異世界モノに飽きたあなたのための物語
ながいよ。
今日の夜明けは美術館で過ごした。
まだ暗く、何も見えない廊下を歩いた先に、その絵はある。少し見つけるのに苦労するけど、僕はその絵を朝、まだ赤くいじけた黎明の光の中で見るのが好きだった。
朝の冷たい空気は古臭い木の香りと混じり、すうっと吹く風に舞い上がった埃が緋に染まった。
僕が、窓に向かってふう、と息を吐くと、それは白く姿を変え、視界を一瞬曇らせた。
いよいよ昇ってきた朝日が、窓の向こうに見えた。その光はとろけていて、ゆらゆらとしていた。
ああ、なんて綺麗なんだなんて気障なことは言わない。ひたすらの静寂の中に、明かりに照らされた絵が浮かび上がる。
それはむしろ、闇が強調され、黒が強く訴えかけてくる絵となった。
僕はとにかく、今この瞬間が好きだった。
日がすっかり昇り切って、鳥たちのさえずりがよく聞こえてくる頃、僕は青く沈んだ自分の部屋にいた。
使用人たちがせかせかと働く音が聞こえる。
僕はというと、毛布にくるまり、朝食の時間を待っていた。この国に来てからはやいもので、2年がたつ。
僕はこの国のお城に住む王様だった。
パンのかけらが落ちても気にしない。朝食は思いのほか早く終わってしまった。
僕は腹ごなしの散歩にと、城の庭を歩くことにした。窓から見るのも好きだが、僕はこの庭が好きであった。
色とりどりの花、僕が世界各地で集めた彫刻、僕が歩くこの道も、遠く離れた国のものを真似て作らせた。
さながら楽園。僕の生き様、僕の生きた勲章がこの場所に集められていた。
この国の王、僕こそがこの国の全てを知っているんだということを僕はここで強く感じられた。
国政についての資料漁りで今日は終わってしまった。もう少し昼間のうちにやっておきたかったこともあったが、仕方ない。この国のためならば、と僕は疲れた体を起こした。
最近は水不足ということもあり、湯浴みは週に一回か二回程度だ。今日はちょうどその日で、しばらくぶりにさっぱりすることができた。
夜の風が濡れた髪に当たって少し気味が悪かった。そういえば最近髪を切って無いな、と髪と一緒に伸び放題となっている無精髭を撫でる。かなり伸びていたので驚いた。
王様は文句を言われないからどうしたって自分の見た目に気をかけなくなる。
今度整えようか。うん、そうしよう。夜の闇に約束して、僕は寝床に向かった。
もうだいぶ夜も更けているようで、外も場内も物音がほとんどしなかった。
僕は窓の外で輝く星々をしばらく数えてから、心地よい微睡みに身を任せた。
この国の季節ははっきり言って、あまり表情がない。冬であろうと、春であろうと草は萌え、秋に葉が少し落ちることがあっても、裸になった木を見ることはない。
一年を通して温暖な気候のこの国は、起伏も少なく、極めてのっぺりとした国だった。どこまでも続く地平線は、遥か彼方にあるはずの海を覆い隠し、無限に続く草原がそこにあるようだった。
日を遮る山もなく、鬱蒼とした森もない。
平凡そのものの国に、危機があったことなんてもう誰もがきっと忘れているだろう。
僕がこの国に初めて来た時、大地は裸で荒れ果てていて、空は常に曇天で埋め尽くされていた。民の声も聞こえず、ただ吹く風が揺らす瓦礫の音がするだけであった。
言い得て荒地。
北に向かった先にある大穴から這い出る化け物のせいであった。その化け物は常に民に無理な要求をし、貢物に気を損ねれば大地ごと人々を叩き割るという悪行を重ねていた。
人々は願った。
この苦しみから解放されることを。
人々は待った。
英雄の来訪を。
そんな時に僕がやって来た。当然、僕はただの旅人であった。だけど、人々が苦しんでいる姿を見てなんとも思わないような奴ではなかった。
僕はきっと化け物を倒して見せると、本当はできる自信なんかひとっつもないにも関わらず、言い放ったのだった。
今日は寝坊をしてしまった。肉が焼かれる匂いにつられて目を覚ますと、もうすっかり外の空が明るくなっていた。かなり深く寝入っていたようだった。あの絵をまた見に行こうとと思っていたのだったが、まぁ仕方ない。また今晩起き出して見に行けばいい。
どうせ変わらずそこにあるのだから。
遠い西にいる教皇から来た手紙に目を通しながら、僕は今朝見た夢の続きに思いを馳せていた。
僕が初めてこの地にやって来た時。
その前の記憶はひどく曖昧だ。理由はわからない。ただ、この地に来るまで長く辛い旅をしてきた気がする。その果てで、僕はこの地の荒れようを見てなんとかしたいと思った。
教皇の手紙には、異教徒討伐のための軍の要請が書かれていた。聖地を取り戻す、というのが大義名分だが、あらかた自分の領土を増やしたいだけだろう。そのために自らのいうことを聞かない異教徒が邪魔になったわけだ。
自分のものでもない土地を取り返すために駆り出される騎士たちが気の毒であった。しかし、ここで断るとこの僕の王様としての沽券に関わってくる。
あとで宰相たちと吟味しよう。と、僕はそこで長いため息を吐いた。
僕は冠を被り直し、再びあの庭を散歩しようと思った。幸い、昼までに終わらせなくてはならない仕事は全て片付いた。午後には謁見が続くというが、まぁ昼色前の散歩くらいは許されるだろう。泥がつかないように気を払いさえすればいい。
庭園の右奥、隅の方には小さな台座が置いてある。そこに飾られているのは僕が最初にこの地に来た時に持っていた石版だ。
未だに自分がどこからやって来たかわからない僕は、その石版をなぜ持って来たのか、その石版に刻まれた文字が何を意味するのかが全く分からなかった。
本来ならばこういったものは室内に保管されるが、僕はどうもこの石版が自分の近くにあるのが嫌で、結局庭園の端に飾ることで今まで所有していたのであった。
一応、雨風がしのげるように小さな屋根が付いている台座に、埋め込まれるようにして飾られているその石版を、僕はそっと撫でた。
感触はとても滑らかなもので、およそ石とは思えないほどであった。過去を諦めた僕が、この石版を使うことは、もう二度とないだろう。そう、この前にも先にも、あの化け物退治の時だけだ。
化け物退治を買って出た僕は、旅を続けその噂の大穴のところまでやって来た。
人間の尺というものが使えないくらいに大きなその大穴を、僕は目の前にしていかような化け物がその頭をのぞかせるのだろうかと恐怖した。
その時、僕は石版が明かりをまとっていることに気づいた。僕はどうしてか、すぐにやるべきことがわかった。石版を取り出して、僕はそれを天高く掲げた。
すると、どこからともなく地響きがして、大穴の上部から、うねるようにして大地が穴を覆い隠した。穴はかくして塞がれたのであった。
厚い岩盤さえも貫くような力は、しかして怪物にはなかった。
帰還した僕に、多くの人々が喜びの声をかけてくれた。断絶した王朝に、僕の玉座が用意されたのは間も無くのことであった。
ああ、こんな僕でも、人の役に立って、人に大事にされるようなことがあるんだ。僕は言い知れない感慨に浸った。王と名乗ってしばらく、僕は荒れ果てた大地を耕し、人々が再び自らの国を持てるように、さまざまな政策を打ち出した。諸国を訪問し、多くの文化を取り入れた。畑を耕し、糧となした。
僕には血筋も後ろ盾もない。所詮は余所者。あるのは武勇と民衆の信用のみ。ならば僕は民衆の期待に沿うように尽力するのみ。
それが僕の在り方だと信じてここまでやって来た。
石版は台座に。僕は玉座に。共に自分の役割を果たすのみの存在だ。
約束の謁見の時間より少し先に、使節はやって来た。東方からの使節団というそれは、建国して一年目となるこの王国に対する挨拶をするということだった。
外套を着ているので体の輪郭は見えない。顔まで深く被るのは本国が砂漠にあるゆえの習わしなのだろう。 異教のそれと見られる服の装飾は派手で、あちらこちらに鎖のようなものをあしらえてあった。金、いや銀にも見える。貴金属は浄化の力があるというが、そういうことなのだろうか。
そのうち、この使節団の長らしき先頭の者が僕の前、この国の応接間に入った。
そして、外套を脱いだ。
僕は少し驚いた。外套に隠されていたのは可憐な少女であったからだ。
浅黒い肌に、黒い髪。まっすぐこちらの目を見るそれは礼儀作法、身分などというものを超越した、明確な意思のようなものを強く感じさせた。
少女が僕の前まで進み、跪く。すらりと伸びた四肢が美しく折れ曲がった。
「建国から一年、誠におめでとうございます。我々は東方よりきたる礼儀の風。神の祝福を貴君、貴国に届けに参りました。」
大仰な物言いはいかにも異国らしい。それから、献上品が運び込まれた。
見たことのない食べ物や、見たこともない文書が持ち込まれた。他にも、あちらから連れてきた猛獣や、毛皮なんかが渡された。
僕は一品ずつ、それがどんなものであるのか説明に聞き入っていた。
しばらくして僕個人に対する贈り物が紹介された。なるほど最後に持ち込んで機嫌を取ろうということかもしれない。
まずは宝石を散りばめた首飾り、それに今流行りの帽子、ガラス製の筆記具なんかもあった。
そして最後に取り出されたのは剣であった。それはこの土地には見られない形のもので、ひどく背にかけて湾曲した刃が付いていた。つばには金細工が施され、よく見れば赤い宝石もはめられていた。
彼女は言った。
「この劔はは北方の大怪物をたった一人で討伐した貴君に授けられます。これは王の剣。これを我らが王はあなたに預けるとおっしゃった」
僕は話に少し含みがあるのが気になった。
「僕の伝説はもうそちらに伝わったのか。さすがは大帝国の帝であられるお方だ」
「ええ、もちろんでございます。我らが王はその武勇をお認めなさったのです」
「認めた、とは?」
「わが属国になることを許そうと、そうおっしゃったのです。この剣は本来、王の深い信頼を勝ち得た諸侯のみが預けられるもの。この剣を受け取り、我が帝国の未来を共に見ようと、そうおっしゃったのです」
「聞いたことがある。貴国の王は十三人の伝説を持つ者を配下に置く。それを持って王は神話の保護者となり、現人神とされる」
「全ては我らが王が夢見、生んだ奇跡なのでございます」
「その伝説に加えていただけるとおっしゃるのか」
「はい。左様でございます。さぁ、この劔はをお受け取りください貴君はこれで正式な、神の祝福を得た一国の王となるのです」
「逆らえば…?」
「きっと神の怒りが貴君を地に磔け、国を蹂躙し、裁きとするでしょう」
要はこの地を言葉でとるか、暴力でとるかであると、この応接間にいる誰もが理解していた。
「ならば僕にできる答えは一つしかない」
僕は彼女の持つ剣を受け取る。鞘から抜かれた刃がぬらりと鈍く光る。大きさの割に軽い。しかしそれでいて振るのには程よい重さであった。なるほど、無駄のようで無駄のない、そんな東国の在り方がしっかりと受け継がれた剣であった。
「化け物に支配されるのは一回きりで十分だと伝えてくれ」
鋭い閃きで僕の劔が彼女の首に噛み付く。
驚愕の表情のまま、その首が跳ね飛ばされた。
「君たちのいう神の国でね」
僕の言葉を合図に、近衛兵が使節団に襲いかかる。勝敗はすぐについた。
このニ年の間に僕は自分を含めた軍備の再編成に努めていたのであった。化け物から譲り受けた地、今度は人から守らねばという危惧からだった。
応接間は地獄と化した。少女の血から始まり、床のいたるところに血飛沫が飛んでいる。屍は重なり山となっていた。
これは明確な宣戦布告だ。
さぁ、これからは戦争を頭に入れていかねば、などと僕が思いながら玉座に座ると、妙なことがきた。
あの少女の首がこちらを睨め付けていたのだった。
そして、不意に口が開いたと思えば、ガラス瓶の王がなにを言うかと、そう言ったのだ。
ガラス瓶。
僕は固まる。身体から意識は遠くなり、僕はその場で縫い付けられる。
彼女はなおも言葉を続けた。
貴様はなにも成し遂げていない。
大穴なんて始めから存在しない。
何を言っている。あれは僕が塞いだ。化け物は岩盤の下敷きになって潰れ死んだ。だけど。ああそうだ、近衛兵にこの首を片付けるように言わなければ。これは幻覚だ。
僕は大声で首を指して連れていくように言った。だが。
だが、だれもこなかった。
近衛兵?何をバカなことを言っていると、もはや白眼しか見えない生首が叫ぶ。
近衛兵なんていない。
貴様は王でもなんでもない。
くそ。なんだ。なんだこの生首は。およそ人間の仕業ではない。
脂汗が目に入り視界をかき乱す。いやこれは涙か、もう何も見えない。
人間の仕業ではない。人間の仕業ではない。
彼女は僕の心を読んだかのようにそう続けた。
人間の仕業ではない人間のしわざニンゲンのし技人間の仕業ではない当たり前だ。なぜなら。
視界が歪み始めている僕は自分の手が見えた。
ニ年で培ったはずの筋肉隆々な腕はいつのまにか皮と骨のみのそれになっていた。
人間のしわざなどなわけがわけがわけがわけがなななななないのだよ。生首はまだ続けている。
なぜなら。
彼女がいう。
なぜなら。
ああ、やめてくれ。
僕の視界は徐々にはっきりと見えるようになって行った。
なぜなら。
その理由だけは言ってはならない。
視界が晴れ、周りが見える。僕が倒れているここは、もはや王城の応接間などではなかった。
なぜなら、はじめから、何も存在しないから。
生首はそういうと、夕方の赤い光に呑み込まれて消えた。
音が消えた。それは震える空気がなくなったように、鉛の静寂を落とした。
赤。
夕焼け。
僕はガラスの貼られた、コンピュータの稼働音がする、フローリング張りの一室にいた。
生暖かい床に頬がめり込んでいるのがわかる。
僕は覚めてしまったんだ。
僕は正義を貫いたつもりだった。
虐められていたあの子を、見捨てて置けなかったんだ。
あの日、上履きがまた掃除用具入れに隠されるのを僕は見ていた。
朝のホームルームで、僕は掃除用具入れからそれを取り出し、担任にわざと、見せつけるようにして彼女にそれを渡した。
「これを見てどう思いますか?」
僕は言い放った。
誰しもが口を開けて僕を見つめるだけであった。それが理解できなかった。なされるべきことをして、なしたものが奇怪のめでみられることが恐ろしく感じた。
その日、僕は担任からの曖昧な同意とあの子からのありがとうをもらって帰った。
その日を境に、僕が遊びの標的となった。最初は気にしないようにしていた。ただ、ある日、それは限界を迎えた。
僕が密かに想いを寄せていた娘に、僕の思いの内が明かされた。それはキモいの一言で片付けられたちっぽけなものだった。
僕は激昂し、そのふざけた連中に詰め寄った。しかし、もちろん腕っぷしで勝てるはずもなく、僕は意識を失うまでその場で殴られることになった。
それからは長い長い二日が過ぎた。多くの話し合い、謝罪、狭い町ではすぐにうわさが広がった。僕はいじめの末に殴りあいを起こし敗北した敗者となった。
ほとぼりが冷めてしばらくたった帰り道、僕はあの子にごめんねと言われた。あの娘に嫌われたのは自分のせいだなんて言っていた。
きっと僕はどうかしていたのだろう。そんなはずがないのに、
「お前のせいだ!どうしてくれる!?お前なんかのせいで、僕は学校中の、町中の笑われ者だ!どうして!お前みたいな不細工のために!」
なんて口走ってしまった。言った直後、僕はあの子の顔も見られなかった。
あの子のせいなんかじゃないことは百も承知だった。自分の言動に耐え切れず、自己嫌悪に耐え切れず、僕はその場で吐いてしまった。
あの子が何かを言ったようだったが、何も聞き取れやしない。走り去る足音がした。僕は四つん這いになって胃の中のもの全てを吐き出していた。怒り、後悔、羞恥、悲しさがこみ上げ、誰にも見られたく無い顔を僕は吐瀉物に埋めた。
気味の悪い生温かさに、砂利と半分消化されたパンかなにかの中は、ひどく心地よかった。
そのあとは呆けて帰り道を歩いた。
僕は無性に消えたくなった。
別に失恋したからではない。
町のピエロになったからでもない。
ただ、もう、疲れてしまった。
人であることに疲れてしまった。
もう、こんな世界ならばと、僕は吐瀉物にまみれたまま、高い橋から飛び降りた。
風邪を切る音と、額まで届く心臓の音はよく覚えている。飛ぼうとしたのに、飛び跳ねられなくてずり落ちたんだっけ。
落ちた瞬間はよく覚えていない。
気がつくと、僕は病院にいた。
僕は自分のしたことの恐ろしさに、後になって気がついた。
迷惑をかけたはずなのに、両親はとにかく笑顔で僕に接してくれた。胸が痛んだ。
しばらくすると、校長と教頭が頭を下げに来た。僕はなにも言わず、何を言えばいいかも分からず、両親が二人を連れて部屋を出ていくまでじっと、そのハゲ頭を見つめていた。
形ばかりの見舞いの手紙が何枚か送られてきた。読む気も起こらず、全てゴミとして捨てた。そのうちの一枚には、あの担任の元気になったら一緒にうんたらなんていう色紙があった気がした。
入院も短く、一週間もしたら僕は病院から追い出された。残ったのは空っぽになった心と、右腕から胸にかけて縫われた傷だけだった。
僕は学校に席を残したまま、しばらく療養ということで休暇を与えられた。
ただ、その頃にはもう、僕が外で座る席なんてものはなかった。
夕焼け空、部活帰りの中坊たちが自転車で走り去って行くのを僕は窓から眺めていた。
外に出なくなってから一ヶ月が経っていた。
両親は気を遣ってくれているようで、外出の用事に少しでも僕が難色をみせると、必要なものはないか、なにか食べたいものはないかと聞いてから僕を残して出かけていくようになった。
僕は最初こそ罪悪感に囚われていたものの、最近はそんなに気にしないようになっていた。
外に出たところで僕のできることって何だろう。地域の人間に僕の一件は知れ渡っている。外に出て浴びるのは憐れみと嘲笑の視線だけだ。一番最悪なのは当のクラスメートに会うことだ。できればもう一生会いたくない類の人間たちだ。
そんなことを思うと、外に出て行くのが億劫になって、途端に“外”が遠いものに感じられるようになった。それでも外と僕とを隔てる窓ガラス一枚の向こうでは、そんな忌まわしき外で楽しそうに生きている奴がたくさんいた。
ガラスを揺らすほど大きな声で笑いながら、数人の中坊を走り過ぎる。自転車を押しながら、妙に距離の近い 男女の中坊が続いた。
最近よくネットで耳にする曲を口ずさみながら帰る奴もいた。
僕も試しに歌って見るが、ひどくしわがれていて、調子外れだった。
カーテンを閉じた。
薄暗くなった室内はまだ夜になりきれていなくて、昼間の残滓が残ったままだった。
外に出なくなってから、もうどれくらい経ったのだろう。僕は日付を見ることがなくなていた。いや、見るのを避けていただけだったのかもしれない。日に日に進む暦を見ると、言いようもない焦燥感にかられるからだった。
閉め切ったカーテンの向こうから、細かい蝉の鳴く声が聞こえる。もう夏、あれから、いや、なんでもない。
急いで思考を切り替える。
閉じたままのカーテンから青白い光が漏れ出し、部屋の中を照らしていた。
パチパチ、とパソコンのキーボードを鳴らす。最近のお気に入りの暇つぶしはオカルト板だった。
最近、不思議なものを見るようになったので、なんなのだろうと検索した先でたどり着いてから始まり、今や僕の趣味となったのだ。
不思議なものはというと、今は放っておいたままで経過を観察している。
それは小さな馬であった。薬の小瓶くらいの大きさで、部屋の中を駆け回る、小さな馬。
初めて見たのは少し前、朝日で照らされた床で影が蠢いていると思ったら、小さな馬が走っている姿だった。
その後はちょくちょく見かけるようになり、最近だと僕の足元まで近づいてくることもあった。
ある日、いつものように気配を感じて下を見おろすと、蠢く影が特別黒くなっていた。
よく見ると、小さな馬に、小さな騎士が跨っていた。
それは童話に出てくるような甲冑の騎士で、小さな体で小さな槍を携えていた。どうしようか。捕まえてやろうか。などと考えてるうちに、瞬きでそれは消えてしまった。
小瓶の騎士だ、と僕は笑った。
それから何ヶ月かして、暦を気にしない僕でも一年が過ぎ去ったことを察した。
人間とはゲンキンなもので、事故当時はあんなに親身になってくれた両親も、言葉の端々に含みを持たせるようになった。
いつまでもいじけている息子にいい加減苛立ちを覚え始めているのだろう。社会に生きる者にとって僕のような肉親はただの重荷でしかない。
見る目が変わるなんてのはよく言われるが全くその通りだった。
僕はと言うとそんな言葉や視線にいちいちビクついていた。
こんな生活がいつまでも許されるはずがないと、そう思うたびに焦燥が僕を苦しめた。胃がキリキリと痛み、時には吐き、汗が吹き出た。動悸がして呼吸が早くなって、途端に頭が熱くなった。
そんな時だった。あの小瓶の騎士が現れるのは。
僕が苦しむたび、僕がもがく度にあの騎士は小さな馬にまたがって現れる。不思議と、その姿を見ると僕は楽になった。重荷が取り払われるみたいに、心が軽くなる気がした。
ある日、僕がいつものように深夜に一人、苦しみに苛まれていると、カーテンから漏れる月明かりの中に小瓶の騎士は躍り出た。僕は早まった呼吸を整えながらその姿を眺めていた。
と、騎士の姿が二重に見えた。目をこすると、今度は三重にみえた。
目のせいではないと気づくと、そこには小さな騎士の軍団ができていた。まるで僕を守ろうとしてくれている騎士団のようだな、なんて思った。
そうか。
そうだったんだ。
僕は名案を思いついた。
ここは僕の国だ。
国には領土が必要だ、この部屋がいい。
国には国民が必要だ、騎士団が付いてきてくれるだろう。
国には主権が必要だ、僕が王様となろう。
嗚呼、なんでこんなことに気づかなかったんだろう、僕がこの国で一番偉いんだ、だって僕が一番苦労しているのだもの。
外なんてどうだっていい、国同士の文句の言い合いは日常茶飯事だ、全部無視してしまおう。
僕は王様、僕はおうさま。
国民が僕を肯定してくれる。国民なら僕をわかってくれる。国民は僕を必要としてくれる。国民なら僕に優しくしてくれる。
僕は王様。僕はおうさま。
なんて素晴らしい響きなのだろう。
ドアなんてものはない、これは化け物の這い出る大穴だ。
これさえ塞げばこの国は安泰だ。
僕はこの大穴を塞いだ大英雄だ。
僕は誰が何と言おうと王様だ。
遠くでパトカーかなにかのサイレンが聞こえる。僕は未だ、床に頬を貼り付けたまま、微動だにせず、ただ闇を見つめていた。
人の目はおかしなもので、闇を捏ねて練って色々なものを見せてくれる。
人の頭は言うことを聞かないもので、どんなに嫌な記憶でも少しのきっかけで引っ張り出してくる。
床に押し当てられた胸が膨らむ。ごう、ごうと圧縮された空気が腹の下で聞こえた。喉はひどく乾いていて、頭は灼けた砂を入れらたように苦しく思えた。
もう今の僕に、小瓶の騎士は見えなかった。
僕は結局、この一部屋から出ることもなく、何一つ変わることも、成し遂げることもなく、王様としての物語を読み終わってしまったようだ。
無。
僕は空しかった。ただひたすらの虚無を感じた。そのとき、僕の中の支え、薄氷が音を立てることさえできずに割れ、崩れた。
僕は引き出しを開けた。埃が舞って一瞬身を引いた。おもむろに手を突っ込み、あの感触を探した。
僕の無へのキップ。
ジャラジャラとしばらく鳴らした後、僕は見つけた。それは冷たくて、小さくて。
カチリ、カチリとそれは伸びた。
ああ、これだ。これが、キップ。
銀とも青とも取れる光が刃先を舐める。僕の息で時折曇る様子も見えた。でもこれで曇るのも最後。
これが、僕のキップ。
僕は左腕の袖をまくった。
僕が無なのに無を求めるのは。
歯を高く掲げるのと一緒に、僕の鼓動も高鳴る。高鳴っているのだ。そう、僕は見つけたんだ。
無になろうとするのに無であって無じゃ無いのは。
はっ、はっ、と口から息が漏れ出す。さぁ。
僕が僕であるからだ。
光の波が僕の全てを洗い流した。僕は垂直に、左腕の真ん中に、刃を突き立てた。
あああああああああああ、え、えぐる、僕は抉る。湿った感触は時折固くなったり、柔らかくなったりする。初めは何もなかった刃先は今、血の水たまりに沈んでいた。
はっ、はっ、あああああああああ!進め!あああはは!進むんだ!刃は手首に!あはああああああ少しずつ近く!
があああああああああああっあああああああああああ!
僕は決めた。無は無であるべきで、そのためには無にならなくてはならない。
ならば、僕は、僕を脱ぐことにした。
邪魔臭い肉袋を、糞と屎尿が詰まったこの贓物入れを、命などという下らないものにこだわり、自分を肯定したいがために幸せなんていうものに自分を当てはめようとし続けるただの子作りしたいしたい君を亡くすことにした。
くっああああああああああっ!でた!刃が手首から飛び出した!僕の腕に残った腕の一部だったものは、袖を脱いだよう剥げた。シワも何もかもそのままずるりと脱げた。
いつのまにか肘も手も血でべとべとに濡れていた。
吐き気がする。額は脂汗でぎとぎとだった。拭おうとすると、表面が剥けた後の肉が僕の額をぼろぼろと撫でた。
頭がぼうっとする。
身体中は熱く、そしてありとあらゆるいろんな体液で濡れていた。
視界が揺れた。やがて端からうす黒い紫色に染まり出した。僕はキップを握りしめたまま、休憩をしようと横になった。
それが僕の覚えている最後の瞬間だった。
しばらくして、僕は眩しいところに出された。
目を固く閉じないと光が漏れて入ってくる。顔が光で焼けているようでじんわりと温かくなった。
起きるのを拒むと、大声で怒鳴られた。もう朝なのだろうか。
だけど僕には遅刻する学校もない。もっというと遅刻する、いやできる居場所もない。
起きる理由なんかない。
僕は必死に起きるのを拒んだ。もうやめてくれ。僕はムカついて来た。仕返しに大声で叫び返してやった。
煩い声が止むと、どっと疲労を感じるようになった。
再び、僕の意識は闇に溶け出した。
僕は、ひどく乾いたベッドの上で目覚めた。体はまるで砂でできているかのように重くて、少しでも動けば崩れてしまいそうだった。
ああ、僕はまたここに来てしまったのか。
結局、僕は何もできなかった。
僕というものをそのまま在り続けさせてあげることもできなければ、否定してしまって無になりきることもできなかった。
視界が滲む。口角が引っ張られる。
目頭は熱くなり、口元からは熱い空気が漏れ出た。ついでに嗚咽も。
僕は泣いていた、両腕に傷を抱える僕はそれを拭うこともできない。
どうして。
どうして。
僕には分からなかった。僕は世界から見放され、見放した。逃げ込んだ先の幻想にも愛想をつれてここに至った。でも、僕はここにいた。この世界に。どんなに拒んでも、どんなに嫌でも居続けた。
どうして。
どうして。
どうしようもなくかっこ悪くて、情けなくて、でも抑えられなくて。
僕は泣いた。久しぶりに泣いた。赤ん坊みたいに。涙がしょっぱくて、何も見えなくて。
ずっとずっと溜めてきた涙が頬を伝って、首に落ちて。熱くて、でもそれが心地よくて。
僕は見放された。いつ。だれに。どうやって。僕は見放された?
僕は見放した。あの冬。僕が。幻想に己自身を封じて。僕は見放した。
嗚呼、そういうことだったんだ。
僕がここにいるのは。
僕は苦しみの末に自分の意味を見失った。すべての人に自分を否定されたような気がしていた。だから僕は自分の意味を問い続けた。
でも本当に欲しかったものは違った。
僕は自分の居場所が欲しかった。自分の居ていい場所を、自分だけの場所が欲しかった。自分こそが必要な場所が欲しかった。それは一度崩れてしまって、ひどく不格好で。崩れ、汚くなった椅子に僕は座りたくなくて、僕は自分自身で椅子を別に用意することにした。
それはかっこよくて、キラキラしていて。でもお素人仕事は駄目だな。すぐに釘が抜けて、足が折れてしまった。
それでも。あの椅子は、そこにあり続けた。どんなに埃をかぶってしまっても。どんなに傷を負っても。どれだけ蹴られようと、どれだけ砕かれようと、そこにあり続けた。たとえどんなに不格好であっても、だれに罵倒されようとも立ち続け、僕だけを待っていてくれた。
それは僕。僕自身。
一国の王様でもなければ、怪物を倒した大英雄でもない僕自身。
あの時、あの子を罵って、公で吐いたりもした。
自分の想いを明かされて、絶望したりもした。
笑われ者にもなった。
だけど、それでも、誰も直そうとしない諦めの重圧に抗い、自分の良しとすることをやり遂げたのも僕だ。
下らない正義感かもしれない。どこにでもあるような勇気かもしれない。もしかしたら勇気でもない、無謀だったのかもしれない。
結果として僕は、僕のままでいたから絶望し。世界を憎んだ。世界から消えたがった。
だけど。
その僕がまだここにいる。ここに居られている。
僕が見放した世界が結局、僕を一番肯定してくれていた。
その証拠に、世界を否定し続けたこんな僕でさえ消えずにここにいる。
僕の居場所は相変わらず崩れていて不細工だけど、そこにあった。だったら、僕はその椅子に座りなおそうとも思えた。
時間がかかっても、誰がどんな目で見ようとも、自分の居場所を、僕自身を、磨き上げて、作り直して。
誰もが居ていい世界なんだって僕は教えてもらったから。
誰もが許されているから。
生き続けようって。
ここまで読んでくれたあなたへ。僕はどう映っただろうか。僕の姿はどうだっただろうか。かっこいい訳がないのは分かっている。バカだなって、笑った人もいるだろう。こんなにつまらないこと、当たり前のことに悩んでいるのかって、呆れた人もきっといたに違いない。それならそうで結構。
でも当たり前って、なんなんだろうね。
悪は正すべき。教科書にはそう載っているのに、実際に正そうとすると、出過ぎた釘のように叩きねじ伏せられることもしばしばだ。挙句の果てに、それで落ち込んでいると、”当たり前”を振りかざして、上に敷いてしまって、万事解決しようとする人がいることも忘れないでほしい。
つまらなかったかな。拙い語りでごめん。
最後に、書き連ねようと思う。僕らの世界は一見してとても頑丈なものに見える。約束は絶対。法律は厳守。国を壊そうなんて人もそうそういないだろう。
絶対なる権力。崩せない城壁。
でも所詮は全てヒトの成したことだ。
生まれ、ただ死にゆくたんぱく質の循環が勝手に決めた書類の数々が重なっているだけ。すこし強い風でも吹けばあっけなく散ってしまうだろう。とんでもなくいい加減なものだ。
絶対なんてものはない。無情かつ無情のうちにすべてはある。
ここからは有名な経典からの引用になるが、すべてが無常であるならば、いずれ変わりゆく先でどうにでも変わるだろうということらしい。はじめから無いような所から生まれた苦しみならば、はじめから無いのだから、”無い”んだったら、そんなものに拘る必要はないんだ。
そう思って、それで少しでも楽になれたのなら、楽に生きられるのなら十分に儲けものだ。
君は君のまま、時に苦しみと向き合って、時にはそんなもの無視してしまって、君らしく生きていればいいのだと、世界はそんな君のための舞台なのだと、僕は思う。
だからまぁ、異世界じゃなくて、こっちの舞台で舞ってみないかい、って言いたいだけだ。
正直これ全部読むんだったら般若心経読んだ方が二億倍マシな気がする。