ってるの。だから強い、だから安定する」
だから勝てば逃れられる。希望の道が見えてきたってもんだ。総合的に立神を上回るのは無理にしたって、僕には予知の能力がある。一矢報いて勝つチャンスはある。
「けど、勝ったとしても邪魔に思って命狙ってくるんじゃないか? 俺が立神だとして自分以上の存在がいたら早めに摘み取るよ」
「多勢に無勢って言葉知ってる?」
そうだった、夢幻倶楽部ってのは──。
「一個人として優れてても私達に反抗したところでたかが知れてる、頭脳集団の集まりだもの。そういう意味では立神様は謙虚で現実主義者よ、私を含めた世界の有能な人間の力が必要と悟ってる。人間は変われるわ、いまが無理でもいつか心変わりして手を貸してくれるかもしれないでしょ」
仮に反対勢力を作ろうにも、それこそ早々に潰される。世界に張り巡らされたネットワークにかかれば赤子の手を捻るようもんだ。なるほど、いいシステムだった。
それも今日で終わり。少なくとも、僕の中では終わりにしてやる。
天井に設置されたスピーカーから鐘の音が鳴った。インターホンだ。
上戸さんが溜め息をして出ていった。
暇になってなにをするでもなくうろうろする。壁紙や窓、その他装飾類はくまなく掃除が行き届き、ちゃんと管理されてる。物自体は適度に馴染んでて、昔から使われてるようだった。外観自体がもっと古いのを見ると、立神が所有してから数年以上は経ってるんだろう。
廊下が騒がしくなる。上戸さんが声を荒げてるんだ。誰と揉めてるんだ? ドアノブが回った。会話が鮮明になる。会話といっても一方的で、相手は無言だった。
「伊吹、やはりここにいたか。立神の招待状が届いたからおそらくそうだろうと思っていたよ」
麗葉だ。
僕は戸惑った。現場付近には森里さんが潜伏してるかもしれないんだ。立神と麗葉、この二人がいるところに森里さんが来たらどうなる。彼からしたら立神のみならず麗葉だって標的だ。シンプルな展開にはまずならない、当初の予定と差異が生じてくる。
僕が誰か──共通の敵方である警察に助けを呼ぶのを見越して立神は麗葉を招待したのか。事態がややこしくなればなるほど立神は逃亡しやすくなる。
深読みしすぎだ。変わらない、問題ない、僕は僕のやるべきことをやる。
「さて一緒に帰ろう」
麗葉がいきなり手首を握って引っ張った。目を丸くしたのは上戸さんだ。
「そんなことが許されると思ってるの?」
無視。強引な力に僕は歩かされる。
「新作ができたのだよ。前作を大幅に改稿したのさ。ボーイフレンド全員に批評させて推敲に推敲を重ねて最後にはみんな絶賛したのだ。きっと君も面白いと言わずにはいられないよ」
珍しく興奮した口調だった。前作というと「刃中の羽虫」だ。
呑気な発言には違いないがちょっと興味があった。それにしても分からない、見ろと言ったり見るなと言ったり会わないと言ったり一緒に帰ろうと言ったり、なにを考えてるんだ。引っぱ叩いたのを根に持ってるふうでもない。
こっちはそんな簡単に感情を吹っ切れるほど単純じゃないんだ。僕は人を撃った彼女を忘れない。本気で噛みついてきた彼女を忘れない。敵意の目を忘れない。忘れられない。
離れる。
「お前な、ここがどこだか分かってんのか」
「立神の館だろう? 馬鹿にされては困る」
「そうじゃなくて、状況を分かれよ。あいつのゲームをクリアーしない限りは無事でいられないんだぞ。招待されたんなら、あんたも俺と同じだ」
「そうよ、勝手は許さないわ。反抗した場合は殺すように言われてるのよ」
物騒なごついナイフを上戸さんが腰の鞘から抜き放った。警棒よりずっと殺傷能力が高い。いまの彼女なら容易にやってのける。そう思えてしまうのが哀しかった。
冷ややかに鼻で笑う麗葉。
「やりたければあの男と二人でやりたまえ、私はくだらない趣味に付き合うほどお人好しではないのだ」
「くだらない趣味とはな、相変わらずつれない物言いだなぁ、ウルルン」
グレーのスーツに身を包んだ男が静かに入室してきた。穏やかなしゃべりなのに部屋の空気が張り詰めた。圧倒的な存在感が充満する。
立神荘士、その人だ。
ペットボトルのミネラルウォーターを飲み、濡れた唇を手の甲で拭う。キャップを閉じて差し出すと上戸さんが軽く礼をして受け取った。
「メインの役者が消えるのは俺も困るんだ。どうしてもと言うなら二対二の殺し合いでも構わない、少々つまらなくなるがな」
麗葉は気乗りしないふうだった。僕だってそうだ、やらないでいいならやりたくない。命を賭けたゲームを誰が喜んでやるっていうんだ。
しょうがない。
殺し合うのよりは良かった。体術にも優れてるであろうこの二人に、しかも武器を持った二人に、例え麗葉に銃があるとしても勝てる気がしない。生存率はぐっと下がる。
麗葉もさすがにそんな危ない橋を渡るつもりはないらしい。
「舞台はどこなのだ、わざわざ屋敷に招いたからにはなにか準備しているのだろう。さっさと片付けて帰らせてもらうよ」
「さすが俺の見込んだ女だ。ビバ、スーパーベビー、存分に楽しもうではないか、邪魔が入らないうちに。なぁ、イヴ?」
邪魔が入らないうちに……なんで僕に問いかけるんだ。固唾を呑みこまずにはいられなかった。
深呼吸をする。気にするな、ここに来てから極端な考えすぎが増えてる。森里さんへ遠回しな救助を頼んだのがバレてる、そう仮定したとして、いま殺さないってのはまだ許容範囲なんだ。
もしくは森里さんが既に処分されてる。
おそらく、それはない。立神確保のために人数も多く集めてる。いくらこいつだって短時間で始末するには骨が折れるだろう。これからゲームをするのに応援に駆けつけられちゃ面倒になる。
バレてない、と思っておく。森里さんという切り札は健在だ。
麗葉が来るのは計算外だった。警察突入時、今度こそ彼女は容疑濃厚になる。僕は知らない、彼女のことより自分だ。生きてここを出るのが最優先だった。クソッ垂れたファンタジーワールドを脱出するんだ。
案内されたのは隣接したドア二つの前だった。いくつ目のドアかは見当もつかない。数に驚いたのに加え、通路が何度も曲がりくねってほとんど迷路だ。T字路や十字路が方向感を皆無にさせる。途中で逃げ出す選択肢はない。
僕は左の、麗葉は右のドアへ通された。隔離してなにをするつもりだろう。考えたって始まらない、おとなしく従った。背後でロックする音。随分な念の入れようで。初めて監禁されたときが脳を掠めた。
麗葉とは同じ部屋にいた。距離にして大股分。もちろん別々に入室したからには意味がある。間には透明な仕切りがしてあった。触れてみてガラス製だと分かる。麗葉は前方をじっと凝視してた。
部屋の手前と奥は岸になってて、真ん中はすっぽりと溝になってた。覗きこむと薄暗い穴が口を開けてる。いまにも吸いこまれそうだ、落ちて無傷でいるのは難しい。唯一岸を繋いでるのが狭い橋だった。その真下にはなにやらごてごてした剥き出しの機械が密集してる。
橋は一歩幅四方のタイル状になってて、一つ目は「1」と書いてあった。先を見るとタイルごとに数字が一つずつ増えてる。ガラスの壁と橋との間には、なにに使うんやらベルトコンベアーがあった。タイルに対して各一周分あり、シャッターを隔てて麗葉の方に伸びてる。回転寿司ゴッコをやるってんなら大歓迎だ。
向こう岸のドアが開けられて立神が出てくる。ヘッドホン型のマイクをしてた。あーあーテストテスト、と小声で呟き、咳払いをした。
「ひとまず二人には殺し合ってもらおうと思う」
絶句した。てっきり奴との勝負だと思いこんでたんだ。
麗葉と僕が? 殺し合う?
いくら犯罪者が相手で自分が生きるためだって殺人は勘弁してほしかった。だいたい四人中三人が殺人の経験があるってのはどうなんだ。健全な僕を引きずりこまないでもらいたい。
「あんたは俺達を試して夢幻倶楽部とやらのメンバーにしようとしてたんじゃないのかよ。二人とも有能な人材だとしたらもったいないだろ」
「敗北者は無能。そういうことだ」
酷く簡潔な返答だった。どんな屁理屈をこねたってゲームマスターの意向は絶対だ。舌打ちが出る。なんだって麗葉を殺さなきゃいけないんだ。状況が考慮されるにしたって僕まで森里さんに逮捕されてしまう。
「こんなところで人が死んでただで済むと思ってんのか。ここは──」
言いかけて言葉を呑む。警察が包囲してるなんて言えない。
「──人通りだってないわけじゃないだろ。誰かが迷いこんできたり、空から目撃されたり」
「心配には及ばない。屋敷から見える土地一帯は俺の私有地だ。上空を飛行したとしても生い茂った木々に邪魔されて屋敷すら窺えない」
屋外の草木が手入れされてないのも肯ける。目撃者ゼロ、人知れず山の肥料になれる。
埋めなくたっていい。屋敷内に放置されればこの広さだ、誰かが迷いこんできたところで発見はされない。
結局やるしかないのか。麗葉は特にリアクションをするでもなく突っ立ってる。そうだよな、あんたは銃を撃つのを躊躇しない。僕を殺すのもわけないだろう。悩みがなくて結構。
「質問は以上か? それではルールの説明をさせてもらおう。聞こえるか、ウルルン」
呼びかけに僕の隣に位置する彼女が口をぱくぱくさせてる。正確には近くなのに遠い場所から発声してる感じだった。言葉としては聞き取れない、防音になってるんだ。とすると、この透明な仕切りは思ってるよりずっと分厚い。
どこかに設置してあるマイクで声を拾って立神には伝わったみたいだ。
「よし、問題ないな。ウルルン、部屋の角に個室があるだろう。そこにはとある液体の入ったワイングラスが二つ置いてある」
彼の言う通り、試着室に似た空間が設けられてた。僕の方にはない、軽い差別だ。
指示を送ると上戸さんが木製のデスクを持って現れる。続けて金槌と紙を立神に渡した。
「この紙にはその液体を染みこませている。いいか、素晴らしくスリリングな液体だぞ」
デスク上に紙を置き、金槌が振り上げられた。なにが起こるのか見当もつかない。網膜に焼きついたのは衝撃的な現象だった。勢い良く紙を叩いた直後、デスクが破裂音を立てて爆発したんだ。
立神は手を叩いて大爆笑してる。
「ニトログリセリンだ、最高だろう? たった一滴でもグラスを容易に破裂させる威力がある。摩擦や熱、刺激に対して思春期のガキのようにデリケートなんだ」
悪ふざけにもほどがある。奴がさせようとしてることが徐々に想像となって膨らんできた。なににしたってくだらない。
「ニトログリセリンのテイスティング勝負でもやらせるつもりかよ」
「そう急くな、イヴ。いくら人生を変える事故を起こした張本人が相手だからって、短気は良くないぞ」
ちっちっちっと人差し指を揺らしてる。へし折ってやりたくなった。僕が軽口を叩くのは少しでも早まる鼓動を正常な状態にしたいからだ。
麗葉は立神の発言を否定する素振りなく無表情になってる。事故の犯人なのは真実なんだ。僕は無意識で奥歯をかち合わせてた。
あんたは高額な時給で謝罪してくれようとしてた。でもお金じゃ時間は戻らない。好き放題に殺して逃げ回ってる人間には分からないかけがえのないものを僕はいくつも失ったんだ。犯罪者とは所詮相容れない存在。
けじめをつけてやる。立神とも麗葉とも終止符を打つんだ。
上戸さんがデスクの残骸を片付けてる前で説明が再開された。
「いいか、ルールは簡単だ。まずウルルンにワイングラスを選んでもらう。ただし片方はニトログリセリンに色も味も匂いも感触も似せた液体だ。どちらが本物でどちらが偽物かはウルルンには分かるよう置いておいた。一人はニトログリセリン、一人は無害な液体を持ってこちら岸に渡ってもらう簡単なゲームだ。しかしニトログリセリンの入ったグラスを落とせば部屋の中は瓦礫の山となる、即死は免れない。ざっと三百ミリリットルを注いでおいたからな、脚をつまずかせて転んだ拍子にアパートを粉々にできるだけの量が入っていると思え」
「ちょっと待てよ。そんなもん、あっちが安全に決まってんだろ」
「彼女が自分の方で偽物を持つからか?」
肯く。偽物を持ってる限り、百パーセントの保障がされる。
彼はやや呆れたふうに肩を竦めた。
「イヴ、それではなにも面白くないだろう。こちらへ渡るといってもただ渡るだけではない。一マスずつ駆け引きを楽しみながらだ」
ジェスチャーといい話し方といい、とっても楽しげだった。僕のどぎまぎはらはらとする様子で遊んでる。
携帯の時計をチェックする。屋敷に入ってから十五分も経ってなかった。さっさと森里さんにこのふざけた野郎を捕まえてほしい。警察が突入されて慌てる姿が見てみたい。
「数字が見えるだろう、『1』から『13』までだ。奇数マスではグラスの交換を許可している。これはどちらが宣言しても構わない、強制的に交換できる。片方が行った場合、そのマスではもう宣言できず、次のマスに行くことになる」
橋を歩いて中央で停止する。
「ご覧の通り、この部屋は防音防壁仕様になっていて互いの意見交換はできない。その上、仕草やサインでの意思疎通も禁止している。特別なマスとして、『6』と『10』に関しては一問一答を許可し、問いを行わない場合は離脱マスにもなる。離脱マスは読んで字の如くゲームを終わらせる宣言だ」
「奇数とその例外マスは分かったけど、残りのマスはなにするんだ」
「六面ダイスを俺が振る。これは偶数マスでどちらも交換を宣言しなかった場合も同様だ。二人の名前が書いてあるんだが、出た目の方にはゲームを離脱するかどうかの権利が与えられる。離脱する場合、双方の足場に震度七弱の揺れを起こす。振り落とされないようマスにしがみつくのがやっとだろう。その意味は分かるな?」
考えるまでもない、グラスを手放さずにはいられないってことだ。意地で持ってたってニトログリセリンが本物だとしたら万が一の生存もなくなるし、揺れに堪えきれず橋を落ちて大ケガだ。クソゲームここにあり。
「離脱を宣言されたときには二回まで打ち消しを許す。あまり短期決着してもつまらないからな」
「そりゃ親切にどうも、クソ野郎」
ふっと笑った立神が懐から黒光りする銃を出した。僕は後退る。ゲーム開始直前だから安心だとたかをくくって、ちょっぴりお茶目なことを言っただけなのに、ここで殺すつもりか。トリガーに指がかかってる。死への入口が僕へ向いてた。
おい、やめろ、心は広く大きく持ってくれ。
発砲。
意味がないのに腕で顔を庇う。弾は当たってない。寸前で銃口が逸らされたんだ。強化ガラスに命中したあと跳ね返り、一般家庭の倍はある高さの天井を穿ったらしい。動悸がやまない。
「これが一番重要なんだが、決着つかず橋を渡りきってしまった場合も同様に二人ともこのグロック17の餌食になってもらうからな」
そんな滅相もありません、仰せのままに。だから早く銃をしまってくれ。何度見たって射程距離内にあるのは気持ち良くない。僕には銃国家のアメリカ暮らしは無理だ、神経が衰弱して床に伏せてしまえる。
立神は親指で自分の背後を指した。
「すぐ隣の部屋でモニタリングしている。駆けつけて始末するのはイナゴを捕まえるより簡単だ、ルールにのっとってくれよ」
いまさら憤りは感じない。イナゴ捕りを冷静に想像して、ああ確かに、と思ってしまったせいでもある。
「ゲームスタートだ。エキサイティングな時間を楽しもうではないか」
立神と上戸さんがドアへ消えようとする。直前で、そうだった、と振り返った。ポケットからなにかを出して僕へ投げてくる。ナイスキャッチ。手にしたのは小柄な筒だ。ごつい金属筒で一定間隔でひだ状の構造になってる。麗葉には上戸さんが同じ物を投げ渡してた。
「それを左手の薬指にはめてくれ」
考えが読めた。まがりなりにも僕らは立神と接触して生き残ってきた者だ。薬指をコレクションするだけの価値はあるんだろう。離脱に失敗して吹っ飛んだ暁には指を奪われるんだ。拒否したところで意味はない、死んだらどの部位をくれてやったって同じだ。素直に従った。
正面に設置された大型のモニターが点灯する。全面青く、なにも映ってない。上部からにゅっと突き出たのは手のひらだ、サイコロを持ってる。テーブルを真上から撮ってるんだ。ほっそりと長い指であっても、サイコロと比較したサイズで上戸さんのものじゃないと分かる。
「ウルルン、ワイングラスを選んで持ってくるんだ」
スピーカーからの指示で個室へ入った麗葉が間もなく出てきた。橋のもとで口をぱくぱくさせてる、立神になにかを訊いてるんだ。
「グラスはマスの横にあるベルトコンベアーに載せて渡すんだ。交換時も同じ要領だな」
彼女が片方を置くと小さなシャッターが下がって開いた。ミニ回転寿司が作動する。非常にゆっくりな速度だ。ベルトコンベアーは急停止しないでだんだんと動きを緩めた。
慎重に掴む。思いのほか内容物が揺れて焦った。紙に染みこませてる程度の量であの爆発だ、塊をこぼして衝撃を与えたら粉微塵は必至。ゲーム開始前に自爆するのは馬鹿らしい。
蛍光灯に照らすとやや黄色みがかってる、匂いはない。麗葉を横目で見ると表情は変わらなかった。グラスを意識してるふうでもなくモニターを眺めてる。
本物はどっちだ。
奇数マスは交換ができるルール。スタートと同時にその権利があることになる。自分ならすぐ交換するとしても、一秒たりとも長く持ってたくない。二つのグラスから片方を選ぶ時点でニトログリセリンを相手に渡す。
迷いがある。彼女と再会したときの反応だ。彼女は俺を必要としてるんじゃないか。それなら僕には偽物を渡してくれる。
ない。
さんざん来るななんだと拒んでたのは当人だ。これは策略。彼女は立神という男を深く知ってる。こういうゲームを既に想定してたとしたらどうだ。信用させておいて罠にはめる。犯罪者の常套手段だ。噛みつくほど怒ってた彼女が正反対の極端な態度で接してきたのも納得できた。
交換すべきか。
「初めの一歩」
立神の声で一つ目のタイルへ足を踏み出す。
沈黙。僕も麗葉もなにも言わなかった。
「どちらも交換は宣言しないのか。ならばサイを振るぞ。手を離れた時点で交換の権利は失効する」
モニターに手中でサイコロを踊らせる映像。いまにも転がり落ちそうだ。
麗葉は堅く口を閉じてる。心底が全く見えない。僕は、交換、と言ってしまいそうになった。踏み留まらせたのは、もうサイコロがテーブルクロス上を跳ねてたからだ。
僕は初めから相手に本物を渡すと考えた。すぐに交換されるのも構わずに。人間は誰にでもミスがある、もし本物を持ってこけでもしたら阿呆らしい。それならやっぱりなるべく長くは持ってたくないのが心理だ、まずは僕へ渡す。
なのに交換を宣言しなかったのは彼女なら裏をかいて敢えて自分で本物を持つと考えたからだ。
どうだ、当たってるだろ。
ポーカーフェイスは崩れない。計算が狂って内心は冷や冷やしてるだろうに。
サイコロは麗葉の名前が刻んであった。離脱するかどうかの権利は彼女に託される。本当は僕の目が出てさっさと離脱するのが良かったが、彼女がどんな選択をしようとノーリスクだ。
麗葉が口を動かす。
「いいんだな、それで」
立神がくつくつと喉を鳴らしてる。奴にはどっちが本物か分かってるんだ、高みの見物でいい気なもんだな。
笑い声が響き渡る。なにがそんなにおかしいんだ、さっさと離脱しないってのを僕に伝えろ。
「ウルルン、離脱宣言」
息を呑む。
嘘だ、そんなはずはない。裏の裏をかいたってのか。麗葉の声がこっちに聞こえないのをいいことに面白くなるよう立神が適当を言ってるんじゃないのか。
いいや、彼女は抗議しない。離脱なんだ。
やられた。僕が持ってるのがニトログリセリンだ。素直に考えてれば良かった。妙な深読みが仇になってる、クソッ。
「どうした、イヴ。お前も離脱でいいのか」
「打ち消しだ!」
「あまり興奮するとこぼれるぞ」
愉快そうな笑い。
液体が激しく円を描いて揺れてるのに気づく。慌てて落ち着いた。あっちが離脱しようとしたからには限りなく本物と思っておいた方がいい。もしかしたらこれすらも罠の可能性はある。いきなり離脱と言われれば、どんなに理屈が通ってたって誰だって打ち消すだろう。本物がどっちかはもうちょっと先に進んでからでいい、焦ったら負ける。
指に汗が滲んだ。グラスが滑りやすくなった。持ち手を変えてズボンで拭う。
二マス目。
サイコロは僕の目が出た。肩の力が抜ける。麗葉が出てたら、さっきと同じく離脱を宣言する。そうしたら僕は打ち消しを全部消費してしまう。保険は残しておきたかった。
僕は離脱しない。立神の声はつまらなそうだった。エンターテインメントしたきゃ遊園地にでも行ってくれ。
三マス目。
奇数だ、ここに至るたった数分の時間が待ち遠しかった。真っ先に交換を宣言する。恐る恐るベルトコンベアーへグラスを置いた。早く向こう側へ行ってくれないのが焦れったい。シャッター部を境に偽物の入ったグラスが巡ってくる。
念のため気をつけて持った。見た目や匂いに違いはない。これで本物らしき方は麗葉へ渡った。彼女は相変わらず無表情だ。いや、前髪の奥で少し見える眉間にて微かな皺が窺える。これでもちょっとした付き合いだ、表情の変化は読み取れる。こっちが偽物の確率はぐっと高まった。
安心するのは早い。このゲームは離脱権利が与えられるサイの目が鍵になってる。離脱の権利さえもらえれば本物か偽物かどっちを持ってても爆発は免れる。十三歩という制限はあるものの、まだ前半。勝負はこれからだった。
四マス目。
サイコロは僕に幸運をもたらす。離脱を言えば麗葉は打ち消しをするだろう。ルールと攻略法が体に馴染み始めた。奇数マスで交換を行ったり来たりさせつつ離脱し、相手の打ち消し二回を使い切らせるのが正攻法なんだ。おそらくあと数歩でどっちかの打ち消し権利は消える。
麗葉だって分かってる。ルールが単純なだけに防ぎようがない。
僕は祈るように、離脱、を口にする。
彼女が前髪の内側でまぶたを閉じる。再び開かれた目は苦渋に満ちてた。
「ウルルン、打ち消し」
ガッツポーズをする。よしよし、推測は外れてなかった。なにか想像もつかない行動に出るんじゃないかと一抹の不安があった。一定の小さなルール内に立てば対抗できなくはないんだ。いま僕は彼女を凌駕してる。
本物は向こうだ。
五マス目。
奇数マスだ。交換が宣言された。まぁそう来るだろう。ゲームの性質上、グラスは何回か往復することになる。ベルトコンベアーをほぼ本物確定の液体が流れてきた。
手が震える。緊張が究極に高まってた。もう片方で手首を押さえ、呼吸を落ち着けた。麗葉は涼しい顔をしてる。僕が対戦者で余裕面かい。読み合いが難しくなるのはきっと半分以降だ。
六マス目。
「一問一答マスだ。質問者と回答者をサイコロで決めるぞ」
そういえば初めのルール説明で言ってた。六、一〇マス目は手掛かりを聞き出せる。
交換時に使用するシャッターが全て開いていった。これで防音性はなくなったに等しい。
サイコロは、またも僕だ。ツいてる、完全に運が傾いてる。
いざ質問するとなるとなにも浮かばない。六マス目じゃ機が熟してない感じがする。
重要なのは一〇マス目だ。あとたったの四歩、されど四歩。数メートル程度で互いの思考はぐちゃぐちゃに絡まるに違いない。麗葉は初めからどっちが本物かを知ってるから、どうやって偽物を奪うかが問題になってくる。一見、僕が不利でいて、実のところは違う。彼女の選択を見て分かる通り、どうしたって本物か偽物かについては中間あたりで見当がついてきてしまう。戦いはいかに偽物を奪取して離脱するかに終着していくんだ。
てことは、この六マス目に大した価値はない。どうでもいい質問を一応訊いてみる。
「俺の持ってる方が本物だな?」
「違う」
短い応えのあと、シャッターが一斉に閉まった。ずばりと的中させた動揺をちょっとは見れるかと思ったのに彼女は無表情のままだ。
気にかかるのは、ここにきての嘘だった。あくまでも否定する理由がどこにある。仮に真実だとして、それならどうして交換したんだ。
良くない傾向だった。麗葉が相手となると否が応でも深く考えてしまう。
もしや、そんなまさか、一番初めに持ったのがニトログリセリンじゃなかったとしたらどうなる。あのとき僕はてっきり自分が掴まされたと思ってた。一マス目、離脱をされたら打ち消しをするしかない。そのせいで裏の裏をかかれて本物だと思ったんだ。こっちが打ち消さなかったら麗葉は死ぬことになる。確率はあってもなかなかそんな捨て身にはなれない。
微妙に焦ったあの表情が演技だとしたら全部が逆ってことになる。現にこうしてまんまと騙されて効果も大きい。恐怖に打ち勝てる精神があれば難なく実行できるだろう。
彼女にはそれがある。
立神にスカウトされるほどの人間で機知に富んでる。躊躇いなく銃を発砲し、ストーカー野郎を退治する犯罪者だ。なによりも僕の人生を大きく変えた張本人。母親を殺し、逃走の間で自分勝手に無関係な家族をまきこんで、予想してなかった生活へ送りこむような奴。常識なんてとっくに逸脱してる、普通に考えちゃいけないんだ。
僕を雇った時点で麗葉は事故の対象者である相原伊吹だと気づいてた。携帯を返してもらったあの日には、事故にかかわりあった人間だ、と。
以前に僕は、莫大なバイト代で謝罪をしてくれようとしてるんじゃないかと考えたことがある。それも違うのかもしれない。雑用で二万円なんて日給があれば辞めたくたって辞められない。おまけに立神が現れて、しょうがなく麗葉に縛られた。そうして頃合いを見計らって殺すつもりだったんじゃないか?
事故当時のことは、そうはっきりとは覚えてない。曖昧で証拠能力はないし、彼女はあのとき十四歳未満だった。しかし法律に左右されない麗葉にしたら関係ないってこともある。いつ口を割るとも分からない人間は傍に置いておく方が安全だ。微々たるもんでも法に裁かれかねない要因があるなら彼女は、いつか根本から消そうとする。
いまこのゲーム参加中がもっとも証拠隠滅には適してる。立神をも利用する悪女。あんたがいなければ上戸さんが立神の手に落ちることもなかったんだ。麗葉がいなければ綾木だって嫉妬でストーカー事件をややこしくして事態を悪化させず、僕が事前に食い止めてた。実家に戻る必要もなかった。みんな和気あいあいに暮らせてた。
負けてたまるか。死ぬのはあんただ、麗葉。
次話更新予定は11/28です。
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